三学期に入ってから、僕は毎日部活に参加した。



 うらべっち君の話を聞き、倖田さんに怒られて、飯塚さんと笑い合った三学期の初日。


 自分が本当はどういう風に変わりたかったのかようやくわかった気がした。



 飯塚さんに言われた通り、二月後半のデッサンコンクールに向けて日々デッサンに明け暮れた。



 今まで、これほど一生懸命なにかに打ち込んだことがあっただろうか。



 少しずつ完成に近づいてくる自分の絵を見ているのは、とても快感だった。




 なんだ、意外と僕の絵もうまいじゃないか。



 最初に描いた一枚目に比べると月とすっぽん。


渡利昌也

どうかな僕のデッサン。
結構うまく描けたと思うんだけど

 ある日僕は調子に乗って、すぐ隣で絵を描いている加藤君に自慢のデッサンを披露した。



 加藤君というのは、以前、飯塚さんと共に坂東川の文房具店まで付き添ってくれたメンバーの一人である。



 背が低くて、顔はいつも優しさに満ちており、性欲というものを一切感じさせない清潔感のある男だ。



 当時はあまり会話を交わす仲ではなかったが、今では僕が心を許す数少ない人物になっていた。

加藤むつみ

うん。
だいぶ上達してるね。
よく描けてるよ

 加藤君がいつもの素敵な笑顔で言った。



 加藤君に褒められてヘラヘラしていたが、いつの間にか無言で僕の後ろに立っている飯塚さんに気付き、ギョッとした。

飯塚俊司

うーん。
デッサン狂ってるよ完全に。
ちょっと離れたところから見てみ?

 僕は言われたとおり椅子から立ち上がり、数歩下がって飯塚さんと一緒に自分のデッサンを見た。



 離れて見ると、僕のデッサンの崩れが一目瞭然だった。

渡利昌也

あっ本当だ

飯塚俊司

だろ?
いきなり細かく描くんじゃなくてさ。
まずは大雑把に形をとって、時々離れて確認したり、比率を図りながら徐々に仕上げていかないと。
この状態まで描きあげちゃうと修正が困難だろ

 飯塚さんからデッサンの基本的なアドバイスを受け、僕はまた白紙から描きなおす事にした。



 デッサンコンクールまではまだまだ日数がある。



 それまでに、まずは数をこなして腕を磨かねば。



 描くだけじゃなく、粘土でモチーフと同じ形のものを作ったりもした。


 これをすることで、モチーフを立体でとらえることができるようになるらしい。



 そうして、充実感に満たされた日々を過ごして一ヶ月経った、ある日曜日のこと。




 その日は目覚まし時計を朝九時にセットしていたのだが、結局アラーム停止ボタンにチョップを食らわせた状態で十時に目を覚ました。



 重力に逆らおうと必死になっているまぶたを手でこすりながら食卓に座り、母の用意してくれたトーストをもそもそと口へ運ぶ。



 ベランダの引き戸のガラスから差し込む光で、たくさんのホコリがキラキラしていた。



 畳まれたお布団にキラキラのホコリが舞い降りていくのを見て、のどかな休日だなぁと思った。





 さて、いつもの休日なら自由な時間に起きている僕が、お役に立てなかった可哀想な目覚まし時計を使ってまで無理やり起きたのには理由がある。



 好んで使っていた4Bの鉛筆が僕の情熱に耐え切れず、かなり短くなっていた。


 そんなわけで、坂東川の文房具店へと足を運んでから、部活へ行く予定なのだ。





 飯塚さんは十時には美術室にいる予定だと言っていたので、今頃はもう熱き魂をキャンバスにぶつけているだろう。



 トーストを胃の中に収め、牛乳をゆっくりと流し込み、DVDレコーダーの画面に表示されている時刻を見た。





 十時二十分を表示している。



渡利昌也

いってきます

 ベランダで洗濯物を干している最中であろう母に向かって言った。



 聞こえなかったらしく返事はなかったが、気にすることなく僕は家を出た。




 家の中からだと太陽の光で暖かそうに見えたが、まだまだ二月に入ったばかり。



 暖房から見放された僕の体がガタガタ震え、歯が勝手にガチガチ音を立てた。

渡利昌也

寒いじゃん

 思わず独り言を呟く。



 体を縮こませ、身にまとったコートのポッケに手を突っ込み、僕は駅の方へと歩き出した。



 冬風によって丸裸にされた街路樹が並んだ、物静かな道を足早に歩く。





 途中、広めの交差点に差し掛かった。
 僕はその交差点で赤信号につかまり、歩みを止めた。

???

おーい

 歩行者用信号機の赤をボーッと眺めていると、どこからともなく誰かの叫び声が聞こえてきた。



 子供の声のようだった。


 僕は親戚以外に子供の知り合いなどいないので、その声を気にも止めず、引き続き信号機を見ていた。

???

こらー!
無視すんなー

 またまた子供が叫んだ。



 誰に声をかけているのか知らないが、無視されるなんてかわいそうに。

???

お兄さーん、こっちこっちー

 今度は先ほどより柔らかめの可愛らしい声が聞こえてきた。



 察するに最初の叫び声は男の子で、後に聞こえたのは女の子であろうか。



 こう何度も叫んでいる子供がいると、無関係な僕でも無意識に声の発信源を探したくなる。



 声の主はすぐには見つからず、僕はあたりをキョロキョロと見渡した。






 やがて、手を振っている二人の子供を見つけた。


 二人の子供は、離れた道の突き当りにある大きな建物の中央階段踊り場付近に立っている。



 僕の周りには誰もおらず、どう見てもこの子たちは僕に向かって手を振っている。



 一人は白いブラウスに紺のスカートの女の子。


 もう一人はこれまた白いシャツと紺のズボンを履いている男の子。


 背丈から、小学校低学年くらいと推測。




 もはや完全に見覚えがある。




 男の子は、坂東川の文具店で僕に消しゴムを投げてきた子だ。


 そして女の子はクリスマスの雨の中、僕の手を引いて雨宿りの場所まで案内した子である。





 この二人。

 僕の周りをウロウロしていったい何を企んでいるのか。




 女の子は可愛い笑顔で僕に手を振っている。

 男の子は可愛い顔をめいいっぱい歪めたり、寄せ目しながら舌を出して僕をからかっている。



 どっちにしても可愛いもんだ。



 信号が青になり、僕は別れの挨拶変わりに二人の子供に手を振った。

???

ばーか

 男の子がひときわ大きな声で叫んだ。



 君は本当に可愛いなぁ、おい。



 僕は信号を渡らず、その子達のいる建物へ向きを変えた。



 二人の子供達は競歩のようなスピードで近づいてくる僕に驚いたようで、両手をあげて建物の中へ逃げていった。



 その大きな建物の屋上付近には、光明寺図書館と書かれていた。



 少し脅かしてやろうと思っただけなのだが、ちょっと大人気なかったか。




 僕はまた駅の方へ向き直り、その場を去ろうとした。



 だが、あの子達が何者で、なんの目的があって僕に絡んでくるのかが気になり、あの子達を追って図書館へ入ることにした。

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