ゆっくりと私を持つ手が動き、闇の一角を照らす。
ゆっくりと私を持つ手が動き、闇の一角を照らす。
光の中にあって、なんの陰影も刻まない――そんな一面的な黒が続く視界のなか。
ぬらり、と。
差しだした光の先で、かすかに、なにかが動いたように見えた。
いや、より正確には――蠢(うごめ)いた、が正確なのだろうか。
『……』
息を呑む、という言葉が今の私に正しいかはわからないが、緊張の面もちになったことは確かだった。
それを感じたのか、私の身体を持つリンの手が、やや硬く握られたのが感じられる。
――私達は、その存在を、知っている。
近づくことはせず、距離を保ちながら、その闇を泳ぐ存在へと注意を向ける。
影を引きずるように、どろりと、それはゆっくりと動いている。
間隔があるため、光はそれの全体像を照らしていない。ただわかるのは、四つの手、もしくは足を、黒い大地につけながら歩んでいるということだけだ。
犬や、狼、狐などの四足歩行の動物にも似ているが、自然を抜けて風を切り、駆け出すような軽快さは感じられない。
むしろ、油漏れにより動きがおかしくなっている、ロボットのような気味の悪さが先に立つ。ひきつったように動いたり、と想えば滑らかに動く様などのアンバランスさが、そう感じさせるのだろう。
……?
リンは音を立てないように、ゆっくりと足を動かし始める。まあ、この闇の大地で足音は鳴らないに等しいのだが、警戒しておいて損はない。
――そう。私達は、その存在が、油断できないことを知っている。
かすかにそれの身体へかけられていた光が、少しずつ剥がれていく。
今更だが、私自身も少しだけ光量を落とし、気づかれないように配慮する。
……この闇の中、気づかれてしまっては、どちらにしろ同じことなのだが。
それに名前はない。便宜的に、ナニカ、と呼ぶとしよう。
闇の中につぶされず、闇を泳ぐ。
そして私の光にあぶり出された時には、不気味で不定形とさえとれるその姿を、リンと私の前にさらけ出すのだ。
……っ
私もリンも、その存在に気づかれないよう、静かに歩を進める。
光の存在に気づいたふうにも、音に導かれるようにも見えない、暗がりに消えていくナニカ。
かつてもこうしたことはあった。ナニカは闇に沈み、光であぶり出され、いつしかまた闇の中へと帰っていく。
ただ、触れる必要はない。
……♪
距離をとり、もうその不気味な姿は闇の中へと完全に帰っていたように見えた。
ほっと、安心したような笑みを浮かべるリン。
私へ向けられた微笑み。こうした時、同じように微笑みかえせない身であるのが、つらく感じる時がある。
だからこそ……私の視界や感覚は、かつての姿だった時より、鋭いのかもしれない。
『――!』
!?
暗い闇が、真っ白い光に染まった。
一瞬、周囲の闇に沈んだ姿が、私の光でさらされる。
多様な残骸や蠢くモノが見えたが、目的の存在に気をとられ、そのほとんどをきちんと見ることはできなかった。
失敗したと感じながら、周囲一面を照らすほどのまばゆい光を少しずつ絞っていく。
『……』
内に眠っていた、何人か分の光の力が散ったことを、肌身で感じる。この感覚は、慣れない。
そして今、問題なのは……リンへと飛びかかってきた、ある一つの影の存在だった。
……???
とっさの大きな発光に、リンの眼が少し眩んでしまったようだ。
ぼうっとした顔でごしごしと眼をこすりながら、私に事情を尋ねてくる。
事情を聞いてから、光を通常程度の大きさに戻した私を掲げ、リンは周囲へ視線を向ける。
――!
