――これは、ある少女と歩む、私の日常だ。

 闇夜を歩く。
 これは、比喩ではない。私の視界の先、身体から発せられる光が届く範囲をのぞいては、世界にはただ闇だけが広がっている。

 その、私が灯す光に照らされ、数少ない陰影を刻む影が一つ。

 全身を覆う衣服は動きずらそうだが、この闇の世界では身を守っているようにも受けとれる。
 頭にかけたベールも、その印象を強めている。
 ただ、それらの衣装はどこかゆったりとした雰囲気を作り出しており、見るものに威圧感を与えない仕上がりになっている。
 その印象を和らげているのは、服装の柔らかさだけではない。それをまとう少女自身も、どこか穏やかな表情をしている。
 ぱっと彼女を視界に入れ、警戒するものは少ないだろう。そう想わせるゆるやかさが、私を持つ少女からは感じられる。

 少女の腕が動く度、私の光がかすかに揺らぐ。

 かぼそい木の棒で支えられ、その先端で輝いているのが、私の身体。

 ――私は、かつての人間が扱っていた、マッチのような形をしている。
 熱さを持たない私の光を持ちながら、少女は闇夜で歩を進めている。
 音も鳴く、道しるべもなく、立ち寄るべき場所もない。
 社会を成す人間の姿も、世界を満たす動物達の叫びも、自然を生きる植物達の活力も、もうこの世界には存在しない。
 ここは、暗闇だけが支配する世界。
 一切がわからぬ闇の中、意志を持ったマッチが灯す、かすかな陰影。
 二つの意志が住まう空間を保ちながら、少女はまっすぐ歩み続けている。

 ――私の名は、スー。
 ――少女の名は、リン。
 ――二つで一つの、闇を歩く者だ。

……♪

 不思議とリンの足取りは軽い。
 もしかすると、楽しい記憶を想い返しているのだろうか。
 この世界にあるのは、一面に塗りたくられた黒の世界だけだというのに。
 だが、一切の存在を押しつぶすかのようなその色のなかを、リンは恐れずに進み続ける。
 それができるのは、かすかに浮かぶ、私の身体から発せられる光のためだろうが。
 ――もっと、根本的にいえば。リンが、この世界しか知らないことが、大きな理由なのかもしれない。

……!

 私がリンの楽しそうな理由を考えていると、リンの腕がゆっくりと移動した。

 光の当たり方を変える――それは、新しい陰影を生むこと。違う世界の姿を生むことに他ならない。
 リンは、なにかを見つけたのだろう。
 そしてそれは、すぐに私の視界の中にも映りこんできた。

……?

 瞳を寄せて、興味深そうな視線を向けて、陰影へと足を向ける。
 近づいて立ち止まり、闇の中から浮かび上がるそれを、リンは見つめる。

 ――それは、かつて世界に光が満ちていた時の、欠片達。
 こうしたものを見つけるのは、初めてではない。
 闇の中でも形を失わなかった彼らは、不意に現れる。
 在りし日の世界の断片を残すように、彼らは主主の姿を一瞬だけ取り戻す。

???

 だが、この闇の世界で生まれた――と、想われる――リンにとって、見つけるもの達は未知の存在でしかない。
 ましてや、それがなんであり、なにに使われているのか、教える者も教える方法もなくなってしまったのだ。もっとも大きいのは――それを生かすための世界が、すでに存在しないことなのかもしれないが。

~♪

 リンは、足下の存在に手を伸ばす。
 丸い板の上に二つの矢印があり、その円をなぞるように12の数字が描かれたもの。
 空いている指先を針に寄せ、力をこめてくるりと動かす。
 長針が動くと同時に、短針も同時に動く。

……!?

 おそらく、同時に回転するような仕組みが組み込まれているのだろう。
 リンは興味深いのか、何度も針をいったりきたりさせ、盤面での回転劇を楽しんでいる。

 少しして、丸い形の本体を持ち上げ、私に問いかける。この不思議な方はなんなのですか、と。
 私が知る範囲でならば、なにも知らないリンに、それを教えることが出来る。それもまた、リンとは異なり、かつての世界の知識を持っている自分の役目と感じている。
 私は、時計だよ、とリンに教える。

――???

