やだな、先輩。変な冗談やめてくださいよ

最初、陸は笑っていた。

あまりにも突飛なことを、平然と言ったせいもあるだろう。
陸は、わたしの言葉をすぐには信じなかった。

紗己子

……こんな冗談は言わないよ。わたしの父は、きみのお父さま。わたしたちは、腹違いなの

何――言って、

陸の瞳が不安げに揺れる。
わたしはできるだけ、それを見ないようにする。

紗己子

優しい両親に囲まれて、何も違和感はなかった? あの男は、母とわたしがありながら愛人と通じていたんだよ

紗己子

きみの母親は、汚らわしい泥棒猫なの。
そしてきみは不義の子――滑稽だね、今の今まで何も知らなかったなんて

紗己子

でも、幸せだったでしょ?
何も知らない方が、ずっと幸せなの

そんな――嘘だ。俺は――父さんは……

紗己子

嘘だと思うなら、本人に聞いてみればいい。きっと真っ青になるでしょうね

陸の視線は宙をさ迷う。
未だ、信じられない、受け入れられないという顔。

ずっとそれが見たかった。
もっと、もっと、傷つけばいい。

……先輩、はずっと知っていて?
じゃあ、俺と付き合ったのは……


ここまで来れば、流石の陸もわたしの悪意に気づく。
今にも泣き出しそうな顔で、震える声で、恐れるようにわたしを見た。

紗己子

そうだよ。わたしから全てを奪ったくせに、何も知らずに幸せそうにしているきみが嫌いだった。だから、教えてあげようと思ったの、本当のこと

紗己子

ねぇずっと――聞きたかったんだ。
今、どんな気分? 
悲しい? 悔しい? 憎い?
でもね、それはわたしも同じだよ。
きみとは違って、もう何年も前から

陸は答えなかった。いや、答えられなかった。
 
茫然と空を見つめる陸にはわたしを非難する気力すらないように見える。
これ以上は無駄だと悟って、わたしは作り笑顔やめた。

紗己子

――どうしてなんだろう

この胸の痛みも、息苦しさも、少しも収まりそうにない。

わたしはきっと物足りないのだ。この程度の不幸では、満足できないほどに欲深いに違いない。

紗己子

……帰るね。今までありがとう

これまでの人生で一番ショックを受けているであろう陸を置いて、逃げるように部屋を後にする。そのまま走って、一気にマンションのエントランスまで出た。

外は相変わらずどんよりと曇っていて、すでに小雨が降り出している。立ち止まって肩で息をしながら、わたしは怖くて仕方がなかった。

ずっとこの時を待っていたはずだ。
陸を不幸のどん底に突き落とす、この時を。 

――それなのに。

少しも嬉しくないのは、どうして。

紗己子

……っ

その時、とうとう込み上げてくるものをこらえきれなくなった。

それは拭っても、拭っても、止まらない。
とめどなく溢れる、この涙の正体は。

紗己子

苦しい……

この気持ちを、なんというのだろう。
わたしは知らない。知りたくない。

祖母

おかえりなさい、サキちゃん

暗くなる前に帰宅したわたしを、優しい祖母はいつものように迎えてくれた。
涙はとうに乾いていたとはいえ、何かを悟られそうな気がしてどきりとする。

紗己子

……ただいま

祖母

もう少しでご飯ができるから、少し待ってちょうだいね

玄関の扉を開けてくれたエプロン姿の祖母は、そのまませわしなくキッチンへと戻っていく。最近、少し腰が曲がってきたように見えるが、わたしを可愛がってくれた優しさも笑顔も何も変わらない。

復讐は終わった。この先もいつも通りの穏やかな日々が続いていく。それでいいじゃないか。


母の無念は晴らされた。だからわたしも、もう全てを忘れて前に進むことにする。

その夜、毎日続いた着信履歴が遂に途切れた。
当然のことだと思いながら、どこかで寂しく思うわたしがいる。そんな自分に苦笑しながら、全ての履歴を削除した。

明日からは、いつも通りの日々。陸に出会う前の、心穏やかな日常に戻る。

今はこの胸を覆う痛みも、時間と共に消え去るだろう。
この時はまだ、そんな都合の良いことを考えていた。

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