旅行研究同好会、夏休みの旅行は静岡に決まった。富士周辺の観光と、夜は富士山の見えるコテージでキャンプ。

多分そんな感じだったと思う。同じ二年の三原さんが、山の素晴らしさを力説していたのは覚えているから。

紗己子、本当に大丈夫なの?


ミーティングが終わって、皆が帰って行く中、泉の声で我に返って、わたしも帰らなければと思う。

紗己子

ごめん。本当に大丈夫なの。ちょっと考え事しちゃって……

本当にそれだけ?

紗己子

うん

そっかあ。じゃあ、早く帰ろ?


無理矢理笑顔で頷いて立ち上がった――その時。

部長

柏木、ちょっといいかな

……なんですか?

部長

話があるから、来て欲しい

……でも

部長

時間はとらせないから

泉はちらりとこちらを見る。
きっと部長は、泉に謝りたいんだろう。

わたしは、泉が心置きなく部長のところへ行けるように微笑む。

紗己子

わたしなら、大丈夫だよ

紗己子

仲直りしておいで

本当に、ごめんね

紗己子

いいよ

泉と部長が出ていくのを見送ると、部室にはほとんど人がいなくなった。一人を――除いて。

紗己子

しまった……

陸は旅行の資料を座って眺めていて、帰るには彼の横を通らなければならない。

完全に無視するのもなんだか変だ。軽く挨拶だけして、すぐに帰ろうと思った。

紗己子

椎名く――

旅行、楽しみですね

紗己子

そっ……そうだね

俺、静岡って行ったことなくって。先輩はありますか?

紗己子

……ある、けど

へえ! どんなところでした?

なにこれ。
なんで普通にしゃべってるの。

紗己子

どんなって……

何気ない会話をしながら、陸は机の上の荷物を片付け、自分の鞄にしまう。そして立ち上がると、自然にわたしの隣に立った。

先輩?

どうかしました? 眉間にしわ、よってますよ

困惑するわたしをよそに、陸は茶化すように笑う。

紗己子

……どういうつもり?

確かに、こうして一緒にいるのは普通の事だった。だけど、それは昨日以前までの話だ。

こんなのはおかしい。わたしは彼を騙して傷つけた。それなのに、彼は何事もなかったかのようにわたしに笑いかける。

ありえない。いっそ、気味が悪い。

え? 一緒に帰ろうと思って。それとも、今日は用事あります?

紗己子

そうじゃなくて! 白々しい言い方はやめてよ。どうして今更……こんな……


こんな茶番は、もう終わらせたはずだった。

確かに――昨日のことは、ちょっとショックでしたけど。もしかしたら、とは思ってたんです

先輩みたいな綺麗な人が突然現れて――彼女になってくれて。都合が良すぎじゃないかと。

まさか、ああいう話だとは思わなかったけどね。まあ、別に、別れたわけじゃないし

紗己子

――何、言って……

陸の言っていることが、全く理解できない。

何って、そのままの意味ですよ。先輩は俺の彼女、だから俺のもの

紗己子

ちょっと……自分の言ってる意味が分かってる!? わたしたちは腹違いの姉弟なの! 血がつながってるんだよ!?

――大丈夫

不意に陸の手がわたしへと伸びる。わたしはまるで金縛りにあったように動けず、その手を容易く搦め捕られてしまう。

陸は優しくわたしの手を包むと、その甲に自らの唇を落とした。

法律上は、赤の他人です。昨日母さんを問い詰めたら、色々喋りましたよ。
俺、父さんに認知されてないんだって。だから、大丈夫


何が大丈夫なのか。もはや、そう問い返す気にもなれなかった。

何を言っても、きっとわたしの言葉は届かない。これ以上付き合っていたら、こっちがおかしくなってしまう。

紗己子

無理だから! あなたは気にしないのかもしれないけど、わたしにはそういうのは無理。

大体……勘違いしてるみたいだけど、わたしはあなたのことなんて、これっぽっちも好きじゃないの!

わたしは叫んで、陸の手を振り払った。

紗己子

……それとも、これはわたしに対する復讐なの? 気持ちの悪いことを言って、困らせて!

その時初めて、陸は気味の悪い薄ら笑いを浮かべるのをやめた。振り払われた自らの手を一瞥すると、驚くほど冷たい視線をわたしに向ける。

なあんだ、分かっちゃいました? だけどそれくらいの権利、俺にだってあるでしょう?

紗己子

そんなの――

案外世間知らずなんですね。やったらやり返される、って常識でしょ

ぐうの音もでないほどの正論。

けれど、とても受け入れられない。自分の行為は当然だと、信じ込んでいたわたしには。

俺から――逃げられると思わないでくださいね

不意に陸に腕を掴まれる。

動揺から油断していたとは思う――彼は抵抗するより早く、わたしを自分の方に引き寄せると、そのまま強引に唇を重ねた。

主導権は自分にある、とでも言いたげな乱暴で傲慢なキスがわたしを踏みにじる。

――数十秒にも及ぶキスの後、陸は再び得意気に微笑んだ。

そばにいて下さい。
ずっと、死ぬまで

乱れた呼吸を整えながら、わたしは恍惚と陸を見上げる。

――どうして、こんなことになってしまったのだろう。

じゃ、帰りましょう

キスの余韻がまだ完全に消え去らぬ中、目の前に陸の手が差し出される。それを拒む気概は、もうわたしにはなかった。

今更後悔しても全てが遅い。きっと、彼の言う通りなんだろう。

逃げられない。これは多分罰なのだと思う。

これまでは付き合っていることを秘密にしてきた。だから、校内を陸と手をつないで歩くのは初めてだった。

陸は相変わらず、何事もなかったかのように振る舞う。この不自然に比べればどうでもいいような他愛ない話をする陸に、わたしはただ相槌を打った。

こんな時間は早く終わって欲しい。けれど、どうしたらいいのか、分からないのだ。

そして――とうとう恐れていたことが起こる。

あれっ、紗己子……と椎名くん?

靴箱の前で、わたしたちと同じく手を繋いだ泉と部長に鉢合わせた。

二人の雰囲気を見たところ、おそらく仲直りはうまくいったのだろう。

今帰りなの?

はい


陸が今更、手を離してくれるようなことは勿論なく、わたしはその意図を嫌でも理解した。

えっと……


案の定、一見恋人同士のようなわたしと陸を見て、泉と部長は何かを言いたげな顔をする。

あ、実は、僕たち付き合うことになったんです。ね、先輩?

紗己子

う……うん。そうなの

泉も部長も嬉しそうにして祝福してくれた。その時の会話からすると、陸は以前に部長に恋愛の相談をしたことがあるらしかった。

泉も泉で、陸の気持ちに気づいていたから、後輩の想いが叶ったのが嬉しいのだろう。

他人の幸せを素直に祝福できる、純粋な二人。

だけど、違うの。
わたしたちは、あなたたちみたいに綺麗じゃない……

泉と部長の仲睦まじい背中を見送りながら、いつか誰かとあんな風になりたかったと思った。

復讐のために、あえて異母姉との関係続けると決めた弟。

わたしは今更全てが露見することを躊躇して、そんな彼に従っている。

歪で壊れた、姉弟の関係。
この先に何があるのか、わたしには見えない。

pagetop