残された二人が呆然としたように互いから顔を逸らしたまま、流れこむ街の喧騒に神経の苛立ちを任せる。暗がりに重い沈黙と虚しさが上乗せされて泥の底のような無気力に身体が拘束される。

最初に口を開いたのは彼だった。

今日さ、俺。娼婦と寝たろ?

……うん

あいつ見た目の割りにとんでもなくてな。俺にゴムのおもちゃ突っ込むんだ

……ん?

あいつらが普段咥え込んでるようなやつ。ほら、わかるだろ。あれの形したおもちゃを俺に突っ込んで、よがるのを見てるのが楽しいっつってさ。俺はてっきり逆だと思ってたからびっくりして、危うく最中に笑い出しちまうとこだった

……あぁ、それは大変だったね

まったく、本当に

それっきりまたしばらく言葉が途切れる。

楽しいって思ったことないんだ

何が?

あれさ

あぁ、あれか

どうして大人はこんなことを繰り返してるんだろうって時々不思議になる。見た目から馬鹿馬鹿しいだろ、あれ。最後には可哀想になるよ。あの娼婦さ、きっと自分が普段されてることを俺みたいな子どもの男にやってみたかったんだぜ。妙に興奮しやがってよ、鼻息すげぇんだ。それも可笑しくて――

ふと声を途切れさせて、表情を失くした。

……リウは俺と寝るのかな

さぁね、頑張って口説いてくれよ

真面目な話だよ馬鹿。……リウもあんな頭の悪いことするのかな

勃たないリウの方が、僕には想像できないけどな

そうだけど……でも、じゃあ本当に俺たちはそんな馬鹿に良いように使われているってことになるんだぜ

まぁ、そうだけど……

少年は寝具に身を投げた。

くだらないな……死にたくなるくらい。本当にくだらない

彼には少年がどうしてそこまで絶望するのかがわからなかった。普段から斜に構えたような態度の少年には。貧民窟に似合わない、そんな幼い繊細さを残してしまった節があって、それが隣にいて、たまに煩わしく感じられることさえあった。

しかしそうは言っても、彼はいつものように友人を慰めた。

そのリウから僕たちはもうすぐ逃げられるんだぜ?大人になるまで生き延びられるかもしれない。だからあんまり難しいこと考えるなよ。失敗して元々、長生きしない命だ。気楽にやろう

……後ろ向きすぎんだろ

ふふと笑いながら、寝具に埋めた顔を上げた。

それより僕はさ、売人が言ってた保護の仕方がどうも変な気がするんだ

次に不安を切り出したのは彼の方だった。

保護の仕方?

うん、ほらあれだよ。別の国に住むっていう

偽造身分をもらって、肌の色から違和感のない国に。

あの時は意味分かんないくらいびっくりして言わなかったけど、少しそれでいいのかなって思ったんだ

何がダメなんだ

だってほら、僕らは故郷がないだろ?それなのに産まれた時から故郷を持つ連中を騙して同胞として紛れ込むんだ。そんなの何か間違ってないかな?もし仮に僕らに子どもができたとしたらその子には偽の故郷を教えなくちゃいけない。それだけじゃない。その子は自分の子に嘘だと知らずに偽の故郷を教えるはずだ。ねぇ、そんなの許されるのか

……大昔の人間たちはそうやって新しい土地に住み着いたんじゃないのか

それはそうさ。でも僕らは彼らのように開拓して自分の力で新しい故郷を勝ち取るんじゃない。与えられて、他の人を騙して誰かの故郷に紛れ込むんだ。きっとどこかでとんでもない間違いが起こるよ。それは絶対に良くないことだからさ

……そんなに故郷って大事なのかよ

大事さ

知らないけど、大事に決まってる。

それから会話は途絶えて、どちらからともなく横になり、二人とも寝てしまった。

数日が経ち、リウに金を納める期限がまた近付いてきていた。

彼らがリウの仕事を引き受けたため、その金額は以前と同じ額まで減らされていた。仕事をきちんとこなすことで生活費とは別に、まとまった金がすでに用意出来ていた。だから何の憂いもないはずだった。本来なら。

