2-2の表札がかけられた教室のドアを開きながら、鋼太郎は軽やかな足取りで通い慣れたその場所へと足を踏み入れる。
セーフとは言うが、ふと時計を見ると始業まではまだ少し時間があることがわかった。
たったそれだけのことで自分が少し真面目な人間に思えた鋼太郎は、くすりと鼻を鳴らす。
うっし、セーフっと
2-2の表札がかけられた教室のドアを開きながら、鋼太郎は軽やかな足取りで通い慣れたその場所へと足を踏み入れる。
セーフとは言うが、ふと時計を見ると始業まではまだ少し時間があることがわかった。
たったそれだけのことで自分が少し真面目な人間に思えた鋼太郎は、くすりと鼻を鳴らす。
お、今日は天城が遅刻してないぞ
るせー、毎日遅刻してるわけじゃねぇよ。おはようさん
自分の席へ向かう途中入った、クラスメイトからの茶化す声に、鋼太郎は拗ねた風にして挨拶を返す。
言葉はぶっきらぼうなものだったが、鋼太郎の表情は楽しそうだ。
来るまでは面倒くさいが、いざ来ると中々楽しい。こんな街でも、学校にはそんな普通がある。
こらしょっと。とはいえ、今日は怒られないで済みそうだな
だがクラスメイトが言うように、鋼太郎が遅刻の常習犯というのは事実だった。
鋼太郎自体はそれなりに真面目な部類なのだが、その身の上から、鋼太郎は通学途中に絡まれる事が多いのだ。
クラスメイト達は、あまりその事実を知らない。
ん……珍しい。万年遅刻魔がホームルームの前に来てるじゃないか
しかしそんな事実を知りながら、鋼太郎を茶化す声が一つ。
凛とした少女の声に、鋼太郎は眉を顰める。
好きで遅刻してるわけじゃねぇっての
ああ知っているとも。おはよう鋼太郎。いい朝だな
おう。御堂もおはようさん
暖簾に腕押しの京とはまた違う、少女の花開くような笑顔に毒気を抜かれ、鋼太郎は苦笑する。
少女の名は、御堂やよい(ミドウヤヨイ)と言う。
珍しくこの街では『普通ではない』女の子だ。
でもどうしたんだ? 本当に珍しいじゃないか。今日は誰にも絡まれなかったのか?
愛嬌のある表情には似つかわしくない、凛とした口調でやよいは問いかける。
どこか茶化すようなイントネーションの含まれた質問は、鋼太郎の答えを『YES』と予想しているのだろう。
分かりやすいやよいの表情に、鋼太郎は本当のことを言ってよいか少しだけ迷ってから、何もなかったんだしよいかと先ほどあったことを伝えた。
ん……いや、篠塚さんにちょいと捕まったぞ
なっ……篠塚京にか!?
だ、大丈夫だったのか!?
だが鋼太郎の見立ては、この少女には通じなかったようだ。
おわっ! 落ち着けって!
大丈夫だからここにいるんだろうが!
突然肩を掴んで揺さぶってきたやよいに、声までも振り回されながら鋼太郎はなんとかそれだけを伝える。
すると、少ししてからやよいは動きを停止した。ただし、肩は掴んだままだが。
あっ……そ、そうか。そうだよな。
すまない、心配で自分を見失っていた……
そんなことを臆面もなく言うやよいに、鋼太郎はまた苦笑を浮かべた。
……『普通』では、この少女には敵わない。どこか羨ましそうにやよいを見る鋼太郎の瞳は、先ほど京が鋼太郎へ向けたものによく似ていた。
御堂やよい。彼女は、この街において何処までも『普通でない』少女だ。
『シンドローム』に罹患しながら当たり前の事で笑うことができて、人が傷つく事でさえ心を痛める事ができる。
そんな──『街の外』に居るような少女。それが御堂やよいである。
鋼太郎も、この街の人々からすれば大分『街の外』に近い存在だ。
だが彼女の場合は、その度合が違う。その気になって『シンドローム』を隠していけば、今日にでもやよいは街の外で暮らしていけるだろう。
この街に慣れてしまった鋼太郎には、それは不可能だ。仮に街の外で害意を向けられたとしよう。その場合、彼女はきっと逃げて助けを呼ぶ筈だ。……鋼太郎ならば、なんの逡巡もなく応戦して一瞬で殺してしまう。
それは、あまりにも決定的な違いと言えた。
いいさ。心配してくれるのは……嬉しいしな
やよいからすれば、知り合いが大量殺人犯に絡まれたようなものだ。
今の今まで篠塚京に絡まれる、という事を理解できていなかった鋼太郎は、言葉を詰まらせながら礼を述べた。
鋼太郎がそういうのなら、良かった。
……でも、何かあったらすぐに言ってくれ。私なら、少しくらいの怪我は治せるから
自分は違う。
そう思っていたはずなのに、この子と話していると否応なしに自分が『この街』の人間だと再認識させられる。
鋼太郎はばつが悪そうに頭をかいた。
確かに鋼太郎は、街の人間たちには『普通』を貫いていると認識されている。
しかし、それはこの少女の前ではまやかし──偽物の『普通』なのだ。
やよいは『ステージ2』のシンドロームこそ持たないものの、能力を受け入れつつ町の外の普通を持つ、非常に稀有な人物だ。
彼女が街で暮らし始めてもう何年が経つのだろうか。少なくとも自分とはそう変わらない筈だ。だというのに、やよいは街に染まっていない。
鋼太郎には、それが羨ましかった。
俺の『ふつう』なんて、コイツに比べたら残り滓みてーなもんだ。
……敵わねぇなあ、ホント
だからこそ鋼太郎は──そうなりたいと願う。
この街で初めて出来た友達である、彼女のように。
おーう、てめぇら席につけー
ホームルームの時間だぞっと
丁度話に一段落がつくと、教室に大人特有の低い声が響いた。
鋼太郎のクラス、2-2の担任である赤坂小粋(アカサカコイキ)の声だ。
鋼太郎以上にやる気の感じられない教師は、しかしとある問題児の姿を見つけると、驚愕の声を上げる。
って、おお!? 天城が来てるとは。
マイッタな、今日傘持ってきてねーよ
ええー……先生までそれ言うんすか……
俺、終いにはグレますよ……?
やよいのようには、中々なれない。
──けれどここでは、学校では鋼太郎は『普通』でいられる。
だからこそ鋼太郎は、この場所が好きだった。
ダルいと言いながら遅刻しようと、必ず来るほどに。
ちょうどその頃、始業を告げるチャイムが学校に響き渡る。
その鐘の音は『街の外』と同じ音色をしていた──