それから追試までの間、わたしは部室で毎日のように陸の勉強をみた。

たまに他の部員がやってくることもあったが、基本的に自由な部活だったので誰も何も言わない。泉には後でからかわれたけれど。

そして、教えてみて分かったことだが、陸はどちらかというと要領がいい。同じことを二度言わせることはほとんどなかったし、覚えも早かった。

勉強ができない、というのは語弊がある。おそらく勉強していなかっただけなのではないか、と思った。


追試が行われる前日には、なんとか全教科を仕上げた。
陸が参考書を閉じて息を吐いた時、外は既に暗くなっていた。

紗己子

本番は明日だからね。気を抜かないで頑張って。絶対に一緒に旅行行こうね!

はい。本当にありがとうございます。先輩のおかげて、なんとかなりそうです……なんとお礼を言ったらいいか……

紗己子

そんなの気にしなくていいんだよ。わたしがやりたくてやってるだけだから


歯の浮くようなセリフも、この頃はずいぶん自然に言えるようになった。
陸はいちいち素直な反応を返してくれるから、やりにくさはあまり感じない。こんなに善良な少年が、不倫男と不倫女から生まれたと思うと、この世は理不尽だと思う。

奇しくも、陸とわたしは帰り道が同じだった。同じ路線の、同方向。最寄り駅が二駅離れているだけだったから、必然的に一緒に帰ることになる。

当たり障りない会話をたくさんした。わたしにとっては、話の内容なんてどうでもよくて、ただ陸の心に入り込むためのもの。表面上は笑っていても、楽しくないし、おもしろくもない。

だけど、陸は本当に楽しそうに笑った。

紗己子

じゃあ、またね


電車がわたしの家の最寄り駅に到着する。いつものように陸に手を振って、電車を降りようとした時だった。

先輩


不意にわたしを呼び止めた陸は、いつになく真剣な顔だった。

この追試が終わったら、話したいことがあるんです

紗己子

……話?


陸のあまりに真剣な顔に、どきりとする。
いくらでも話す時間はあったのに、改めて話したいこととはなんだろう。

紗己子

……いいよ。じゃあ、来週部室で待ってるね


まさか、わたしの素性がばれてしまったのか。そんな動揺は隠して、あくまで平静を装って答えた。

紗己子

まさか、ね……

この時のわたしは、本当に若くて、浅はかで、愚かで、どうしようもなかった。
陸のことなんて、何も分かってはいなかった。

そして、わたしは思い知るのだ。
わたしが手を伸ばした禁断の果実の、その蜜の味を。

翌週になっても陸は部室には現れなかった。

追試は終わっているはずなのに。
約束を忘れてしまったのだろうか、と思いながらわたしは少しほっとした気分だった。

やはり大した話ではなかったのだ。部活に来ないのは、友達と遊んでいるか何かなのだろう、と思った。

そういえば、最近椎名くんに会った?


泉と一緒に顔を出したある日の部活、二人で旅行の計画を考えていると、泉が唐突に言った。

紗己子

ううん、どうして?

だって、紗己子が一番椎名くんと仲いいでしょ


端からはそう見えるようだ。それはわたしの狙ったことでもあるし、シナリオとしては順調なのかもしれない。だから、これは喜ぶべきことなんだろう。

紗己子

そうかな? 可愛い後輩だとは思ってるけど

本当にそれだけ?

紗己子

当たり前でしょ

わたしが陸に勉強を教えることになってから、泉はわたしたちの仲を以前に増して怪しむようになった。

確かに、仲の良さを演じようとしているのはわたし自身だし、他人に勘違いされるのは仕方のないことなのかもしれない。
しかし、わたし自身にそんな気がない以上、否定するのもだんだん億劫になってくる。

紗己子って、実は無自覚小悪魔系?


そう言った泉は、小さく息を吐いた。

紗己子

何言ってるの、そんなわけないじゃん

気づいていないの、紗己子だけだよ。紗己子って、美人だし、男子からも結構人気なんだよ?


泉が何を言いたいのか、さっぱり分からなかった。それは確かに、過去には何人かの男子に告白されたこともあったけど。

興味のない男子から好意を持たれたって仕方がない。好きな人に振り向いて貰えない気持ちは、泉には分からないだろう。

紗己子

そんなことないって

適当に流せば、聞く耳持たないわたしに泉も諦めたようだった。

泉のことは好きだけれど、これ以上はもやもやとした感情を抑えられなくなる。

紗己子

わたしにだって、好きな人くらいいる

それを言えないのは誰のせい? 別に責めたいわけじゃないけれど、だけど……

一時間後、泉は用事があると言って先に帰ってしまった。

少しだけ気まずく泉を見送ったわたしは、気を取り直して真面目に部活に取り組むことにする。

日帰り旅行のプランの発表会は来週に迫っていた。別に必ずプランを出さないといけないわけでもないが、この同好会に入った以上はそれが義務のように感じていた。

紗己子

どうせ選ばれるのは、部長か長谷部先輩のプランなんだろうけれど……一応

だけどそんな気持ちで考えても、いいアイディアなんて浮かぶわけがなく、ただ無為に時間が過ぎていく。

一人きりの部室の扉が開いたのは、それから更に数十分後のことだった。

先輩……こんにちは


遠慮がちな声に振り返れば、陸がいた。会っていなかったのはほんの一週間ほどだけれど、ずいぶん久しぶりに思える。

紗己子

椎名くん! 久しぶりだね、追試はどうだったの? 最近見ないから、泉や部長たちも心配してたんだよ

顔見せなくて、すみません。追試の方はおかげさまでなんとかなりました


追試をパスしたというのに、陸はあまり嬉しそうには見えなかった。
というよりは、雰囲気がどこか違うような気がする。

紗己子

良かった。じゃあ、旅行も一緒に行けるね!

…………

紗己子

……椎名くん?


何かおかしなことを言っただろうか。陸が急に黙ってしまって、わたしは不安になった。

……前に、話したいことがあるって言ったの覚えてます?

紗己子

ああ、えっと……そうだったね。何かな、話って

わたしはにこりと笑ったが、何故かひどく不安になった。心臓の鼓動はどんどん早くなる……聞いてはいけない、そんな気がして。

だけど、それは訪れる。陸の真っ直ぐな言葉と共に。

俺、先輩が好きです

ようやく、わたしは泉が言いたかったことが分かった。

気がつかなかったのは、わたしがその可能性を初めから排除していたから。

だってわたしたち、血の繋がった姉弟なんだ。

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