 だが、この暗闇の世界に、時間の感覚は存在しない。

 朝も、昼も、夜も、全て同じ。代わり映えのしない時間と空間だけが、後にも先も続いている。

 朝の陽により闇が払われ、

 夜には月の光へ恋い焦がれた、光と闇が混じった世界。

 その世界を支配していた、世界を管理するシステムの一部。
 ――時間の表現者は、ただ、意味のない文字盤をなぞられるだけの道具になってしまっていた。

……♪

 だが、リンは上機嫌だった。
 時計の意味や、時間の概念などは軽く説明したが、今一つ把握していないようだった。
 ただ、12個ある文字を針がなぞるように動く姿は、どこか愛らしいとリンは言った。
 同じ数字の上をまた巡り、大きい針を小さい針が追いかける。そしてそれらは出会い、またすれ違う。
 その交差する姿が、興味深いのだと言う。

 ――実のところ、私にそれは時計というもの以外には見えず、リンの感情を理解し切れたわけではなかった。
 だが、リンの喜びに、水を差す必要はない。
 くるり、くるり。
 しばしの間、リンの指が、仮初(かりそ)めの時を刻む。

――!

 だが、その時間は、長く続くことはなかった。
 繰り返される二本の針が、もう、回ることを止まってしまったからだ。

 リンの指が、黒い霧の間をなでる。
 それは、時計の中心で踊っていた、針と呼ばれていたものの残骸だ。
 くるくると、リンの導くままに何回も回り、次第に力を失っていったのだろう。

 針の形を保てなくなった針達は、次第に霧のような塵すら消えていく。
 リンの指をすり抜けながら、まるで、闇の世界へ引かれてしまうように散っていく。

……

 自分の指をすり抜ける姿を見ながら、リンは眼を細めながら流れゆく先を見る。
 そこには、なにも変わらぬ闇が広がっているだけなのだが。

……!

 そして、形を失うのは、針だけではない。
 次第に、時計と呼ばれていたものも、闇の中に溶けて消える。

……

 ――こうしてモノが形を失うことは、初めてではない。
 光り輝くこともなく、ただ、私の光で仮初(かりそ)めの姿を取り戻したモノ達。
 誰のものともしれない服や、効用のわからない薬、半分になってしまった車、独りでに稼働し続ける機械……。
 リンと私は、かつての世界を彩ったそれらに出会い、感激し、語り合い、そして――別れを、繰り返している。

 私はそれらを見ながら、不思議な感傷にとらわれている。内からわき出るおぼろげな知識が、その理由なのだと知ってはいる。

 断片的にだが、覚えているのだ。かつて世界は、光に満たされていたということを。あらゆるものが、世界に複雑な形を与えていたということを。
 色とりどりの色と、光の陰影。
 入れ替わる闇の中に埋もれながらも、決してその闇に染まりきらなかった世界の奥深さ。
 世界は、光と闇が入れ替わることにより、その複雑で美しい形を刻んでいったのだ。

 ――しかし、それらの記憶は、もう失われてしまった影にすぎないのだと感じてもしまう。
 むしろ、内からわき出る知識こそ、偽物ではないのか。そう、疑念を抱く時があるほどに。

『……』

 リンの手元から、見える範囲に視界を開く。
 だが、そこには、なにもない。もう、散っていった時計の姿も、闇に溶けてしまっている。
 かつて存在した光は、闇に飲まれ。
 入れ替わるように共存していたかつての闇も、それを上回る存在に塗りつぶされてしまった。
 今、ここにあるのは、ただ闇に呑まれるのを待つだけの――平坦な、ただ平坦なだけの世界だった。

……

 小さく吐息をし、リンはうつむく。
 手の中から散ってしまった存在を見つめるかのように、虚ろな瞳で立ちつくす。
 声をかけ、反応を待つ。
 大丈夫ですよ、とリンは言う。

……♪

 無理に作った、かすかな笑み。
 私を安心させるためか、言ってはいけないと想っているのか。
 リンは、眉をひそめ、眼をすぼめることがあっても、最後にリンは笑うのだ。
 どんなに歪でも。どんなに時間がかかろうと。
 ――私が、その声を聞こうとしても。
 今回も、同じだった。
 気にならないと言えば、嘘になる。
 だから私も、リンにそのことを問いかけようとした――その時だった。

……?

 崩れそうになっていたリンの顔が、硬く引き締まったのは。

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