二月十四日の朝がやってきた。



 クリスマスはご馳走やケーキが出てくるだけまだいいだろう。



 だがこのバレンタインデーというものは、ただただ奈落の底へ突き落とされるだけの日だ。




 実のところ、一応期待はしている。




 そして自宅の扉を開け、中へ入った瞬間に落胆するのが毎年の恒例だ。



 こんなにもつまらん日が他にあろうか。



 愚痴っていても仕方ないので、僕は何も考えないようにしながら学校へ向かった。



 教室へ着くと、珍しく僕より早く登校していたアキオ君が声をかけてきた。

アキオ

うーっす、わたりん

渡利昌也

おはよう、アキオ君

 僕はカバンから教科書やノートを取り出し、机の中に押し込みながら挨拶を返した。




 徐々にクラスのみんなが登校し、教室が騒がしくなってくる。



 昨日のテレビの話題を楽しんでいる男子や、おしゃれについて語っている女子グループ。


 そういう他愛ない話題が交錯する教室内で、バレンタインデーというフレーズも、どこからともなく聞こえてきた。




 僕は授業が始まる前にトイレを済ませておこうと考え、席を立った。











 五分ほどで教室の自席へ戻り、僕は一時限目の教科書を机の中から取り出した。



 その教科書と一緒に、赤いハート型の箱が出てきた。



 その箱には可愛らしいリボンまでついている。



 僕は二、三秒くらい石化した後、教科書の上に乗った赤い物体を机の中にスライドさせて隠した。



 僕はまるで警察沙汰になるようなやばいブツでも持っているかのように、キョロキョロと周りを警戒した。



 そして大きく深呼吸した後、もう一度教科書を机から引き出した。



 教科書の上には例のブツが乗っかっている。


 見間違いなどではない。

渡利昌也

えぇ?

 僕がうっかり大きめの声を上げたので、何名かのクラスメイトが僕に注目する。



 そのクラスメイトたちに引きつった笑顔を返し、手振りでなんでもないことを示した。

アキオ

わたりん、どうしたん……え?
お?

渡利昌也

ア、アキ……アキオ君!

 アキオ君が例のブツを見て驚き、僕も異例の事態にアキオ君へ助けを求めた。

ホアチャー

おお!
わたりん、マジか?

 いつの間にか後ろに立っていたホアチャー君も、例のブツを見て驚いている。



 その声に釣られて、周りにいたクラスメイトが何名か僕のところへ寄ってきた。

ねえねえ、誰から誰から?

 カラオケのときに一緒だった女子の一人が僕に聞いてきた。



 そういえば誰からだろう。

渡利昌也

ご、ごめん。
誰からかわかんない。
アキオ君、誰が机の中に入れたか見てないの?

 アキオ君に尋ねたと同時にハッとした。



 ブツを机の中に入れたのは山根さんじゃないだろうか。



 なぜなら僕に例のブツをくれる万に一つの可能性があるとすれば、それは山根さんだからだ。



 山根さん以外の女子からもらう可能性はゼロに等しかった。

アキオ

いんやー、見てないわー。
朝一で誰もいない時に入れてったんじゃね?

