俺、先輩が好きです

そう言った陸が知らない男のように見えた。
自分のことを俺と言って、わたしを真っ直ぐに見つめてくる強い眼差し。
ほんの一週間会わなかっただけで、何が彼を変えてしまったのだろう。

紗己子

――違う

きっとこれが椎名陸という男なんだ。わたしが知らなかっただけ、知った気になっていただけ。

先輩……? 返事は?

黙り込んでしまったわたしに、陸は答えを促した。
もちろん返事はノーだ。弟とどうこうなるとか、考えられないし、ありえない。それ以前に、わたしは陸のことを好きじゃない。むしろ嫌いだ、こんな純粋培養みたいな男は。

だけど、にべもなく断って、それで本当にいいのだろうか。わたしたちの関係は切れる、復讐のシナリオからは大きく外れることになる。

紗己子

……えっと、あの……冗談だよね?

わたしが咄嗟に選んだのは、現実逃避。
冗談でした、そう言って陸が笑ってくれるわずかな可能性にかけた。

あわよくば、仲のいい先輩後輩のまま……なんて。

こういう冗談は嫌いです、俺

紗己子

…………

淡い期待は、陸によってすぐさま打ち砕かれた。
わたしに残されたのは二択。どちらも選びたくないが、それは叶わないだろう。

紗己子

何の罪もない弟に復讐なんて、きっとわたしはバチがあたったんだ。だから、こんな……

神様がやめろと言っているのかもしれない。引き返すなら、今だと。

紗己子

……ごめんね

 わたしは観念した。血の繋がった弟と――なんて、どうしても考えられなかった。

紗己子

わたし、好きな人がいるの。だから――

それでもいいよ

紗己子

……え?

本当は、椎名くんの気持ちには応えられない、という言葉が後に続くはずだった。

だから、好きな人がいてもいいから

思わず聞き返してしまったわたしに、陸は同じ意味のセリフを繰り返す。

返事は、もう少し考えて下さい

紗己子

でも……

待ってもらっても、返事は変わらない。なんて、懇願するような陸を前にしてはとても言えなかった。

もう少し、とはどれくらいだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、わたしは陸を避ける日々が続いた。

学年が違うと、避けるということは容易く、気がつけばもう何日も陸の顔を見ていなかった。

わたしが部活に行かないことを泉は訝しんだんだが、一緒に暮らしいている祖母の体調が悪いと言って押し通した。現実の祖母は、すこぶる元気だったけれど。

ねぇ、紗己子。おばあさまの体調って、まだ良くないの?

紗己子

え? ああ、おばあちゃんは……うん、あんまりね


ある日の昼食時、泉から投げかけられた問いに、わたしは言葉を濁す。

なんとなくのしかかる罪悪感。わたしは祖母が今日も元気にカルチャースクールに通っていることを、知られないようにを祈るばかりだ。

そっか。心配だね……


泉はわたしの家に来たことがあるから、祖母とも面識がある。だからあまり重病設定にするのは好ましくないのだけど、祖母が回復したことにすると、今度は部活を休む理由がなくなってしまう。それも困る。

今、陸には会いたくない。どんな顔をすればいいか分からないし、告白の返事を聞かれると思うと気が重い。

じゃあやっぱり、旅行も難しいよね


残念そうに泉に言われて、思い出す。
気づけば、同好会の日帰り旅行が今週末に迫っていた。

泉によると、行き先は江の島に決まったらしい。
プランの提案者は、まさかの陸だったとか。

それにしても、江の島か。行き先のセンスは……悪くない。どうしよう、ちょっと行きたい気がしてきた。

紗己子

おじいちゃんもいるし、一日くらいなら大丈夫かも……

本当? 嬉しい!


瞬時に泉の顔が明るくなった。泉は部長に知らせなきゃ、と言って早速スマホを取り出す。

みんな残念がってたから、喜ぶよ! 特に、椎名くんとか!

紗己子

あ……そうなんだ。それは良かった


良かったって、何がだ。問題は何も解決してないっていうのに。江の島の誘惑に負けたわたしは馬鹿だ。

平静を装って微笑んではいたものの、わたしの心は少しも穏やかではなかった。そしてそこへもう一つ、嵐がやってくる。

あと、一応報告なんだけど。私、部長と付き合うことになったんだ

――幸せそうに言った泉の前で、わたしはうまく笑えていただろうか。

紗己子

……ほんと? 良かったね、おめでとう。ずっと部長のこと好きだったもんね!


誰かがわたしの口を操って、心にもないことを喋っている――そんな気分だった。

部長への恋心を打ち明けられてから、数ヵ月以上。こんな結末はいつだって予想していた。その時が来たら、友人として自分のことのように喜ぶつもりだった。

だけどそれが、こんなに辛いなんて。

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