美術室は明かりがついていた。


 窓から中を覗くと、黙々と絵を描いている二人の生徒が見えた。



 飯塚さんとつり目っ娘の倖田さんだ。



 僕は美術室のドアを開け、中へと入った。

飯塚俊司

あれ、渡利君。
どうしたの?
今日は基本的にはお休みってことにしてたけど

 飯塚さんが少し嬉しそうに言った。



 倖田さんはチラっとだけ僕を見たが、すぐにふいっとキャンバスの方へ顔を向き直した。

渡利昌也

ぼ、僕も絵を描きたくなって

飯塚俊司

おお、そうか。
描こうぜ描こうぜ。
準備しなよ

 飯塚さんは画材がしまいこんである小部屋を指差しながら言った。



 小部屋の中はいくつものイーゼルやキャンバスが床に立てかけられており、壁際には二台の机が配置されていた。



 その机の上に一枚のプリント紙が置かれている。

渡利昌也

飯塚さん。
これ、なんですか?

 僕はそのプリントを手に取り、小部屋のドアから半身を乗り出して飯塚さんに尋ねた。



 プリントには『光明寺商店街 冬のうまいもんフェスタ』と大きく書かれている。

飯塚俊司

ああ、それ?
商店街でなんかイベントやるらしくてさ。
うちの美術部でポスター作ってくれってお願いされたんだって

 何かを成し遂げたくて仕方なかった今の僕にはうってつけだと思った。

渡利昌也

飯塚さん。
このポスター、僕に描かせてもらえませんか?

飯塚俊司

お!
やってくれる?
助かるよ。
いやぁ、コンクールが近いんだけど納得する絵が描けなくてさぁ。
誰かやってくれないかなぁって思ってたとこなんだ

倖田真子

待った

 飯塚さんの言葉を、倖田さんがピシャリと遮った。

倖田真子

部長、ありえないありえない。
うちの部活、来る来ないは確かに自由よ。
でも、ポスター作りはそんなわけにいかないでしょ

 倖田さんはいつも以上に強めの口調で言った。

倖田真子

渡利さぁ、うちに入部して何枚の絵を完成させた?
一枚でしょ。
しかもさ。
その絵、見たよ。
別にヘタとか言う気はないわ。
後半から手を抜いてさっさと完成させたのが丸分かり。
そんな絵を描く人に、お願いされたポスターを任せるってありえないから

 僕は黙って倖田さんの言葉を聞いていた。



 返す言葉がない。



 情けなくて泣きそうになるのをグッと堪えた。

倖田真子

いいよ部長、ポスターは私が描くから

 倖田さんはそう言いながら、再びキャンバスへ筆を走らせた。




 僕は無言でイーゼルに白紙のスケッチブックを立てかけ、石膏像のデッサンを始めた。






 部活が終わり、倖田さんが素早く美術室を出て行った後、飯塚さんが申し訳なさそうな顔をしながら僕に近づき、舌を出した。

飯塚俊司

すまんな渡利君。
せっかく自分からポスターを作るって言ってくれたのにさ

渡利昌也

いや、僕の方こそ今まで部活サボりまくりだったし。
倖田さんに言われても仕方ないかなって

 僕は苦笑いで返した。



 実のところ、かなりショックを受けていた。



 やる気を出してこの美術室へ来たものの、この日はほとんど絵に手が付かなかった。

飯塚俊司

まあポスターのことは忘れてさ。
ほら、二月の後半にデッサンコンクールあるだろ?
渡利君はそれを目指したらいいよ。
俺も間近の絵画コンクールのやつを仕上げたら、すぐこいつに取り掛かるもりなんだ

渡利昌也

はい、そうします。
なんかすいません

飯塚俊司

ん?
何に対する、すいませんなんだ?

 今までやる気がなかったことと、サボっていたことへの謝罪だった。



 飯塚さんに謝っても仕方ないことなのだが……。





 僕らは美術室の戸締りを済ませ、帰路に着いた。

渡利昌也

いつか僕も飯塚さんに追いつけますかねぇ

 飯塚さんの画力はやはりすごいのだ。



 全国の絵画コンクールでも優秀賞を取ったりしている。



 そして、うらべっち君から聞いた、絵に対する飯塚さんの姿勢。



 僕は憧れを込めつつ、冗談交じりに言った。

飯塚俊司

それは無理だなぁ。
もし渡利君が今の俺の画力を身につけたとしてもさ。
その頃には俺はもっともっと上にいるだろうから

 飯塚さんは笑っていたが、きっと本心だろう。

飯塚俊司

なんてな。
今の言葉は友達の受け売りなんだけどね

渡利昌也

もしかして三条君ですか?

 僕がつい三条君の名前を出したので、飯塚さんは口をポカンと開けて驚いた。

飯塚俊司

卜部だな?
渡利君、そういえば卜部と同じクラスだっけ

 飯塚さんは余計なことを言いやがって、といった表情をした。

 が、すぐに素の表情に戻った。

飯塚俊司

ま、いいか。
そうそう、三条のことだよ。
俺が中学の美術部に入った時『すぐおまえに追いついてやるからな』って言ったら、返された言葉なんだ

 飯塚さんはどことなく悔しそうな顔をしていた。

渡利昌也

今でも三条君には勝ててないんですか

飯塚俊司

まあね。
あいつ、海外に留学したんだ。絵の勉強のためにさ

 その言葉だけでも十分にレベルの違いを感じ取ることができた。

飯塚俊司

それにしてもさぁ。
うちも早くまともな顧問が欲しいよなぁ。
やっぱ上手くなるには良き指導者が必要だよ。
今の顧問ってただのお飾りじゃん

 飯塚さんが再び悔しそうな顔をした。

渡利昌也

確かに。
僕も二、三回しか見たことないですね

飯塚俊司

五月まではいたのよ、ちゃんとした顧問。
美術界でも結構有名な先生だったらしいし、納得の技術も持っててさぁ

 これは初耳だ。



 そんなすごい先生がうちの美術部の顧問をしていたなんて。


 確かに飯塚さんほど熱意のある人なら、ちゃんとした美術の先生が在籍している高校に通おうとするだろう。



 つまり、かつての顧問がいたからこそ、飯塚さんはうちの高校に入学したわけだ。

渡利昌也

その先生、なんで顧問やめちゃったんです?

飯塚俊司

顧問どころか先生をやめたんだ。
クビだよクビ。
うちの女子生徒に手を出しやがって、あのバカヤローが!
がっかりだよほんと

 なるほど。


 いろんな人生があるもんだ。



 権威ある偉そうな顔をした先生が、バカな行動でクビにされてうなだれる。


 僕はそんな想像をして、大いに笑ってやった。




 飯塚さんも僕に釣られ、二人の笑い声が薄暗い廊下を照らしていった。


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