美皓

あれ、電気ついてる






朝。
薄暗い住宅街。
私の部屋の電気が点いているのは、
遠目から見ても確かだった。




美皓

点けっぱなしで寝たんじゃないだろうな……






別段貧乏なわけではないが、
電気を垂れ流して金をとられるなんてごめんだ。



ふむ……。
もしこれが正解だとしたら……




美皓

あのガキを食費にするしかないな……




と。
財布に入っている彼の保険証が札束に見えてきたところで、
愛すべき我が家に着いた。


鍵はしっかりとかかっていたので、
そこは一安心。






錠を落とし、鍵を回す。



美皓

ただいま~

紀田

あっ

紀田

おかえりなさいっ!







エプロンを着けたまま、
スタタと駆け寄ってきた紀田青年。



美皓

…………寝たの?






血色の良さから、
おそらくちゃんと寝ているとは思っているが、
一応確認。




紀田

はい、おかげさまでぐっすりと

美皓

そ。
それはよかったわ

紀田

本当にぐっすり寝ちゃいました

紀田

朝ご飯、すぐに出来ますのでっ!

美皓

それはそれは

美皓

楽しみに待ってるわね






電気の長時間点灯については、
後でテーブルを挟んだ時に聞くことにしよう。




少し、疲れた。














朝ご飯には似付かわしく無い、香り。

決して嫌な香りではないが、
パンとか、魚とか卵とか……そういうのではない。


楽しみにするため、
キッチンには一切目をやっていない。

まどろみのソファ。
私に入ってくる情報は、
鼻腔をくすぐるこれだけだ。





紀田

お待たせしました~

美皓

お~~~

美皓

おっ?




新聞紙が置かれ、
またキッチンへ戻っていった。
そして再び、今度はメインを持ってやってくる。




ミトンの代わりに、台ふきを挟み、
紀田青年が持ってきたのは、



美皓

これは予想外……





目の前のテーブルに置かれたのは、


”鍋”だった。



私の部屋に……こんなのあったっけ。





紀田

調理器具を探していたら、
奥の方にほこりを被っているコレをみつけたものでして――

紀田

立派なんで、最初の料理はこれかな、と

美皓

ふぅん






見た目はシンプルだった。


これは間違いなく、



紀田

湯豆腐ですっ
ご賞味あれ

美皓

いただきます……!






どうしてだろう……

鍋に水と豆腐と入れて煮ただけのはずなのに……


どうしてこんなによだれがとまらないんだろう。


取り皿に豆腐を移し、口を近づけると……

紀田

待ってください板権佐さん!






美皓

くっくっく……

紀田

えっなんですか、どうしたんですか?
なんで豆腐を真っ二つに……

美皓

い……いや、あのね……







この青年は……
本名も知らない女に……
手料理を振る舞っていたのか……

美皓

くっくっくっく…………




早朝だからか、妙なツボに入った。

紀田

ど、どうしてお箸を置いてお腹を抱えて笑うんですが……!





美皓

ふぅ……

美皓

美皓(みしろ) 沙希子(さきこ)が本名。
よろしくね

紀田

そ、そうだったんですかっ!

紀田

改めまして、僕は紀田健太郎です

美皓

知ってるよ。はいこれ、返すね





ずっと持っているのは不安でしかたないので、
自己紹介がてら保険証を返す。


紀田

はいっ




美皓

それで、なに?






既に豆腐は取り皿に落ちてしまい、
宙を掴む箸を何とかしたかったので、
先ほどの会話の続きを。


紀田

あっ!
えっとですねっ

紀田

お豆腐にこれを……乗せてください!






と、
キッチンに戻った紀田青年が持ってきたのは、
ボールに入った……ほうれん草?




紀田

当然、お鍋にも味付けはしているので、このままでも美味しいのですが、是非ともこれと一緒に!

美皓

う、うん






突然饒舌になった紀田青年。
ごま和え? らしくほうれん草を乗せた豆腐を再び掴むと、
彼は目を輝かせてこちらを見ている。













美皓

んっ!





確かに……!
豆腐自体も美味しい。

湯豆腐と言えばごまダレかポン酢だと思っていたけど、
これならこのままでも大丈夫だ……!

美皓

もぐもぐ……




そして立派に自己を主張しているのは……
ほうれん草!

酸味とごまの風味で口の中が爽やかになる……!



美皓

…………

紀田

ど、どうですか……?






私がなかなかコメントをしないからか、
紀田青年は不安そうに私を見る。



安心しな、

美皓

美味い

紀田

よかったぁ!

紀田

これがダメだったら今後不安だらけになってしまうところでした……

美皓

安心して。
美味いよこれっ!
どんどんいける!






バイト終わりで鍋が出てきた時は驚いたが、
温かいし柔らかいしで丁度いい。



紀田

たくさんあるので、
好きなだけ食べてくださいね






こうして私は、一品目を食した。



人間の食べ物の味を知った熊は、
それを求めて人里に降り、人を襲うと言う。

美皓

…………

紀田

ど、どうしたんですか……?





この味を……一生。



一晩の宿代とすれば、
最高の代価だ……!



やがて紀田青年は、
洗い物を済まし、
学校へ向かった。




私は朝日を浴びながら、
布団に潜る。





ああ、


久しぶりだ。


幸せの中で、
寝付けるのは――。

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