その日、病院の屋上から見上げる空は、雲一つない快晴だった。
夏の暑さの名残もとうに過ぎ去り、冬が始まる前の一番良い季節。沈みかけた太陽の光は、ただただ綺麗だと思えた。
その日、病院の屋上から見上げる空は、雲一つない快晴だった。
夏の暑さの名残もとうに過ぎ去り、冬が始まる前の一番良い季節。沈みかけた太陽の光は、ただただ綺麗だと思えた。
しかしそんなただ中にあっても、わたしの心は少しも晴れなかった。あの後、屋上で話そうと言った陸についてきたはいいものの、胸がざわついて仕方がない。不安と、まるで袋小路に追い詰められたかのような焦燥。
それで、父さんの容態はどうなんですか?
人気のない屋上に着いてまもなく、陸から口を開いた。
それはわたしへの問いかけではあったが、おそらく予想はついているのだろう。どこか確認をしているようにも思えた。
先生の話では……検査の数値も安定していて、この数日で意識が戻れば一気に回復に向かうって。後遺症とかはまだ分からないけど、多分……
隠すことになんの意味もないので、わたしも医師に言われたことをありのままに話す。
やっぱり、そんな都合よくいくわけないか。
俺、正直言うと……父さんがこのまま死んでくれたらって思ってました。先輩には大丈夫だとか、心配するなとか言っておきながら……結局、現実逃避してただけなんです
わたしもそうだよ。今だって……可能性ならゼロじゃない
そうですね。でも今から父さんが急変するとか、医療事故が起こるとか、そんな奇跡に期待するのは現実逃避以上に馬鹿げている
奇跡と呼ぶにはあまりにおぞましい願望。わたしも陸も、それを自覚しながら口に出しているのだから、もうどうしようもない。
俺の両親はもう手遅れだからいいとして――このままならきっと近いうちに、先輩のご家族にも知れちゃいますね。
いいんですか? 優しいおばあさま、おじいさまを悲しませても
そんなの……!
あまりにも今更な話だ、と言いかけたのを思わず飲み込んだ。
あの日の、父の最後の言葉が頭をよぎる。何が一番自分のためになるのか、よく考えろとあの男は言った。
どういう意味かは分かっている。けれどそれらは承知の上で、この道を選んできたはずだった。
それよりも何よりも、どうして今頃になって陸はそんなことを言うのか。まるで――わたしの心を揺さぶろうとしているみたいに。
だけど――たった一つだけ、先輩が家族も友達も捨てずに済む方法がありますよ
無意識に眉をよせたわたしに、陸は予想通りとでも言いたげに苦笑する。
そして、咄嗟に思い浮かんだ不安。
……そこには、きみは含まれているの
けれども、陸はそれには答えなかった。代わりに、ただ笑った。それで――悟る。
一緒に逃げようって言ってよ。そうしたら、わたし……
生活力もない子供が二人で、どこへ行こうっていうんですか
陸は感情を押し殺すように、淡々と正論突きつける。
それが理解できないほど、馬鹿ではないつもりだった。けれども、理解するのと、受け入れるのとでは違う――……
それは、やってみなければ分からないじゃない。最初から諦めるというの?
諦めるわけじゃありません。俺達が別れを選んだ――そのことに意味がある
離れてしまったら、意味なんて、ない……
制服のスカートを握りしめ、首を振る。
そんなわたしを諭すように、陸は言った。
もう二度とこんな風に会うことはなくなっても、俺と先輩には同じ血が流れている。この繋がりだけは、どんなに離れても切れることはありません。俺達はいつも繋がっている、だから
皮肉な話だ。あれほど憎んだ父親が、忌々しくすら思うこの血が、わたしと弟の唯一の繋がりだなんて。
だけど、それすら単なる気休めでしかない。離れていても繋がっているなんて、そんなスピリチュアル的な話をされても理解できない。
さよならです、先輩
一瞬が永遠のように感じられた。彼の顔を見れば分かる……この決断は、覆ることがないと。
こうするのが誰のためにも一番良いのだと分かっている。わたしたちの関係は、誰も幸せにすることができないのだ。それは、わたしたち自身でさえも。
だからわたしは別れを受け入れた。
そうするしか、なかったから。
わたしたちは、しんみりしながらバス停までの道を歩いた。
お互い何を話せばいいのか分からず、沈黙が長く続く。もう会えなくなるのだと思うと、一瞬一秒が惜しい。それなのに、何故かどうでもいいような話題しか思いつかないのだ。
到着したバスに乗り込む陸を見送る時、わたしは込み上げるものを必死にこらえて笑顔を作った。
その時――不意に陸がわたしの耳に囁く。
先輩。もしも――……、――――……
……?
その時は、意味も分からずただ首を傾げた。
わたしが彼の最後の言葉と微笑みの意味を知るのは、ずっとずっと先のこと。
そうして離れたわたしたちは、長い時間を互いを知らずに過ごし、大人になる。
何もなかったかのように以前の日常に戻ったわたしは、いつしかかつて愛した異母弟も、彼と犯した罪さえも思い出さなくなっていった。