辺りには、ナニカが悶える姿があった。しかも、一つではない。
先ほどの光で、かすかに見えていた、闇を泳ぐ影。先ほどのナニカと同様、闇から生まれた存在達なのだろう。
眼も口もなく、なにを考えているのかも読みとれない。だが、一つだけわかることがあった。
闇夜に潜んでいたナニカ達は、私とリンを狙っている。
今までの経験から、その気配を感じることができるようになっていた。
光を少しだけ強めながら、周囲に視線を向ける。リンもそれに合わせ、私の身体を周囲にかかるように、左右に動かす。
現れる影は、種々様々。
ナニカの姿やその動きはいつもバラバラであり、それぞれ規則性はない。
四本の足をじっと立たせるモノ、たんたんとリズムよく叩くもの、波形のように気味悪く蠢(うごめ)かせるモノ、泳ぐように四肢をばたつかせるモノ。
共通するのは、どこか奇妙で不気味な感覚を起こさせる姿である、ということくらいだろうか。
ただ、ここまで集まることは珍しい。
先ほどの襲撃があるまで、一体、もしくは闇の中に数体だと想っていたのだが。
十に届きそうな数に、私を持つリンの手が少しきつい。
……
真剣な瞳で、リンは周囲へ私の姿を浴びせるように、ぐるりと手を動かす。
――かつての世界で、闇夜を照らす火を見ると、生き物は恐れ去っていったという。
ナニカ達も、それと同じだった。強い光を浴びせられると、その身を焼かせられることに気づいたのか。
かすかに照らされる範囲以上に、その奇妙な姿をよせて、踏み込んでくることはない。
つまり、私の今の光をきちんと被せられるように注意していれば、少なくともナニカが襲ってくることはないと想えた。
……もちろん、油断はしないように注意しているが。
ゆっくりと、リンはナニカ達と距離をとる。
慎重に足を動かしながら、視線を光の先から外すことはない。
相手の様子を確認しながら、次第に足の速度を速めていく。
少し距離をとるだけで、私の光はナニカ達から外れる。そしてリンは、今度こそ足を大きく踏み出して走り出す。
光を当て続けることで、追い払うことはできる。
だがそれでは、せっかく力を貸してくれた光達を、ナニカ達を討伐するためだけに使うことになってしまう。
彼らが、そしてリンが望んだ光の行く先は、そうしたものではないはずだからだ。
リンはわき目もふらず、揺れる光を支えに、闇の中を走る。
その背中には、やはり、なにかが追ってくるような気配があった。
闇に潜みうごめくのは、ナニカ達の特技なのだ。そして、せっかく見つけた貴重な獲物を、見過ごすはずがない。
(『獲物、か……』)
私はふと、自分の言葉を繰り返して、自問した。
はたして、彼らは何のために追ってくるのだろうか。
闇の中を歩く、リンの姿が珍しいのか。それとも、この世界に陰影をもたらす、私の光が目障りなのか。
それとも、なにか別の理由があるのだろうか……。
しばし考えてみるが、そもそも、それをどうやって解き明かせばよいのか。
ナニカ達に聞くのが一番早いのだろうが、そもそも、我々と同じような意志疎通を行うことは可能なのだろうか……。
そんなことを考えていると、リンが足を止めた。
輪郭を失い、闇へ沈んだナニカ達に背を向けてから、どれくらい走ったのだろう。
私は周囲に気配を走らせながら、息を切らせたリンの様子も合わせて確認する。
細身で幼い容姿だが、リンの身体は持久力に優れていた。
なのに、息を切らせているということは、かなり長い時間を移動したということだ。
もちろん、背中になにかが追ってくるという圧迫感があったことも大きいのだろうが。
闇の中に、まだなにかが潜在している気配はあった。
ただ、その圧迫感というか感じ取れる大きさは、さきほどより少なくなっているようだった。
……
リンは少しだけ、目尻を下げた。先ほど、時計を失った時と似た顔。
細めた瞳からは、少しだけ、揺れた心がかいま見える。
――自分を襲おうとしている存在にすら、そんな顔をするリンのことを、不安になる時もある。
だが、私はリンの手の中で、ただ光を灯し続けた。
そうすれば、リンも私も、ナニカ達が近寄れないと知っているからだ。
その行為に、私達の中でもややズレがあるのは、寂しいことではあるが。
それから、どのくらいの時が経ったのか。それとも、時が経つという感覚すら、この暗闇の中では意味を持たないのか……?
だが、しばらくすると、周囲の気配はなくなったように想えた。
……?
もちろん、闇夜に潜むのがナニカの習性であり、特技でもある。
油断するわけにはいかなかったが……ひとまず、リンは安堵の息を吐いたようだった。
そうして、私へとかすかな笑みを浮かべる。
息はもう安定しており、いつでも動き出せるようだった。
一刻も早くここを離れたいのは、私も同じだった。
――だから、油断していたのだ。
……!
『――?』
まさか、こんなにも一寸先の闇に。
奈落の底へ落ちるような危険があると、想像することを忘れていたのだ。