紗己子

落ち着け――

陸は、わたしにとって単なる復讐対象。それ以前に、血の繋がった弟で、恋愛対象にはなり得ない。

今の関係は、ただの見せかけ。偽物。
好きだなんて、全部嘘。

それなのに、こんな――誰がどう見たって当てつけみたいなのは、どうかしている。

今はわたしがすべきなのは、好きでもない男にやきもきして腹を立てることじゃない。

そんなことは、十分分かっている。

先輩っ……待って下さい!

その時、陸がわたしを追いかけて部室から出てきた。

静かな廊下には、陸の声がいやに大きく響く。
聞こえなかったふりもできなくて、わたしは仕方なく立ち止まる。

誤解です。キスしてたように見えたかもしれないけど……あれは、天童が強引に

ああ、本当にしたんだ。

紗己子

別に言い訳しなくてもいいんだよ? 天童さんて、可愛いじゃない

違う。こんなことが言いたいんじゃない。
だけど、なんと言えば正解なのか。

分からないまま、わたしの口は愚かな言葉ばかり吐き出した。

紗己子

お似合いだと思うよ。彼女もきみのこと好きみたいだし

確かに告白はされましたけど、きっぱり断りました。俺が好きなのは、天童じゃありません。先輩なんです

陸は、愚直なまでに真っ直ぐな瞳で見つめてくる。
それは不思議と、わたしを落ち着かせた。

紗己子

浮気じゃなかった――? 陸の言い分を信じるならば、だけど

大丈夫。冷静に、いつものように、演じればいい。
彼のことが好きな、彼女のふり。

紗己子

本当に? 信じてもいいの?

先輩が気にするなら、天童とはもう話しません。だから、信じて下さい

文字通り、陸は必死だった。わたしもという彼女を繋ぎ止めるために、部室に一人、あの子を残して追いかけてきた。好きなのはわたしだ、と言って。

それが何故かどうしようもなく気持ちいい。きっと、それはこの計画が限りなく順調だからだ。この哀れで愚かな弟が、滑稽で可笑しい。

この先――どうせきみは思い知るのに。全ては嘘で偽りで、きっと絶望しか残らない。

だから、今だけは許してあげる。
かわいそうなきみを許してあげる。

たとえ故意でなくとも、他の女とキスしたことを。

紗己子

話もしないなんて、そんなことしなくていいよ。ごめんね、みっともなかったよね。でも本当に誤解で良かった……わたし、嫌われちゃったのかと

好きあっている恋人同士なら、嫉妬するくらいは普通のことだ。何もおかしくなんかない。

イライラしたのは……暑さで少し、疲れていただけ。

嫌いになるなんて、そんなわけないじゃないですか。それに俺、本当はちょっと嬉しかったんです

紗己子

……嬉しい?

首をかしげたわたしに、陸は幼くはにかんで見せた。

だって……妬いてくれたくれたってことは、俺のこと好きでいてくれてるってことじゃないですか!

嬉しそうな陸に、あえて違うとは言わなかった。

これは役だから。これでいいのだ。
わたしは何も間違えていない――全部上手くいっている。

自分にそう言い聞かせることにばかり必死になって、わたしはそれ以上考えることを避けた。

それから一週間、陸とは元通りに付き合い続け、わたしはことが思い通りに運んだことで上機嫌だった。

万が一、陸を天童さんにとられるようなことになっていれば、復讐が難しくなる。

でも、そうはならなかった。
わたしは天すらも味方につけているのかも。

けれど、このまま陸とただ付き合い続けるだけでは意味がない。
この交際の目的は、異母弟と疑似恋愛をすることではないのだ。

陸はひたすらわたしをちやほやしてくれるから、それはそれで心地よかったのだけど……そろそろ次の一手を考えなければならないと思う。

そんなことを考えていた、ある昼休みのことだった。

さっき購買で天ちゃんに会ったんだけど、放課後屋上に来て欲しいって


パンを買って教室に戻ってきた泉が、わたしの前に座りながら言った。

紗己子

え? わたし?


思わず聞き返す。ここ数日、彼女のこともその存在も、すっかり頭になかった。蹴落とした女のことをいつまでも考えているほど、暇ではない。

そう、紗己子。わざわざ部活の前に、って何かな? 心当たりある?

紗己子

さあ、進路相談かな? 一年生は文理選択あるし


わたしは適当なことを言ってうそぶいた。

泉さえも、不審に思っている。
先輩をサシで呼び出すなんて普通はない。
というか、かなりいい度胸。

もちろん、用件は容易に想像がつくけど、泉にも怪訝に思われるし、迷惑なことに変わりはない。

……そう言えば、天ちゃんって椎名くんにはふられてるらしいよ。付き合ってなかったって

紗己子

そう……なんだ?


満面の笑みで言われて、少し困惑する。
良かったね、と言わんばかりに、泉はにこにこだった。

そもそもそういう話題をどこで仕入れてくるのか、謎だ。わたしが噂話というものに疎いから、そう思うのかもしれないけど。

案外、椎名くんの話だったりするんじゃない?

紗己子

どうして?

だって、天ちゃんがふられたのは多分紗己子がいるからじゃん。付き合う気がないなら、彼には近づかないでとか、そんな感じの


泉の想像はほとんど当たっているだけに、全く笑えなかった。
実は泉は全て気付いているのではないかとすら思う時がある。正直、最後まで隠し通せる自信はない。

まあ……その時は、その時。
泉はわたしを軽蔑するだろう。
だけど、それを含めても復讐を選んだのは自分だから。

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