しかし当然ながら、話は例の仕事のことに及ぶだろう。まだ何の成果も生み出せていないことに対して、俺たちは焦りを見せなくてはならない。彼らはそう結論づけて、そこから本来の目的を遂行するシナリオを練った。

指輪の奪取。

それはとても困難なことのように思えた。むしろ接触してきたイセフの人間を片端からリウに売り渡した方がマシなのではないかと考えてしまうほど。

そもそも俺はあいつの話自体が気に入らない。あいつは絶対に俺たちの事を内心見下している

彼らは普段とは違って、住処まで夕飯を持ち帰りそこで食べながら二人で話をしていた。売人と顔を合わさないようにするためだった。

そりゃ普通。助ける相手は見下すだろ

首を傾げた。

普通は違うさ、助けるってのは相手の尊厳を大事にして初めて成立するものなんだよ。あいつがやろうとしてるのは乞食に札束を与える自分に満足したいってのと同じだ。もらったやつが誰かの金欲しさに殺されても知らん顔するんだぜきっと

でもお金がもらえたら嬉しいだろ。お金は裏切らないよ

金の話じゃねぇよ。あいつのやり方は絶対に間違っているってことだよ俺が言いたいのは。俺たちを助けるためとはいえ、リウと同じように俺たちを利用することしか考えていない

同じ話だよ。それでも助けてくれるんならあと数回のスリとかセックスとか安いもんだろ。なぁ僕たちは弱いんだよ?どうしようもなく弱いんだ。誰も気にかけないくらい。傷付けられても殺されても殺しても誰も気が付かないくらい弱いんだ。だから手の大きな連中に助けられるとき、奴らは自覚なく僕たちの大切なモノを握り潰してしまう。これはもう、たぶん仕方ないことなんだよ。そしてそんな助けがないと、僕たちは間違いなくこのまま死んじまうんだよ

それでもよ――

それに、僕たちはまだ自分が助かるために何の努力もしていない。せめて傷付いたり汚されたりするくらいは我慢するのが当然なんじゃないのか

お前の言ってることは正しいだろうよ。でも俺はあいつが気に入らない。次から絶対仲良くしてやらない

それは、僕もだよ

そう言って笑い合った。

いつもの正装で、彼は喧騒の中をすり抜けるように歩いていた。ただしそこは初めて歩くような大通り。スーツ姿の大人や学生が何人も自分と無関係にすれ違っていく。

少年は半笑いで自分の帰りを待つ者と、彼らの帰りを待つ者との差異を脳裏に数えていった。誰も彼が貧民街から出てきた男娼であるとは気付かない。同じようにここにいる人間の誰が幸福で誰が不幸か、少年にはわからない。

俺たちの不幸の一端は間違いなく彼らが担っている。彼らが俺のような混血を差別しなければ、俺たちの境遇はもっとマシなものになっていただろう。だけどその罪を彼らは認識できないのだ。俺の顔を知らないままに彼らは俺たちを不幸にしているんだ。

そういうことと無関係かつ無自覚に得た、彼ら自身の幸福や不幸を俺は何一つ認めたくない。

そんなことを益体もなく考えながら、最後になるかもしれないその街の空気をゆっくりと吸い込んだ。わずかでも過去を振り返れば死にたくなってしまう絶望だけがこもった記憶の香りがした。

目的のビルの裏にまわり、非常階段を登り始める。金属質な音が遠くの騒音と混ざって天高く反響する。そして四階。表通りを通ったけれど、結局は裏口から建物に入り込む。

中華系の性風俗店。宿泊用の備品らしきものがダンボール単位で積まれた倉庫を抜けて、業務員用の通路を迷いなくひとつの扉に向かって歩んでいく。そこにはスーツを来た男が立っていて、簡単な身体検査のあと、扉の向こうへと通してくれる。

少年の手には大きすぎる指輪には、特に注意を向けられることもなかった。

幅の広い螺旋階段を登り、ひとつ上の階でもう一度男に扉を開けてもらう。その最上階のワンフロアは丸ごと、リウ専用の客室となっていた。

窓際の座椅子に腰掛け、防弾ガラス越しに夜景を見下ろしていたリウが気だるげに振り返った。しかし来客が彼であることを確認すると、すぐに興味をなくしたように夜景に視線を戻す。

