春が終わり、次第に蒸し暑い季節になった。
制服のブラウスがじとりと身体に張りついてなんとも言えない不快感を覚える。
その日は午後から移動教室で、わたしは泉と実験室までの廊下を歩きながら、少しだけ額に浮かんだ汗を拭った。
春が終わり、次第に蒸し暑い季節になった。
制服のブラウスがじとりと身体に張りついてなんとも言えない不快感を覚える。
その日は午後から移動教室で、わたしは泉と実験室までの廊下を歩きながら、少しだけ額に浮かんだ汗を拭った。
あ、椎名くんだぁ
先に気づいたのは泉だった。
職員室の前、丁度退室してきた陸と目が合う。
先輩、こんにちは
わたしたちを見つけると、軽く微笑んで挨拶をしてきた陸は、爽やかで、感じもよくて、欠点などどこにも見当たらない。
それが余計、わたしを苛立たせる。
それ、入部届?
泉が陸の持っていた紙に目をとめると、陸は少し困った顔で笑った。
はい……水泳部の顧問の先生が熱心で、渡されて。なかなか諦めてくれないんですよね
私たちに気がねしなくてもいいんだよ? 兼部でも大丈夫だし、中学の時はすごい選手だったのに辞めちゃうなんてもったいないよ、ね、紗己子?
陸はずっと続けていた水泳を辞めたらしい。しかしそれでもって、うちの同好会に入部してきた真相はよく分からなかった。
先輩が誘ってくれて、楽しそうだなって思ったから――と、陸はそう言っていたけれど。
……わたしは椎名くんのやりたいことを応援するよ。水泳でも、テニスでもバスケでも
そうですか……
もちろん、わたしたちと一緒に部活したいって思ってくれるならそれも嬉しいよ
どこか浮かなかった陸の表情が不意に明るくなる。そして、晴れ晴れとしたように言った。
……もともと、水泳に戻る気はないんです。やりきったっていうか
水泳部には断りを入れる、と言って去っていた陸。その後ろ姿を眺めていると、隣で泉が意味ありげに微笑んだ。
椎名くんって、紗己子になついてるよね
そんなことないでしょ、別に
泉の鋭い言葉に内心どきりとする。
あるよぉ。だって紗己子、椎名くんにすごく優しいもん。そんなこと言って、気に入ってるんじゃないの? 爽やかだし、結構かっこいいし
鋭いな……
親切で優しい先輩、それが陸の前でのわたしの役。
もちろんいつまでも演じ続けるつもりはない。
信用させて油断させて、最後に全てを暴露する。
そうしてどん底に突き落としてやるのが、わたしの復讐のシナリオ。まあ、陳腐だけれど。
実際のところ、確かに陸は多少わたしになついてくれている感じはあるが、単なる先輩後輩の域を出ていないように思う。
わたしの目的を果たすためには、もっと仲良くなる必要がある。裏切られた時のダメージは、その人間との親密さに比例するから。
そんなんじゃないってば、もう
本当? 違うならいいんだけど、椎名くんじゃなくても、好きな人ができたら教えてね。絶対に協力するから
泉はどこまでも無邪気だった。
わたしが考えていることを知ったら、この子はきっと軽蔑するだろう。
そしてある日の放課後、チャンスはやって来た。
旅行研究同好会は、基本的に週三回部室に集まるだけの、のんびりした同好会。人が集まればミーティングをするが、集まりはよくない。長期休み中に行われる旅行以外は来ないメンバーすらいる。
そんな中にあって、わたしは比較的部室に足を運ぶ方ではあった。というのは、部室が人がいない故に勉強するのに丁度良かったからだけれども。
その日、いつものように部室の扉を開けると先客――陸がいた。
椎名くん、こんにちは。一番乗り? 珍しいね
陸は机に向かっていた陸は、わたしに気づいて顔を上げる。
菅原先輩……お疲れ様です
言った陸は笑っていたが、どこか沈んでいるようにも見えた。
それ、今度の旅行のプラン? 真面目だねぇ、わたし、まだ考えてないや
旅行研究同好会では、来月の三連休で日帰り旅行に行くことになっていた。行き先などのプランは部員が考える。個人でもグループでもいいが、それぞれの考えたプランを発表して、最終的には多数決で支持されたプランが採用されるのだ。
はい、でも……考えがまとまらなくて
まだ一年生だし、気負わなくてもいいんだよ。先輩のプランに乗っかるのも楽しいし……って、そういうことじゃないのかな。何かあった?
陸は一瞬躊躇するように視線をおよがせた後、
実は……
と言って恥ずかしそうに告白した。
聞けば彼は、先日の中間テストが散々だったらしい。全教科で追試を言い渡され、更にはこのままでは進級が怪しいと言われたとか。
これまでの人生で勉強でつまずいたことがないわたしは、少し同情した。
一方で、そんなことか、とがっかりもした。成績が悪いくらい、大した不幸でもない。そもそもそんなことで悩めることが、恵まれている証拠だ。
わたし、これでも勉強は得意な方なの。部活の時間でよければ教えるよ
そう言ったのは、もちろん同情からではない。悪意という下心あっての言葉。彼の心に入り込むチャンスだと思ったのだ。
え……いや、でも、悪いです
追試、だめだったら、旅行も行けなくなっちゃうんでしょ。それじゃ、わたしが嫌なの。椎名くんがいなきゃ、つまんないよ
瞬間――少し言い過ぎた、と思った。綺麗事が過ぎると、どこか胡散臭くなってしまう。
しかし、そんな心配は全く必要なかった。
陸の反応を伺うと、普通に感動したようにわたしを見つめてきた。
――純粋なのか、馬鹿なのか。