病院の外で陸とは一旦別れて、わたし一人で父のところに向かう。祖母と叔母が既に来ていて、父の様子を聞いた。

集中治療室の父は、昨日と変わらず意識が戻っていない。祖母から聞いた医師の話では、未だ予断を許さない状況だという。ただ一つ、昨日とは違う情報がわたしの頭の中に残った。

それは、父の意識が戻って、この先数日間を何事もなく過ごせば、回復の可能性がぐっと上がるということ。

祖母

きっと大丈夫よ


祖母は何度も繰り返した。

わたしは祖母の言葉に頷きながらも、喜ぶことはできなかった。

紗己子

なんだ、助かる可能性……あるんだ

いっそこのまま、死んでしまえばいい。

そんなことはとても、祖母には言えなかったけれど。

祖母たちには適当な理由を告げて、わたしは外で待つ陸に会いに行く。

自分の感情は出さないように、ただ事実だけを淡々と話した。

もしかして……父さんと何かありましたか?

紗己子

え?


わたしの中の動揺を、陸に見抜かれるとは思わなかった。

急に父が倒れたから、父にわたしたちのことが知れてしまったのは話していなかったのに。

例えば……何か、言われたとか

紗己子

……どうして?

母さんが知ってる以上、父さんに話が伝わるのは予想できますよ

彼の母親への脅しは、父への口止めには不十分だった。何もかもが甘い――わたしは。

陸と一緒にいたいならば、何がなんでも知られてはいけなかったのに。

紗己子

……あの人、わたしたちのこと引き離す気みたい

でしょうね。でも父さんは倒れた。当分は何もできないと思う

紗己子

でも


きみはあの男の本性を見ていないから。

あの男の狡猾さも冷酷さも知らずに、ただ愛されて育ったから、そんな楽観的なことが言える。

……大丈夫ですよ。先輩は何も心配しないで

何が大丈夫なのか、ちっとも分かりはしなかった。

けれど、陸が久しぶり笑いかけてくれたから、わたしは小さく頷くしかない。

俺を病院につれてきてくれてありがとう。これで息子としての義理は果たせました

そして――その言葉の意味も、よく分からなかった。

その後、父が倒れてから一週間以上が過ぎた。

父の意識は依然戻らず、楽観視はできないと医師は言ったが、集中治療室から一般病棟へと病室を移した。とりあえず検査の数値は安定しているから、とのことで、祖父母は喜んでいた。

元気だった頃のように回復できるかは分からないが、父は日に日によくなっている。それに比例するように、わたしの不安は増すばかりだった。


もしも、父の意識が戻ってしまったら?
このまま何事もなく、父が回復してしまったら?

考えるだけで恐ろしい。あの悪魔のような男が戻ってくる。

――先輩、聞いてます?

紗己子

えっ……ごめん、何?

怪訝そうな陸の声に我に返ったのは、いつもの駅までの帰り道。電車の音がすぐ近くにに聞こえる、人や車の往来の多い駅前でのことだった。

最近、なんだか上の空ですね

紗己子

そうかな……ごめんね

別に謝らなくてもいいですけど……

ここ数日は、いつも駅前のバス停で陸と別れる。毎日わたしが、父の見舞いに行っているからだ。

紗己子

ねぇ、今日は一緒に行かない?

断られるだろうとは思ったが、念のために声をかけてみる。しかし、今日も予想が覆ることはなかった。

やめておきます

紗己子

一般病棟にも移ったし、叔母さんも今は家に帰ってるよ。今日はおばあちゃんもいないし

誰の目も気にせず父親に会える。医師や看護師聞かれたら、わたしの友達だと言えばよい、と渋る陸を説得する。

それでも、陸は決して首を縦にはふらなかった。

倒れた翌日、一緒に病院に行ってからずっとこうだ。
もしかしたら、彼はもう父親には会わないつもりなのかもしれない。どういうつもりでそうしているのかは、分からないけれど。

先輩の気持ちはありがたいですけど、今は会うべきではないと思うんです。ただでさえ、家族ではないんだし……

陸から返ってくるのは、いつも曖昧な答え。なぜ自分の父親に会いたくないのか、その理由が分からない。

本当に家族に遠慮しているのか。それとも別の何かなのか……聞いても陸はきっと答えない。

どうして?
わたしは、一緒に来て欲しいのに。

紗己子

分かったよ。もう誘わない、じゃあね

苛立ちを隠さず吐き捨てるように言うと、陸の返事も聞かずにバスに乗った。

困惑したようにわたしを呼ぶ声も、全部無視して。

一緒にいて欲しかったのは、単純に一人では気が狂いそうだったから。そんなことも素直に吐き出せないわたしは、結局病室で父と二人きりになる。

機械音だけが響く、無機質な空間。

意識のないの父がわたしに語りかけることはない。わたしも何かを語りかけることはない。この男には何一つ恩義は感じてはいない。愛されてもいなければ、愛してもない。

そんなわたしが、何故かここに足を向けてしまう理由は一つ――この男が目覚めてしまわないか、見張るためだと思う。

どうしてそんなことを、誰かに話せるだろう。血を分けた父親が、このまま目覚めないことを望んでいるなんて。

もしも、もしも。父が目覚めてしまえばわたしはきっとあの男に勝てない。陸とは引き離される……二度と、会えなくなる。

そして、それは現実になろうとしていた。先程病室にやって来た医師が、数日中に、快方に向かう可能性が高いと言ったのだ。

そう――だから、やるなら今しかない。

この男さえいなくなれば、全てなかったことにできる。わたしたちは、ずっと一緒にいられる――そればかりが頭の中を支配して。

それ以外は何も、見えなくなる――

父の生命を維持する機械に繋がったいくつかの管。わたしは静かにそれに手を伸ばした。

28 たった一つの可能性

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