先輩っ……

困惑したような陸の声が、何度も何度も聞こえていた。けれどもそれらの一切を無視して、わたしは彼の手を引いたまま歩き続ける。

ねぇ、先輩

どのくらいの間、あてもなく歩いただろうか。陸の母親の姿など、とっくに見えなくなっていた。馴染みのない景色に気づいて、ようやく我に返る。

落ちついて下さい――一体どこに行くつもりなんですか

紗己子

……ごめん

わたしは呟くように言って、遂に足を止めた。同時に、ずっと無意識に掴んだままだった陸の手を離す。

理性が戻ってくるにつれ、自分がしでかしたことの重大さが身に染み渡ってくる。

言葉では取引と言いつつも、あれは脅したも同然だった――――。青ざめた顔で立ち尽くす陸の母親の目の前から、奪うように陸の手をとると、返事も聞かずに勢いでここまできてしまった。

ああ――なんてことを。
こんなことをするつもりじゃなかった。
わたしは、ただ。

どうしたんですか。先輩らしくないですよ

強引に連れてこられた陸は、心配そうにわたしを見た。

紗己子

ごめん……わたし、どうかしてた。なんでもないの、つれ回してごめんね

わたしはどうにか理性を取り戻して、作り笑顔で取り繕う。けれどそんなずさんな代物で、陸が納得するはずがなかった。

でも、先輩、別れないって……母さんに。どういう意味ですか?

紗己子

違うの、それは。間違えたの

白々しい笑顔に、見え透いた嘘を上塗りする。もはや、ただの悪あがきに過ぎない。

もう抑えられない。この感情からは逃げられないのだと、気づいてしまった。

間違えるわけないでしょ。何かあったんじゃないですか? 母には何を言われたんです?

紗己子

……

先輩、答えて

陸は自分の母親をあんな風に脅したわたしを、一切責めようとしない。考えてみれば当然のことだった。自分を騙し、あれだけ傷つけた女を一度も責めなかったのだから。

もう――限界だった。

紗己子

……わたし、きみに酷いことをたくさんした。それが悪いなんて思ってなかった。だけど、そんなわけないよね

どうしたんですか……急に

紗己子

謝りたい……の。
今までわたしがしたこと、全部。
わたしにできる償いならなんでもする。
虫がよすぎるのも分かってるよ、でも

閑静な住宅街に、互いの声だけが響く。ここがどこだか、よくわからない。誰が見ているかも分からない。

それでも、今すぐ彼の胸に飛び込みたいと心が叫ぶ。そんな資格はないと、分かっているのに。

紗己子

……好きなの。きみが好き

瞬間、陸は言葉をなくしたようにわたしを見つめた。

その戸惑いに揺れる瞳を見て、更に自嘲気味に言う。

紗己子

笑っていいんだよ。だって馬鹿みたいでしょう、今更……

笑えるわけ……ない

やっとしぼりだしたかのような陸の声は、意外にも静かな怒気を含んでいた。

だってわたしは、陸が怒るところを見たことがなかったから。いつも理性的で、感情のままに怒鳴ったりしたところを見たことがなかったから。

許せるわけない……どうして今更そんなこと言うんですか。
先輩と俺は姉弟で、それだけは何があっても変えられない。どうにもならないのに、どうしろっていうんですか!

紗己子

……それは

不意に、陸の瞳から涙がこぼれた。
不謹慎にも、それが綺麗だと思う。

半分だけ同じ血が流れている弟は、そうとは思えないほどに清い心を持っている。醜い醜いわたしとは、比べ物にならないほど。

だから――だろうか。

謝るくらいなら、赤の他人に生まれ直して来てくださいよ。そうしたら、全部許してあげます……

紗己子

あはは……無茶苦茶を言うんだね。そんなの無理に決まってるじゃない

分かってますよ、でも他に方法がないじゃないですか!

紗己子

……

――っ

気がつけば、わたしは手を伸ばしていた。

涙に濡れた頬に触れると、彼はびくりと身体を震わせる。

先輩、なにを……

紗己子

……りく

その時、わたしは初めて弟の名前を呼んだ。

ありえない。
こんなことがあってはいけない。
そんなことは分かっている。

だけどもう――止められなかった。

紗己子

もう、なるようにしかならないよ

せんぱ……

陸の言葉を遮るように、わたしは唇を重ねた。

一瞬の触れるだけの口づけ。すぐに顔を離せば、痛々しく顔を歪めた陸が言った。

きっと……幸せになんてできません。それでもいいんですか?

他人(ひと)はおかしいと言うかもしれない。
けれどわたしはその瞬間、確かに嬉しかった。

紗己子

……いいよ、きみとなら怖くない

父の愛も、初恋の人も手に入れられなかった。
そんなわたしが遂に手にいれたのは、この世界で一人、たった一人の弟。

それがたとえ、神にも背く禁忌だとしても。

その後わたしたちは、あえて家とは反対方向の電車に乗って、適当な街に降りた。

そこで買い物をして、制服を着替え、夕方のホテルへと入る。

求めあうために、どうしてこんな不自由をしなければならないのか。そんな多少の不満と煩わしさは感じていたが、二人でいればそれすらも楽しい。

禁断の果実は、想像以上に甘く、まるでわたしたちを堕落させる毒だ。

わたしはそれに気づいていて、気づかないふりをした。

その日陸と一線を超えたわたしは、夢のように満たされた気分だった。

けれど、わたしたちが姉弟であることは何も変わってはいない。
この先もただこの幸福が続くなんてことはありえない。

それでも、今だけはこの罪に溺れていたかった。

だから一緒に、禁忌を犯そう。
きみと一緒なら、地獄にすら堕ちていける。

24 罪を犯したわたしたち

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