23│でもね、先輩

雨音 光

クロニャがいない?

川越 晴華

クロニャが、どこを探してもいなくて、名前を呼んでも出てこなくて、先輩ににゃいんしようと思ったんですけど、うまく打てなくて、それで、電話で……

言葉がうまくまとまらない。

落ちつけ、落ちつけと思えば思うほど、言葉がまとまらないまま、こぼれおちていく。

雨音 光

大丈夫、大丈夫だよ、川越さん。
今、家?

川越 晴華

はい、家です

雨音 光

わかった。

家なら、レインが場所を知ってるって。

すぐに行くから、待ってて

先輩の優しい声に、私は泣きそうになってしまう。

下唇をぎゅっと噛む。

先輩は、大丈夫って言った。
待っていれば、先輩は助けに来てくれる。

川越 晴華

先輩……

雨音 光

大丈夫だからね。

バスに乗るから、切るよ

プツン、と通話が切れる。
私は、携帯を抱きしめて、目をつむった。


自分に何度も言い聞かせる。


大丈夫、大丈夫。

先輩が、大丈夫だって言ってたんだから。
先輩を、信じなきゃ。クロニャも、信じなきゃ。




クロニャが私を見捨てた、なんてこと、ないから。




大丈夫、大丈夫……。

それから、先輩が来るまでの数十分は、私の人生の中で最も長い時間だった。


何日も待っているような気分だった。


私は玄関で待っていた。
少し寒かったけれど、そんなの気にもならなかった。


何度、大丈夫を唱えただろう。

インターホンの音が鳴ったと同時に、私はドアに向かって手を伸ばしていた。


ドアの向こうに、肩で息をしている先輩がいた。

雨音 光

川越さん……ごめん、待った、よね

私は、言葉が出てこなくて何度も首を横にふることしかできなかった。

先輩は私の肩に目をやって、あ、と頬を緩めた。

雨音 光

よかった、クロニャいたんだね

川越 晴華

え? クロニャ?

周りを見渡しても、クロニャはいない。

川越 晴華

クロニャ、いないですけど……

言って、いつも先輩の肩に乗っかっているレインもいないことに気がつく。

その瞬間、恐ろしい想像が頭をよぎる。


猫が、見えなくなってしまった……?

川越 晴華

せ、先輩。レインもいません

目の前が揺らいだ。だめだ、泣いてしまう。

雨音 光

え?

川越 晴華

どうしよう、見えなくなったのかもしれない、私……猫、見えなくなって……

気がつくと、先輩の両腕をつかんでいた。

先輩が、目を丸くしている。

雨音 光

見えない?

川越 晴華

どうしよう、先輩、私

雨音 光

ーーごめん、川越さん! 

そういうことか! 本当にごめん!

先輩が、私の両腕をつかみかえしてきた。
私は、先輩が何を言っているのかわからなかった。

先輩が悪かった?

雨音 光

大丈夫、俺が悪かったんだ

混乱している私に、先輩の顔がそっと近づいてくる。

まるで、いつかの屋上のようだ。時間が止まる。


先輩の額が、私の額にくっついた。


あの夕日の中のときよりも、もっと長く、長く、くっつけている。

突然、ふっと肩に重みを感じた。


あ、と思った瞬間に、声がする。

クロニャ

ーーるかにゃん! 晴華にゃん!

川越 晴華

クロニャ!

私の首もとに、クロニャが抱きついていた。

震える手で、ぎゅっと抱きしめる。
我慢していた涙が、いつのまにか頬を伝っていた。

川越 晴華

クロニャ……! よかった! 

どこに行ってたの……心配した!

クロニャ

どこにも行っていません、行くわけにゃいじゃにゃいですか! 

晴華にゃんの猫見が切れたんです。

わたしも、どうしたのかと思いました……よかったですにゃあ!

涙が、溢れて止まらない。

安心のあまり、その場に、へたりと座り込んでしまう。

川越 晴華

そっか、そうだったんだ。
よかった……怖かった、怖かったよ、クロニャ。

また、置いていかれたのかと思った

クロニャ

約束します、そんにゃこと、わたし、絶対にしません。

晴華にゃんのそばに、ずっといますにゃあ……!

