空腹と身にまとわりつくような疲労感。車内の誰もが口を開こうとはしない。
重苦しい沈黙。
深い闇をヘッドライトの明かりだけで切り裂くように疾駆するバン。
うねったカーブを幾つか抜けるとその先にトンネルの光が見えた。
山腹にポッカリと口を開ける峠の古いトンネル。
バンはそのぼんやりと底光りする穴に勢いを落とさず吸い込まれていく。
空腹と身にまとわりつくような疲労感。車内の誰もが口を開こうとはしない。
重苦しい沈黙。
深い闇をヘッドライトの明かりだけで切り裂くように疾駆するバン。
うねったカーブを幾つか抜けるとその先にトンネルの光が見えた。
山腹にポッカリと口を開ける峠の古いトンネル。
バンはそのぼんやりと底光りする穴に勢いを落とさず吸い込まれていく。
程無く視界はナトリウムランプのオレンジに滲んだ光に包まれる。
出口の見えない下り勾配の長いトンネル。
極端に天井が低いために誰もがのしかかるような圧迫感にみまわれる。
息苦しさに耐えかねたハルトが助手席のウインドウを開けた。
不意に車窓の外から伸びてくる腕。
素早い動きでがっちりとハルトの肩をつかんだ。
ケンイチ、会いたかったぜ。お前だけは逃さねえ
ヒラヤマが姿を現した。
大声で叫びながらルーフキャリアからドアに飛び移ると車内に半身侵入しハルトに襲いかかる。
意表を突くヒラヤマ襲撃に凍りつく一同。
テメエだけはこの手でぶっ殺してやる!!
そう叫びながらハルトの首を強靭な握力で締め上げるヒラヤマ。
呻き声を上げてもがき苦しむハルト。
うぐっ・・・
しかしその目は敵意を燃やしてヒラヤマを睨み返している。
!?
狼狽しながらもヒラヤマを振り落とそうとスピードを上げ急ハンドルを切るマスター。
エンジンが唸りをあげる。激しくタイヤを軋ませ右へ左へと蛇行するワンボックスバン。
しかしヒラヤマは蛇のように身をくねらせ車内にすべり込む。
そして馬乗りになると更にハルトの首を締め上げる。
!!
畜生!
マスターがヒラヤマの顔面を殴りつける。
それには構わず平然とハルトを攻めるヒラヤマ。
・・・
苦悶の表情でハルトがマスターを見つめる。
撃て、マスター、早く!
その目がマスターに訴えかける。
マスターが腰の銃を抜いた。
銃口をヒラヤマのこめかみに強く押し付ける。
ヒラヤマはそれにも全く動じず再びハルトを激しく揺さぶり首を締め上げている。
離れろ、この野郎!
マスターが叫ぶ。
見向きもしないヒラヤマ。
はあ、はあ
肩を強ばらせ躊躇するマスター。
早く撃て! 殺せ!
後部座席でユキオが叫ぶ。
マスターが引き金にかけた指先に力を込めた。発射寸前、マスターの銃を振り払うヒラヤマ。
響きわたる銃声、マスターの発射した弾丸は逸れてフロントガラスに当たりガラスを粉々に砕け散らせた。
ハンドルから両手を離してヒラヤマに掴みかかるマスター。
時速百二十キロメートルで大きく右によれるワンボックスバン。
ヒトミが悲鳴を上げる。
次の瞬間、激しい揺れと衝撃が車内の全員を襲った。
バンはトンネル路側帯の段差で跳ね上がり、激しくバウンドすると壁面に右斜め前から突っ込んだ。
激しい衝撃音。
右のドアミラーが吹き飛んだ。
衝突の反動で弾かれ車体が左に振られる。
焦ったマスターが急ブレーキを踏むとバランスを崩したバンは衝撃でバーストした右前輪を軸にして独楽のように回転を始めた。
四輪から白煙を上げながらスピンするバン。
その挙動は今や完全に制御不能状態に陥っていた。
焼け付くゴムの匂い。
耳を劈く強烈なスキール音が深夜のトンネル内に響き渡る。
!!
バンは急速な回転を続けながら下り勾配のトンネル内を滑り落ちていく。
高速で流れる車窓の風景。
目前の脅威であるヒラヤマ。
目まぐるしく変化する状況の最中、ハルトは奇妙な感覚に直面していた。
全ての動きがハルトにはコマ送りのスロー再生映像を見ているように感じられるのだ。
『爬虫類脳』
人間の脳、その一番奥に「爬虫類脳」と呼ばれる原始的な領域が存在するという。
生命体が進化の過程で爬虫類まで進化した時点で手に入れた脳。
それは殺すか殺されるか、恐竜時代から受け継がれている生き残るためだけに機能する脳である。
爬虫類脳は闘争本能のみが支配する中枢だと云える。
人間の脳は三層構造から成ると考えられている。
進化の過程で、古い脳の上に新しい脳を建て増してきた。
一番古い「爬虫類脳」と呼ばれる本能を司る脳幹、それを哺乳類になって発達した感情を司る大脳辺縁系が包み、
さらにその外側を、霊長類、特に人間になって発達した大脳新皮質が覆う。
人類は理性を司る大脳新皮質によって闘争本能を押さえ込むことにある程度成功してきたといえる。
だが我々人間の脳の奥底には、凶暴なるトカゲが眠っているのだ。
幼少の頃より愛情を受ける事なく、発育過程で日常的に暴力を受け続け育ったケンイチ。
彼は人間的な感情を感じる部分を育むことなく成長した。
ケンイチの場合、脅威には脳の原始的な部分で反応し、その驚異的な生存本能で危機を回避してきたといえる。
ケンイチには、生き延びる為に必要な事以外の───何のために生きるかなんて下らない───考えは一切無かった。
自分が不幸だなんて思う余裕さえなかった。
感情を自ら捨て去る事で生き延びてきた。
ハルトの頭の中に黒いトカゲが現れ、トカゲはハルトを突き動かす。
やられる前にやるんだと叫ぶ声───ハルトの頭の中で何かが爆発した。
ハルトの脳内にインプラントされた海馬チップが、
───ハルトの血中に放出された多量のアドレナリンで戦闘状態を察知し───
脳の情報処理速度極限に高めようと働いた。
これによってハルトの動きはスピードアップし、相対的にハルトの体感では世界がゆっくり動く現象が起こっていた。
ハルトの秘められた潜在能力が覚醒した。
パニック状態の車内、ハルトはその一瞬の間隙を縫うようにヒラヤマの腕を振りほどく。
そしてシートの上で身体を丸め背筋をバネのように使うとハルトは両足でヒラヤマの顔面を弾けるように蹴りあげた。
強烈な一撃。ヒラヤマは大きくのけ反りバランスを崩した。
激しく回転する遠心力の作用で、ヒラヤマの身体はガラスの無いフロントから車外に飛び出していった。
そして十メートル空中を飛ばされたあと路面に激しく叩きつけられた。
ハルトの驚くべき敏捷性と攻撃性が発揮された瞬間であった。