美由と喧嘩して一週間が経った。



 もっとも、俺が買ってきたプリンを二人で食べるという儀式を経て、既に美由との仲直りは済ませてある。






 この日、美由はスーパーのバイトがあり、俺は仕事が休みだった。


 なのでいつもなら部屋でゴロゴロするところなのだが、職場の先輩が訪ねてくる予定なので部屋を片付けておく必要があった。


 というのも、使い古しの大きな食器棚をもらえることになり、届けにきてくれるというのだ。





 俺は掃除をしながら、美由と喧嘩した時のことを思い出した。



 今更蒸し返すことでもないのだが、喧嘩の時に俺がひどいことを口走ってしまったのにはそれなりの理由があったのだ。




 それを語るには、子供の頃に遡る必要がある。





 俺の母はキャバクラでホステスをしていた。



 だから夜はほとんど家で一人だったが、寂しさを口に出すのは避けていた。



 母が生活のために一生懸命働いていることを、俺は幼少ながらに理解していた。



 母のことは尊敬していたし、ずっと大好きでいたと思う。






 そんな母を唯一嫌いになる瞬間があった。




 母は朝方に帰ってきて、玄関で酔っ払ったまま倒れ込んでいることが日常茶飯事だった。


 俺は母の肩を揺すって起こし、水の入ったコップを渡す。


 そういう時母はいつも、もたれかかるように俺に抱きつき、必ずこう言うのだ。

愛してるよぉ、冬弥

 母が俺を大事に思っているのはちゃんと伝わっていた。


 だが、この言葉を口にする時の酒臭い息がとても嫌だった。



 ベロベロに酔っ払った時の『愛している』という言葉が、一人で留守番している俺のご機嫌を取ってるかのように見えて、とてもチンケなものに感じた。





 母は時々、男の話を俺にしてきた。

今の彼氏ね。
私に愛してるって言ってくれるのよ。
ほんと、ちょー優しいんだから。
冬弥もきっと気に入ると思うのよね

 そんな感じで何人もの男と付き合い、何人もの男に捨てられた。



 フラれた翌日も、決まって俺に『愛してる。だからずっと側にいてね』と言っていた。



 『愛してる』という言葉に何度も騙されていながら、なぜ自らその言葉を口にするのか俺にはまったく理解できない。




 鼻をつんざく二日酔いの匂いと、母を悲しめる男の影。



 俺にとってこの言葉には、嫌な思い出しかないのだ。










 美由がこの言葉を口にした時、どこかがっかりする自分がいた。



 美由はそんな安っぽい女性じゃない。



 他の女とは違う、もっと特別な存在なんだ。



 そんな美由に対する俺の思いが否定されたような気がした。




 もっとも、俺が例の言葉に拒否反応を示したのは、単に感情的になっていたからだ。



 冷静に考えてみれば、あんな言葉一つで美由の女性としての価値が下がるわけじゃない。


 俺は部屋の掃除をしながら、美由への気持ちを再確認した。




 美由が帰ってくる頃には、食品やフライパンまでまるごと収納できるほどの食器棚が部屋に置かれていることだろう。



 バイトから帰ってきた美由の喜ぶ姿が目に浮かぶ。



 まだまだ家具や電化製品も満足に揃ってないので、備品が一つ増えるごとに美由と二人で喜ぶのが通例だ。



 部屋に散らかしたままの俺の本や、俺の脱ぎかけの服やズボンや……散乱しているのが俺のものばかりなのはさておき、心を躍らせながらそれらを拾い集めた。





 そして床から回収した品々をとりあえず放り込んでおくため、押し入れのふすまを開けた。





 ふと、押入れの奥に置かれた大きめのダンボール箱が目に止まった。


 この箱の中には、俺が書き溜めてきた小説がびっしりと入っていた。


 俺は箱をしばらく凝視した後、押入れからその箱を引きずり出した。




 かなりの重量だ。


 我ながらよくもこんなに書き綴ったものだ。





 箱を開き、上の方にあった原稿用紙を数枚ほど取り出して、書かれた文章をサラサラっと読み始める。




 次第に懐かしくなり、掃除のことを忘れて夢中になっていた。





 美由が応援してくれるというなら、また書いてみようかな。



 そう思った矢先、コンコンコンと玄関をノックする音が響いた。

おーい!
持ってきたぞ!

 ドア越しに先輩の声が聞こえてきた。

冬弥

やっべ!
もう先輩が来ちまった!

 俺は、片付けるためにかき集めた物を押し入れに放り投げ、玄関へと急いだ。



美由

すっごいね!
大きいね

冬弥

ちょっとデカ過ぎだよなぁ。
五、六人家族用って感じだ

 俺と美由は先輩からもらった食器棚を眺めながら、感想を言い合った。



 ワンルームの我が城には似つかわしくない圧倒的な存在感を前に、もはや苦笑いするしかない。

冬弥

ま、いいさ。
いつかこの食器棚に見劣りしない立派な家に住もうぜ

美由

えへへへ。
夢あるねー。
でも私は冬弥が側にいてくれたら、それだけで幸せだよ

 美由は無邪気に笑って俺を見た。


 俺は美由の熱い視線と目が合い、こそばゆくなってついつい顔を背けた。



 本当はものすごく嬉しいはずなのだが、俺はどストレートに投げ込まれる愛情表現がどうも苦手だ。

美由

あ、今目をそらした。
冬弥ってこういう時いつもそうだよね

 美由は口を尖らせて、じーっと俺の顔を見た。

冬弥

ゆ、夢といえばさ。
その、なんだ。
小説……また書いてみようかって……

 俺は美由のご機嫌を損ねる前に、無理やり話題を変えてみた。

美由

え?
ほんと?

 ものすごく喜んでいることがはっきりとわかるほどに、美由の声が跳ね上がる。



 俺の予想以上に話の方向転換がうまくいき、俺は少し戸惑いを感じた。



 自分のことでもないのに、それほど喜ばしいことなのだろうか。



 夢という単語から話題を切り出しはしたものの、断固叶えてやるというような固い決意などほとほとないのに。




 俺は美由との温度差に少し萎縮してしまった。


 とはいえ、ここまで好反応とくれば、多少のお願い事も許されそうだ。



 生活の備品を少しずつ買い集めていた俺達にとっては贅沢な品物であろうと思い、敬遠していたのだが、本心ではテレビよりもDVDプレイヤーよりもパソコンが欲しかった。

美由

そっか、そうだよね。
今の時代、なにをするにもパソコンだもんね。
よし、買っちゃおう。
いずれ印税で稼ぎまくるんだから先行投資ってわけですな

 美由は腕を組み、うんうんと大げさに頷きながら言った。



 うーむ。



 これはちょっとやる気出さないとまずいな。

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