7時50分。

それは、大学の講義へ向かう道で、突然目の前にやってきた。

逃げる余裕、そんなものは全くなかった。予兆なんてなく、気付いた時にはすでに終わっていたのだから。

目の前で人が死んだ。
10歳くらいの男の子だった。

青信号の横断歩道へ、信号待ちの車の間をぬって猛スピードで1台の車が突っ込んできたのだ。

黒いランドセルは中身をぶちまけながら宙を舞った。彼が被っていた黄色い帽子は、赤に染まりころころと道路を転がっている。

そして彼は、そのまま吹っ飛びぶつかったガードレールに背中を預けるように固まっていた。

都 大樹

な、あ……

言葉を発することはできなかった。
駆け寄った人たちが『救急車だ、警察も呼べ!』だの、『おい、もう息をしていないぞ』だの、『あの車はどこ行った? 逃げたんじゃないだろうな!』だのと、各々叫んでいたが、多くの者が周りに集まるただの野次馬と化していた。

かくいう僕も、周りから見ればその野次馬の1人に見えていたことだろう。
当事者でもあるのに。僕の目の前で、彼はその命の終わりの瞬間を迎えたかもしれないのに。

卑怯者

僕の心がそう言った気がした。そう、僕は卑怯者だ。きっとこのまま傍観者を貫いて、一時間後にはいつもと変わらない退屈な講義をけだるそうに受けるのだろう。

そんな風に考えていた時だった。

卑怯者

僕はその声を聞いた。

背筋が凍りつくような冷たい女性の声。
真後ろから響くその声は、僕の中から周囲の人の存在を丸ごと奪い去った。

世界に僕と彼女の2人きり。
そう誤認させるほどに、少女の気配は異質であった。胸の奥の底の底が、嫌になるほど熱を帯び、苦しくなるような錯覚。

都 大樹

………

何も話せない私に向けて、まるで5年ぶりに再会した恋人のように笑みを浮かべ彼女は言った。

初めまして。おはようございます。私はずっと前からあなたのことが大嫌いです

都 大樹

……はあ? 初対面でしかも年上に向かって、何言ってんだよお前!

不気味とか恐ろしいとかおかしいとか色んな感情は、彼女の台詞によって一瞬で消え去った。

だけど彼女は、まるで僕の声が聞こえていないかのように、あるいは存在すら認識していないとでもいうように、あくまで自分勝手に語り続けた。

そんな卑怯者で最低のあなたにラッキーチャンス! 被害者を救いたければ、この花を供えてください

言いながら伸ばした彼女の手には、10本の紫色の花束が握られていた。

都 大樹

何馬鹿なことを言って……

それを無視し文句を言う僕に、やはり彼女は自身の都合でその花束を僕の頭上に放り投げた。

都 大樹

うわっとと

僕は落ちてくるそれを慌てて掴み、それから彼女に向き直る。

都 大樹

おい。お前一体どういうつもりで……

だけどそこには、彼女の姿なんてなかった。
あるのは救急車も呼びやることはなくなったと、徐々に去っていく人たちと、その中心でうずくまる赤く染まった少年の姿だった。

都 大樹

………

まるで彼女は元々存在しなかったかのように、彼女との出会いは起こっていないかのように。世界はそういう風に回っていた。

都 大樹

あいつ、どこに? あ……

辺りを見回す僕の意識が集中したソレは、僕の右手にしっかりと残っていた。

紫色の10本の花束。

それこそが、僕と彼女が出会ったという唯一の証。

それを見て、僕は彼女が言っていたことを思い出す。

被害者を救いたければ、この花を供えてください

普通に考えて、常識的に考えて、世間一般に考えて。まだ適切な処置も行っていない、どころかまだ死亡と診断されてもいないこの少年に花を供えるなど言語道断。人として最低な行為と言える。

都 大樹

はあー、何を真に受けてるんだ僕は

しかしそう言いながらも、僕の足取りは自然と少年の元に向かっていた。

都 大樹

ごめんよ。でもこれで救われるかもしれないんだ。許してくれ

そう言いって、まだ残っていた人たちに不審な眼差しを向けられながらも、僕は花束からそっと花を1本抜き、少年の膝の上に置いた。

静かに空を見上げる。あいにくと灰色の雲が多く、太陽は拝めなかった。

都 大樹

やはり何も変わらないか……

おい兄ちゃん、何てふざけた真似しやがる!

声と同時に胸ぐらを掴まれ振り返ると、たいして目立ったところもないどこにでもいそうなおじさんが、すでに僕を殴るべくモーションに入っていた。

都 大樹

なっ……

だけど。

なのに。

僕の目にはそんな光景は入って来なかった。
いや、視界には入っているのだが、注目はできなかったと言った方がいいのか。

カメラのレンズを覗いた時の、被写体の後ろにある背景のように、そのおじさんからはピントがずれていた。

僕が注目していたものは。
僕の視界で堂々と誇っていたものは。

そう。

空から一面に降り注ぐ、先ほど少年に供えたものと同じ、紫色の花びらだった。

さながら冬に舞う純白の雪のように。
さながら春に舞う綺麗な桜のように。

それは当然のように僕の視界を覆っていく。

都 大樹

これ、は…………がっ!?

僕の頬に思い切り殴られたようなひどい激痛が走った。

直後に。

僕の世界は、歯車が軋むような音とともに真っ白に染まった。

おい、兄ちゃん。大丈夫か? おい!

都 大樹

ん……

何処からか響く声に、僕は目を覚ました。
気が付くと、一人のおじさんが僕の肩を揺らしていた。

おう。気が付いたか。兄ちゃんが急に倒れたんでこっちはびっくりしたぞ

目立った特徴もない、どこにでもいそうなおじさん。きっと街中で見かけてもすぐに記憶から薄れていくであろう。

だけど。僕だけは違う。
僕はこの顔を知っていた。

都 大樹

あ……

何だ? 俺の顔に何かついてるか?

僕の頬を思いっきり殴ったそのおじさんは、まるで僕のことを知らないかのようにそう言った。

都 大樹

あ、いえ……何でもないです

ひとまずはそう言って辺りを見回す。
見えたのは、信号、横断歩道、車……

道路の向こうにあるピザ屋についている時計を見ると、7時50分だった。

都 大樹

何で………

そう、この場所は、いつもの大学への通学路。

都 大樹

どうして……

そして。

都 大樹

戻っ……た?

つい先ほど男の子が車に轢かれたはずの場所だった。

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