渡利昌也

山根……さん?

 もし違っていた場合のことを想定し、すかさず視線をそらすだけの心構えをしつつ、僕はその女子に声をかけた。



 だが、彼女は一切こちらに気づく様子を見せない。



 目の前の文具をじっと見たり、さっと座り込んで下の棚の漫画原稿用紙や漫画制作関連の本を手にとったりしている。

渡利昌也

山根さん?

 もう一度呼んでみる。


 が、彼女は漫画制作本をパラパラめくってて、僕の呼びかけにまったく反応しない。




 もしかして山根さんじゃないのか?




 座りながら漫画制作本に没頭している彼女の隣まで近寄ってみる。



 漫画の道具を見るふりをしながら、彼女の顔を覗き込んでみる。




 座ったままうつむいて本を読んでいるので、顔を拝むことは到底できなかった。


 だが近づけば近づくほど山根さんだ。



 それにしても、ここまで他人が近くにいても一切お構いなしだ。



 人にはパーソナルスペースというものがあるはずなんだが。


 ここまで僕の存在を無視できるとは、今読んでいるその本によほど面白いことが書かれているのか。





 もう声かけるのはやめておこうか。


 もし山根さんじゃなかったら、ここまで集中している彼女の邪魔になる。




 なにより気まずい。




 僕は興味あるふりをして手に持ったGペンなるものを棚に戻そうとした。



 そのとき、彼女がようやく顔を上げて僕を見た。




 完全に山根さんである。




 だが山根さんは僕の顔を見たにもかかわらず、すぐさま本を読み始めた。


 そして座ったまま、おいっちにっさんしっ……と横へ移動して僕との距離を確保した。



 僕だと気づかなかったのか。


 それとも今の彼女にとってどこの誰が側にいるのかなんて、どうでもよいのか。

渡利昌也

山根さん

 僕は先ほどよりはっきりとした口調で彼女に声をかけた。

山根琴葉

は、はほは……ほえい?

 山根さんはようやく僕の呼びかけに反応し、驚いた顔で僕の方を見た。

山根琴葉

ど、どど……ども

 山根さんが座ったまま会釈する。

渡利昌也

何を読んでるの?

 僕は山根さんの隣に座り込み、話しかけた。

山根琴葉

え?
は……え?

 
山根さんが戸惑った様子を見せる。

山根琴葉

えっと……こ、これはですね。
カラーのですね。
イラストのですね。描き方……ぬ、塗り方の本でして。漫画だけじゃなく、イラストのコンテストにも投稿をば!
などと……思ったり……思わなかったり

 山根さんの描いたカラーイラストか。



 どういう仕上がりになるのか、是非とも見てみたいものだ。

渡利昌也

そういえば漫画の場合、カラーだと何で塗るの?
ポスターカラーとか?

山根琴葉

い、今までカラーを描いたことなくて。
それで、水彩絵具を買いに来たというわけでして

渡利昌也

それってなんか漫画のイメージじゃないね

 カラーの漫画やイラストといえば、青なら青、赤なら真っ赤みたいな、原色をそのまま塗ったようなものをイメージする。


 なので水彩絵具で仕上げたイラストというのがイマイチ想像できずにいた。

山根琴葉

ほ、ほんとはですね。
マーカーで塗られたイラストが……一番好きなんですが。
マーカーはカラーイラストを仕上げるぐらいの色を揃えるとなると、とてもわたくしめの全財産では……手が出せませぬゆえ

渡利昌也

へぇ。
それで妥協して水彩なんだ

 
妥協は少し嫌な言い方だったか。

山根琴葉

す、水彩も柔らかい……感じで好きですけど

 水彩絵具さんに申し訳ない、と言わんばかりに山根さんがフォローを入れる。

渡利昌也

ところで、漫画の方は進んでる?

山根琴葉

プ、プロットは終わりまして……あ、プロットというのはですね

渡利昌也

あ、いや。
プロットってその、ネームの前に作るやつでしょ。
一応、このまえ教えてもらったから

山根琴葉

そ、そうでしたか……し、失敬

 本当は以前の会話ではプロットの説明はほとんどしてもらっていなかったが、話が進まなくなりそうなのでプロットについては割愛していただくことにした。

山根琴葉

え……と。
プロットは終わりましたので……三日後にはネームも出来上がるかと

渡利昌也

そうなんだ。
じゃあ、四日後。
水曜日?
ネーム読みたいな

 僕は読ませてくれる前提で希望日を指定した。

山根琴葉

は、はい……よよ、よろしくお願いします

渡利昌也

あのさ、今度は部室じゃなくて図書室にしない?
そのほうが落ち着いて読める気がするんだ

山根琴葉

え?
え?
は、はぁ……問題ないかと……お、思います

 山根さん相手だと僕みたいなやつでも希望を推し進めることができてしまう。


 よくよく考えると、僕にとって一番しゃべりやすい人物だということに気付く。

飯塚俊司

あれ、渡利君?
どこだ?

 さっきまで僕がいた棚の方から、飯塚さんの声が聞こえてきた。


 どうやら済ますものを済ませて戻ってきたらしい。




 僕が山根さんといるところを見られたら、またいじり倒されて面倒なことになる。

渡利昌也

それじゃ山根さん。
僕、もう行くね。
ネーム、絶対読ませてよ

 約束を念押しし、僕は山根さんとお別れした。



 山根さんは無言で頷き、そのまま漫画制作本を読み始めた。





 元いた棚へ戻ると、あたりをキョロキョロ見渡して僕を探している飯塚さんがいた。



 飯塚さんは穏やかな表情でお腹をポンポンと叩いている。



 お腹リフレッシュ、気分爽快というわけだ。

渡利昌也

すいません、飯塚さん。
ちょっと別の棚見てて

飯塚俊司

そうだったんだ。
時間はあるし俺も色々見て回りたいから構わないよ

 飯塚さんはにこやかにそう答えた。

渡利昌也

そういえば飯塚さん。
僕、今頃気づいたんですけど

飯塚俊司

ん?

 飯塚さんは次の言葉を待っている様子で僕の方を見た。

渡利昌也

僕と飯塚さんは同級生なのになぜか『さん』付けで呼んでて、いつも敬語でしたね。
飯塚さんって兄貴肌っていうか、どうも同い年に感じないんですよねぇ

 部長だからなのか、体格がいいからなのか。



 アキオ君達との会話では敬語を使ってない。


 山根さんの場合は敬語混じりだった時期もあったが、さっきは自然と敬語抜きで話していた。



 もっとも、山根さんの方は僕に対して敬語だったっけ。



 そんなわけで飯塚さんにだけは違和感もなく敬語を使ってたのが、なんとなくおかしくなったのだ。

飯塚俊司

突然どうしたんだ?
なんかいいことでもあったのか?

 クスクス笑っている僕に、飯塚さんが首をかしげた。





 いや、別にいいことなんてありませんよ飯塚さん。


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