 アキオ君は腕組みをして首をかしげた。

渡利昌也

そっか。
わからないなら別にもういいや

 僕から正体を探るような質問を振ってしまったが、もうこのまま謎の人物としてこの話題を終わらせたかった。



 周りにクラスメイトが集まっているこの状況で誰のブツなのかが判明してしまうと、教室の端っこで一人座っている彼女に恥をかかせてしまう可能性があると思ったのだ。

別にいいって、そんなのダメでしょ?
とりあえず開けてみたら?
手紙とか入ってるかもよ

 僕と一度も接点のない女子が言った。



 なぜ話したこともない女子にこんなことを言われなきゃならないのだろう。

ホアチャー

待てって。
こんな大勢の前で晒したりしたくないだろ普通。
落ち着いて一人の時に大事に開けたいよなぁ、わたりん

 ホアチャー君が僕の思いを代弁してくれた。



 僕がホアチャーくんの気遣いに感激していると、ガラガラっと一時限目の授業の先生が入ってきた。



 僕の周りにいたクラスメイトが、蜘蛛の子を散らすように各々の席へ去っていく。







 僕は改めてブツの差出人が誰なのかを考えた。



 不思議なのは、ブツを机の中に入れた瞬間を誰も見ていないということだ。



 なぜなら、僕が登校してきた時点では、机の中には間違いなく何も入っていなかったからだ。




 教科書は登校後に机の中へ入れた。




 その教科書の上に例のブツが乗っかっていたことからも、それは間違いないといえるだろう。



 となると考えられることは一つ。



 僕がトイレに行っている間に、誰かが机の中へブツを入れたということだ。



 もしかして山根さんが存在感を消してこっそりと……。




 いやいや、ファンタジーじゃあるまいし。



 しばらく考え込んでいたが、一時限目の授業が中盤に差し掛かった頃にはそのような謎なんてどうでもよくなっていた。




 先生が何かをしゃべり、黒板に何かを書いている。


 すべてが頭に入らなかった。




 僕は完全に浮かれていた。




 胸がドキドキしている。


 顔のニヤニヤが止まらない。


 口をへの字に無理やり曲げて我慢してみても、口元がピクピク勝手に動いて口元が緩んでしまう。

アキオ

わたりん、良かったな

 終始ニヤケと戦っている僕を見て、アキオ君が満面の笑みを浮かべた。








 二時限目、三時限目と授業が進んでいっても僕の顔は緩みっぱなしだった。




 キリッとしたいのに。




 チョコもらったくらいじゃ動じませんっていう表情でいたいのに、自分の顔を制御することができなかった。











 昼食の時間になっても未だ操縦不能な自分の顔面に四苦八苦しながら、母の手作り弁当を机の上に置き、アキオ君とホアチャー君を待った。



 あの二人はいつも、学食で売られている安めの弁当を購入しており、彼らが揃ってからうらべっち君と一緒に教室で食べるのが通例になっていた。



 ただ、食べるのを待っているのは僕だけで、うらべっち君は気にすることなく先に食べ始めている。



 これもいつものことだ。




 やがて、購入した弁当を携えて二人がやってきた。

アキオ

わたりん、あのチョコな。
うちのクラスの女子からの義理チョコなんよ

 アキオ君は僕の隣の席に腰掛けながら、なんの脈絡もなしにそう言った。



 何を言っているのか僕にはよくわからなかった。

渡利昌也

ん?
なにが?

ホアチャー

あのチョコだって。
ほら、ハートの赤いやつな

 今度はホアチャー君が僕にそう言って、ハート型の赤い箱を僕に見せた。



 あれ?



 僕がもらったやつと同じ箱だ。



 なんでホアチャー君がその箱を持ってるんだろう。



 まだ状況が把握できていない僕に、アキオ君も同じハート型の箱を手に取って見せた。

お、なんだアキオ。
もうバラしたんか?

 クラスメイトの男子が僕らのところに近づいてきて言った。

もう。
なんでもっと早く教えてあげないのよぉ。
かわいそうでしょぉ

 クラスメイトの女子が僕らのところに近づいてきて言った。

俺の予想、合ってたよな

ホアチャー

俺のやつもな。
その場では開けなかったろ?

それってホアチャーが誘導してたっぽくないか?

あたしのも合ってたよねー

 クラスメイトの男子、女子数名が僕らの周りで言った。



 なんだなんだ?

 何を言っているんだ?

 わけがわからない。



 みんな楽しそうに話している。

 愉快に笑っている。

 なにか面白いことでもあったのか?

ねえ、渡利君まだよくわかってないみたいよ。
ちゃんと説明してあげないと可愛そうだよぉ

 女子が言った。

アキオ

あー、あれだ。
わたりんがもらったチョコな。
クラスの女子からの義理チョコなんだ。
んで、わたりんがいない時にみんな女子から同じチョコもらってたわけね。
なもんで、ちょっとしたいたずらで、わたりんがトイレ行ってる間にわたりんの分の義理チョコを机の中に入れといたってわけ

 アキオ君が淡々と成り行きを説明した。



 僕はこのときようやく状況を理解した。



 心の中で浮かれて雲の上に漂っていた自分の足に鎖付きの鉄球が巻き付き、落下していく気分だった。

わたりんがチョコ見たとき、どういう反応するかみんなで予想してさー

見た瞬間に固まるだろ?
ほんでキョロキョロして、一旦机にしまったよな。
深呼吸するって予想もあったか?

ホアチャー

その場では開けないっていう俺の予想も合ってただろ?

だからそれはホアチャーがそう仕向けてたじゃん

いやー、授業中もずっと嬉しそうだったなぁ

みんなの予想当たりまくりでウケたー。
ナイスわたりん

アキオ

悪いな、わたりん。
でもほら、普通に渡してもつまんなくね?

 周りに集まったクラスメイトたちが言った。

 言った。

 言った。




 もはや誰が何を言ってるのかわからなかった。



 僕は、誰かが言った「悪いな」の言葉に、「なーんだ、そうだったのか。騙されちゃったよもう」と返そうとした。



 ちゃんと愛想笑いを返そうと思った。



 ダメだった。



 口は半分開きっぱなし、目は真正面を向いたまま、まぶたは閉じもしなければ大きく見開くこともできなかった。



 それをあえて一言で表すなら、無表情というやつだ。



 首だけは動いたので、皆の言葉に小さく頷いた。



 誰かの言葉にまた頷いた。とりあえず頷いた。

うらべっち

くだらん!
お前ら、そんなことしたのかよ!

 声を荒げたのはうらべっち君だった。



 楽しそうに騒いでいたみんなが、一斉に黙り込んだ。

渡利昌也

ど、どうしたの、卜部くん?

 周りの空気を気にして、僕は顔をヘラつかせた。




 うらべっち君は僕の顔をジッと見つめていたが、急に立ち上がって教室を出て行った。



 みんな静まり返ったまま、うらべっち君が出て行った教室の前方のドアを見ている。

渡利昌也

あ、みんな。
大丈夫大丈夫。
いや、騙されたよもう。
まいったなぁ

 僕は気を遣い、お人好しを装って皆にフォローした。



 止まった時間が急に動き出したように、皆がしゃべりだした。

アキオ

いや、悪いなぁ。
ここまで成功するとは正直思わなかったわぁ

わたりんの予想通りの行動、ワロター

 皆がまた僕の周りでワイワイやっている。



 楽しそうで何より何より。

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