九月になった。

うだるような暑さは去り、一時に比べると随分過ごしやすくなった。半袖が時折肌寒く、吹き抜ける風に秋を感じる。そんな時、わたしは何故だか酷く孤独に襲われた。

あれから陸は、「解放する」と言った言葉の通り、わたしから離れていった。電話をメールもなくなった。部活にも顔を出さなくなった。

わたしは、陸に出会う前の日常に戻った。相変わらずの父、優しい祖父母、気立てのよい友人……全てが元通りになったはずなのに、確かに何かが違う。だけどその正体が分からない。

教師

管原さん、最近何かあったの?


ある日の放課後、担任教師に職員室へと呼び出された。顔を見るなりの唐突な問いかけに、わたしは首をかしげざるを得なかった。

紗己子

何か、とは……どういうことでしょうか

教師

いえ、ね。何もないのなら別にいいのよ。
だけど、最近他の先生方にも言われるの。予習はしてない、提出物は遅れる……もちろん成績も下がってる。この間の校内模試なんて、酷い有り様だったじゃない


小言など、余計なお世話だ。自分がどんな有り様かなんて、自分が一番よく分かっている。

教師

何か悩みごとがあるなら、話を聞くわ。とにかく成績を戻さないと……このままだと推薦も危なくなるわよ


悩みを聞くと言いながら、この教師が心配しているのは成績のことばかり。わたしを見ているのではない、わたしの成績を見ているのだ。

ああ、くだらない。本当に。

紗己子

結構です。別に何もないですから


わたしは、自分でも驚くほど落ち着いていた。

そんなわたしを見て、担任教師はあからまにほっとしたような顔をする。

教師

じゃあ、この前の模試は単に調子が悪かったのね。大丈夫、そういうこともあるわ。この次頑張れば十分挽回できるから

紗己子

……はい

教師

管原さんは品行方正で成績も良いから、みんな期待してるのよ。何か困ったことがあったら、何でも相談してね

作り笑顔で適当な相槌をうてば、まもなく職員室からは解放された。品行方正なお嬢様の役は、こういう時には便利だった。

けれどもその役も、ついに危うくなってきているらしい。一回目は大丈夫……けれど二回三回と続けばどうだろう。わたしの築き上げてきた信用が、イメージが、崩れていこうとしている。

そして心のどこかで、それでも構わないと思っている自分がいた。

一体どうしてしまったのだろう。いつまでも、いつまでも、心の空洞が埋まらない。関係を絶ったはずの、異母弟の姿を無意識に探してしまう。

紗己子

わたしは、もしかして……


そんな風に考えることがある。
その度、打ち消すように否定する。今更、考えること自体が無駄だ。彼とは別れた。二度と、関わることはない。

紗己子

これでよかったんだ


あの時、別れを切り出した陸に、何も答えることができなかった。

言葉を忘れてしまったかのように物言わぬわたしを、陸は少し悲しげに見て、笑った。

わたしの存在こそが、彼を苛ませていた。それを望んだのは他でもない自分だったのに、今更何を後悔しようというのか。そんなことが、許されるはずがない。

誰もいなくなった放課後の教室に鞄を取りに戻る。先に部活に向かった泉には、気が向いたら行くと言ってあったが、やはりそんな気にはなれなかった。

次の旅行はおそらく冬。今の時期は、来月の文化祭に向けた準備でもやるのだろう。

紗己子

どうでもいいや

天童さん

……あっ

学校を出る前に寄った一階のトイレで、先に小さく声をあげたのは向こうだった。

彼女ははっとしたように口をつぐむと、ばつが悪そうに視線を外し、そそくさとトイレから出ていこうとする。

紗己子

待って、天童さん

天童さん

な……なんですか?


つい反射的に天童さん呼び止めてしまった。久しぶりに見た彼女は、わたしを警戒するように見てはいたが、元気そうに見えた。

だけど――どうしよう。特に話したいことがあったわけではない。

紗己子

いや……その、最近見ないから。どうしてるのかなと思って

天童さん

どうもしませんよ。安心して下さい。あたし、もう陸くんに近づいたりしませんから

天童さんの勝ち気なところは相変わらずだったが、意外と律儀らしい。それとも、もう陸のことは冷めたのだろうか。

紗己子

別に――そんな……わたしは

天童さん

……どうしたんですか? なんだか先輩らしくないですね

紗己子

そう……かな

天童さん

もしかして、別れたって噂本当だったんですか?

そう言って、天童さんは眉を寄せる。図星を指されたわたしは、思わず言葉を飲み込んだ。

別れたことは、誰にも話してはいない。けれども、泉などは薄々感じているだろうし、陸自身が話したのかもしれない。

不意に、どうしようもなく嫌だと思った。もしかしたら今も、虎視眈々と彼を狙っているかもしれないこの子の前で認めるのは。

それがたとえ、どんなに滑稽でも。

紗己子

違うよ。ちょっと喧嘩中なだけ

天童さん

……ですよね。管原先輩が陸くんと別れるわけないと思ってました

紗己子

そう?

天童さん

そうですよ。だって先輩、彼のこと大好きだったじゃないですか


あまりにもストレートな表現に、わたしは少々面食らった。

天童さんには、そんな風に見えていたのか。確かに、そういう風に演じてはいたのだけれど。

天童さん

あたし、実は先輩に感謝してるんですよ。
欲しいものを手に入れるためには、なりふりかまってはいられないんだって。
それがどんなに残酷でも、悪でも。先輩のおかげで勉強になりました

紗己子

あはは……ありがとう


礼とも皮肉ともつかない天童さんの言葉には、苦笑するしかなかった。

天童さん

それじゃ、あたし急いでるので失礼します

紗己子

ああ、うん。引きとめてごめんね

天童さんの後ろ姿を見送りながら、わたしはようやく自覚した。

ずっと、彼女に嫉妬していたのだ。脅したのは半分、演技ではなかったと思う。陸をとられたくなかった。わたしの陸を、とられたくなかった。

ここに至るまで、ずっと認めることができなかった。だって、彼は父の愛人の息子で、の異母弟(おとうと)で。そんなことが、あり得るはずがないと。

わたしって本当に、救いようのない馬鹿。

欲しかったものを、大切にしたかったものを、自分で傷つけて、壊してしまった。

失って初めて気づく――とか、陳腐すぎて笑えない。

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