その手には確かにひとつだけ指輪があった。

例の件はまだ片付かないのか

……すいません、リウさん

謝罪の言葉などいらない。釣りには忍耐が必須だ。成果を出すまで黙って待ち続けろ

少年にとって、相手。つまりイセフ側からの接触がない限り、現状においてできることは何もない。だからリウとしても彼を責めたところで何の得もないとわかっていた。それは当然の道理であった。

しかし。

お言葉ですが、リウさん

……

それは産まれて初めての、少年からの反論であった。リウは彼が言葉を発する前からその顔を知っている。彼を育てたのはリウに返しきれないほどの借金があったろくでなしだったが、そいつが勝手に少年を売り払わないかと監視し、その幼い脳裏に絶対の服従を刻みつけたのは他でもない彼自身であった。

だから、半ば期待さえするかように、視線で続きを促す。

それでは、俺の気が済みません

……お前の気だと?

嘲笑混じりの声音。

お前の気など知った事ではない、が――聞いておいてやる。言ってみろ

はい、リウさん。つまり俺が言いたいのは、埋め合わせをさせて欲しいということです。俺は与えられた仕事も果たせずにリウさんの面を拝むのが、どうも耐え切れないらしいんです

……それで?

少年は何ら感触のない相手の表情に恐れを覚えながら、その言葉を口にした。

どうか、俺を抱いてくれませんか?

長い沈黙が置かれた。更に言い訳がましい言葉を連ねようとして口を開きかけて、しかしそれさえも躊躇われて何も語らずに待ち続ける。

静かで小さなため息。

おこがましい

……

金を置いて出て行け

そう言って、また夜景に顔を向ける。

なら、どうして――

しかし彼は出て行かずに言葉を続けた。

どうして俺に会いたがるんですか

…………何だと?

老父は立ち上がった。正面に立ち、目を逸らそうともしない子どもを見下ろす。

金の受け渡しだけなら、人を使えばいい。直接俺と会う必要なんてないですよね

お前はお前自身の価値をわかっていない。大事な品物の状態を確認するのは、商人として当然のことだ

俺はプロなんですよ、リウさん。そういう視線の意味なら知っています。品物の価値を確かめるというなら、俺の一番深いところまで確かめてくださいよ

馬鹿を言うな!誰がお前風情を犯すか、身の程を知れ

とうとう怒鳴られる。しかし少年は震える声で食い下がった。

お願いです。不安で仕方ないんですよ。言いつけられた役目も果たせずに生かされていることが。俺はこのやり方しか知らないんです。リウさんの好きなようにで良いですから、俺を安心させてください。俺に価値をください

気でも狂ったか。断る。帰れ

なら、殺してください

その場にひざまずいた。

こんなに怖い自分の無意味さに耐えるくらいなら、俺に死ぬことを許して下さい

……巫山戯るな

本気です

…………

その目は何も見ていないようであった。懐から短刀を取り出し、鞘を払い落とす。少年の傍らに立ち、手元の刃物と少年の白い首筋を何度も見比べた。

その間、少年は微動だにしなかった。ここまでの言動すべてが演技であったとは到底考えられないほどにその覚悟は固く、最悪の想定さえ微塵も恐れる様子を見せなかった。

予備動作なく男は短刀を振り上げ、その刃先を振り下ろした。

ざくりと音がして、老人の脇にあったベッドがえぐられ、短刀は深々と突き刺さった。

良いだろう、お前の望む通りにしてやる

……ありがとうございます、リウさん

それから立ち上がろうとして、頭を踏みつけられ床に頬をつける。

ただし今日ではない。日を改めろ。そうだな、三日後にここで、だ。それからあの小僧も連れて来い

……はい、リウさん

くぐもった声で返事をしながら、あのヤクの売人はどこまで知っていたのだろうかという疑念が頭を過ぎった。本当は一人の命を懸けるつもりで今日ここに来ていた。しかしどうしてか彼の言ったとおり、結局は二人でリウの相手をすることになっている。されど、彼を疑うような考えを無理に押し退ける。

もう今更、後にはひけないのだから。

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