二階のジムに併設されたシャワールームで冷えた体を温め、制服を着替えて休憩室に戻ってくると、百手が手を招いていた。

すみません。結局うまくいきませんでした

百手

そうかい。彼女自身もなかなか気難しいからね

富良野さん見つかりましたか?

百手

いいや。でも小木曽くんが探しにいったし、きっと大丈夫だよ

ジーナ

要様、おケガはありませんでしたか?

ケガも何も。ただ水をかけられただけだよ

ジーナ

私も少し辺りを探してみたのですが、あれであの子運動は得意な方ですから

普段動かないから生かされない事実だ

そっか来て早々迷惑かけたね

ジーナ

いえ。またあの子がむちゃくちゃなことを言ったのでしょう? 要様は悪くありませんわ

そうだったらいいんだけどね

結局自分のわがままを押し通そうとするのは俺も同じかな

 濡れた髪を拭きつつ、要はぼんやりと考える。

 このまともな人間が一人もいない空間で、普通を押し通すことなど無意味なことだ。

でもどうして富良野さんって人に指示されるのが嫌なんだろう?

ジーナ

それは、本人に聞いてみないとわかりませんわね

ジーナさんも知らないの?

ジーナ

ええ。あの子はあまり自分のことは多く語りませんから

あんなにおしゃべりに見えるのに

百手

彼女のこと、知りたくなったかい?

 要の疑問に答えるように百手が口を挟んだ。

あ、床の掃除、店長がやってくださったんですよね? ありがとうございます

百手

そんな礼を言われるほどのことじゃないさ

お店のほうは大丈夫ですか?

百手

すっかり空っぽだよ。僕が窓を掃除していた甲斐があるってもんだよ

偶然だといいですね、それ

 息を吐いた要に百手が声を漏らして笑っている。落ち込んだ要を励まそうとしているのだろうが、代償が少しばかり重いようにも思えた。

百手

それよりも彼女のこと、教えてあげようか?

知ってるんですか?

百手

まぁ、店長だからね

でも自分でも話さないようなこと、勝手に聞いてしまうのはなんだか悪いことのような

百手

もちろん嫌がる人に無理やり教えたりはしないさ

ジーナ

では私はもう少し辺りを探してきますわ

 そう言って、ジーナがいそいそと逃げるように休憩室を出ていった。ジーナはゆかりの秘密を聞くのは悪い。そう思ったのだろう。

俺は、どうしようか。気になるといえば気になるんだけど

百手

ゆっくり考えればいいさ。どうせ私は逃げないからね

ちょっと上行ってますね

 百手に背を向けて、要は重い足取りで打ちつけた木板の間を潜って三階へと上る。

 封鎖したとはいえ、百手が触手を伸ばして掃除をしているだけあっていつでもきれいに整えられている。

ソファも当然空、か

しれっとここで転がっていても違和感ないと思っちゃうけど

 エントランスのソファに体を沈めて誰もいない空間をぼんやりと眺めてみる。要にとってはそれほど違和感のない風景だ。

あんまり友達と集まってワイワイ騒ぐことないからなぁ

 誰かと話していても数人集まると聞き役に徹してしまう要にとっては傍観者の位置は慣れたものだ。

そっか。主役になるのが怖いんだ

 誰かの秘密を知って、それを追いかけていくことは自分ではない誰かの役割だと勝手に思っている。

ましてや相手は人間じゃないんだもんな

 なりゆきと同情心でここまで働いてきていても要はやはり人間で、彼らとは違う生物なのだ。

 ゆかりの事情を知るということはつまりそこにまた一歩深く踏み入るということになる。だからジーナはそれを避けたのだ。

でももう今更な話だよね

 要にとってこのコンビニは必要なものだ。

 誰も働かず、客もほとんどやってこないこの店が要にとっての居場所になっている。

 ソファから身を起こして、要は自分の頬を二回叩く。

 すっきりとした表情で要は階段を一段一段踏みしめて下りていった。

百手

落ち着いたかな?

はい、おかげさまで

百手

それじゃ、店の方に戻るかい?

どうせ誰もきやしませんよ

百手

高橋くんに言われると中々重たいね

 そう言って、百手は立ち上がると水屋の中からカップを二つ取り出す。

俺はコーヒーにしてください

百手

えぇ、紅茶もおいしいよ?

紅茶ってラプサンじゃないですか。あれはちょっと

百手

そうかなぁ。おいしいと思うんだけど

 百手は首を捻って紅茶缶とインスタントコーヒーの瓶を持って給湯室と呼ぶには広すぎるキッチンへと持っていく。

味覚の違いは店長特有のものかな

 ゆかりもジーナもあの紅茶は嫌いだと言っていた。

百手

おまたせ

ありがとうございます

百手

しかし、私からけしかけたとはいえ本当に聞いてみるのかい?

よくないと思いますか?

百手

まぁね。多かれ少なかれ普通の人間が知らないところを覗き込むということは逆に言えば、我々の側からも君が覗き込まれる存在になるということだからね

それってどういうことですか?

百手

これからも我々みたいな存在やそれに興味、あるいは敵意を持つ存在に高橋くんが巻き込まれることになるかもしれないってことだよ

その時は店長が福利厚生の一環で守ってくださいよ

百手

そうだね。ボディガードなら慣れたものさ

 百手は独特の匂いを漂わせる紅茶に口をつける。それを見て、要も妙に喉が渇いていることに気がついて、コーヒーを飲み下した。

百手

さて、どこから話せばいいんだろうかね

どうせ時間はたっぷりありますよ

百手

そうだね。では核心から話してわからないところは補完するということにしよう

百手

じゃあまずは彼女がどうしてゾンビになってしまったのか。その辺りから話をしようか

ちょっと待ってください。富良野さんって最初からゾンビじゃないんですか?

百手

そうだよ。だって君たちの知る物語でも生まれたときからゾンビっていうのはないだろう? だから私は彼女のことをゾンビだということにしているんだ

つまり、彼女は元々人間だったってことですか?

 驚いて目を見開いた要に事実を突きつけるように百手が頷く。

百手

そうだよ

でも、だったらなんで。あんな腕に包帯巻くようなことまでして

百手

彼女自身が望まなくても起きることはあるさ。たとえば映画でゾンビになる原因はたいてい何だと思う?

ゾンビに襲われて噛まれたりするとなりますよね?

百手

そう。まぁ、彼女が襲われたのはゾンビではなく、それよりももっと恐ろしいもの。狂気を持った人間だったわけだけどね

人間?

百手

君のように僕たちまでも受け容れてくれるような優しい人間もいれば、同種であるはずの人間すらも道具のように扱う人間もいる。彼女が出会ってしまったのは不幸にも後者だったというわけさ

 重い言葉に要は喉を鳴らす。

 聞かなければよかったという後悔とともに、要は未知の世界に足を踏み入れるような不思議な高揚感に駆られていた。

九話 俺の目を見てゴメンと言え!(後編)

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