川越 晴華

うう……クロニャ

幼い子の泣き声みたいに、頼りない声がもれる。
抱きしめあいながら、私達は声をあげて泣いた。


こんなに泣いたのは、あの日以来のことだった。






涙がかれるほどに泣いていた間、先輩とレインは黙ってそばにいてくれた。




落ちつくまで何分かかったのだろう。

川越 晴華

……ごめんなさい、泣きすぎちゃった

雨音 光

いや、そんな

先輩が屈んで、私に視線を合わせる。

雨音 光

ごめん、俺が悪い

レイン

本当だよ、バカ光

先輩の肩に乗っているレインが、何度も先輩の頭を叩いた。

川越 晴華

レイン……よかった、また会えた

レイン

……泣いた顔で見ないでよね。

どうしていいか、わかんないよ

ふい、とそっぽを向いてしまうレインだったけれど、口元は少しだけ緩んでいる。

照れているのかもしれない。

相変わらずの会話が、今は、本当に嬉しい。

レイン

光、しっかり説明

雨音 光

うん、もちろんそのつもり。

あのね、川越さん。
猫見を分けるときはね、額と額をくっつけるんだ。

くっつけている時間の長さで、見えるようになる時間が変わってくる。

長ければ長いほど、猫が見える時間も長くなる。

俺、実は猫見を分けたの初めてで、思ってたより短かったんだ……

先輩が、頭を下げる。

雨音 光

本当に、ごめん

川越 晴華

そんな、大丈夫ですよ先輩! 

ちょっとパニックになっちゃったけど、でも、また見えるようになったし

先輩は、顔をあげて、表情を歪めた。
何か、訊きたそうな表情だ。


一瞬、先輩の中に迷いが生まれたように見えた。
訊こうか? 訊くまいか?


おそらく私の取り乱し方に、違和感を覚えたのだろう。もしかしたら、もっと前から、何かあると察していたのかもしれない。


それでも、先輩は全てを飲み込んで、ひとつ、うなずくだけだった。

雨音 光

……うん。もう、こんなこと、ないようにするから

言って、そっと小指を差し出す。

雨音 光

……約束

申し訳なさそうな表情が子どもみたいで、私は小さく笑ってしまった。

川越 晴華

約束、です

先輩の小指に自分の指を絡める。
そのとき、私の心がふわりと暖かくなった気がした。

川越 晴華

好きだ

私の中で、先輩への気持ちが、素直な言葉になる。

川越 晴華

私は、先輩が大好きだ

優しくて、少し不器用で、おっちょこちょいで、でも素直で、私が驚くぐらい猪突猛進なところもあって、それなのに私が傷つかない距離を保ってくれて……全部が、全部。

川越 晴華

先輩。私もひとつ、謝りたいことがあるんです

雨音 光

ん?

先輩が柔らかく笑う。

その笑顔も、本当に、好き。

川越 晴華

デート、断っちゃって

レイン

にっ

先輩が目を丸くするのと同時に、レインがびくりとはねた。

レインがそそくさと先輩の肩から降り、私とクロニャから見えないところへ移動してしまう。

雨音 光

あー……いや

先輩がそっと小指を離し、その手を頭の後ろに持っていく。

雨音 光

それは、俺が急すぎた、から……っていうか、デ、デートって……そうか、そうなるのか、な、そうだね……

こんなにあわてている先輩は、初めてだ。

クロニャも、こんな態度をとるレインを面白く思ったのだろう。

私から離れ、そっとレインの様子を見に行った。

レイン

にゃ! なんだよ、来るなよ!

クロニャ

にゃー、にゃーんかいつものレインと違うにゃあ

レイン

にゃああ! 
うるさいあっちに行ってろにゃあ!

クロニャ

大きな声にゃあ!

いつもの二人のやりとりに、先輩がふっと表情を緩める。

雨音 光

こうやって、騒いでる二人を見ながら、川越さんと笑うの、すごく好きな時間なんだ

先輩が、優しく笑う。

それだけで、私は嬉しくなってしまう。

雨音 光

幸谷さんと田宮君が屋上に来てくれるのは、すごく嬉しいよ。

俺、今の学校に後輩って呼べる人がいないままだと思ってたから、三人も仲良しの後輩ができるのは嬉しい

雨音 光

でも、それでも……川越さん、クロニャ、レインとしゃべる時間も好きだから、無くなっちゃうのは寂しいなって、思っただけだよ

川越 晴華

私も、そうですよ。でもね、先輩

私は。

川越 晴華

私は、それだけじゃなかったです

雨音 光

ん?

先輩の微笑に、私も小さく笑いかえす。

川越 晴華

二人きりになりたいなんて言われたから、期待しちゃいましたよ

え、と小さくもらした先輩の声が、静かな廊下にぽつんと落ちた。

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