漫画研究部を出たあと、僕は美術室のドアをゆっくり開けて中を覗き込んだ。



 みんな無言で絵を描いている。



 中に入りづらい雰囲気が出来上がってしまっているではないか。

飯塚俊司

あ、渡利君。
もう終わったのか?

 ドアの前でマゴマゴしていると、飯塚さんが僕に気づいて声をかけてくれた。



 そのおかげで、静かなる聖地と化した美術室へ足を踏み入れることができた。

渡利昌也

はい。
時間をもらえたおかげで

 僕はソーっと中へ入りながら、飯塚さんに言った。

飯塚俊司

いいっていいって。
昨日も言ったけど基本的にうちは自由だから

 美術部の部員達が、僕と飯塚さんを交互に見ている。




 誰だコイツは。

 何の話だ?




 そんな様子だ。



 飯塚さん、なんの説明もしていないのかな。

倖田真子

この人誰?

 そう言った声の主を見てギクリとする。



 先ほど、僕を冷ややかな目で見ていた女子生徒だ。



 美人だが、キリッとつり上がった目が怖い。


 相当気が強そうだ。




 それはそうと、彼女はやはり僕のことを知らないらしい。


 それなのになぜ僕を怖い目で見ていたのだろう。

飯塚俊司

ああ、そっか。
全然話してなかったわ

 飯塚さんが額に手を当てて笑った。



 はは、案の定ですか飯塚さん。

飯塚俊司

みんな、ちょっとだけ筆止めて。
昨日からうちに入部した渡利君だ

 飯塚さんが僕の隣に立って、部員のみんなに紹介してくれた。

渡利昌也

2年C組の渡利昌也です。
最近転校してきたばかりです。
えっと、絵は今まで落書き程度しかやったことないんですが、前から少し興味があったので入部しました。
素人なので皆さんには迷惑かけてしまうこともあると思いますが、よろしくお願いします

 僕は僕なりに丁寧に、でしゃばらないように気をつけながら挨拶を済ませた。




 これぞ無難な挨拶の極意。

 これが大事。

飯塚俊司

実は今日彼が遅れたのは、隣の漫画研究部の彼女に漫画を読ませてもらう約束があったからなんだ

 おい。


 いったい何を言い出すんだ飯塚さん。



 たった今無難に終わらせた挨拶を台無しにするんじゃあない。

渡利昌也

ちょ、飯塚さん。
そんなんじゃないんですってば

飯塚俊司

いやいや、今後もそういう理由で遅れますってちゃんと説明をしとけば、君も気を遣わずに済むだろ?

渡利昌也

そ、そうじゃなくて、彼女とかじゃないってことを言いたいんです

飯塚俊司

まあまあ、落ち着いて

 飯塚さんは人をおちょくるタイプなのか。


 担任の吉岡先生バリに面倒くさいタイプだ。

倖田真子

もういい?
早く作業に戻りたいんだけど

 僕と飯塚さんの茶番劇に、例のつり目女子の冷めた一言がストンとどんちょうを下ろした。

飯塚俊司

相変わらずキツイなぁ倖田さんは

 倖田さんと呼ばれた彼女が怖いのはいつものことらしい。



 ならば先ほど廊下で僕を見ていたのも、彼女にとってはただ見ていただけに過ぎなかったのかもしれない。



 知らない奴が立っている。


 誰だこいつは。


 そういうことだろう。




 そりゃそうだ。


 僕は彼女のことなど知らないのだから。








 その後、部員全員が僕に自己紹介をしてくれた。



 もっとも、部員は総勢十人以上いる。


 一回聞いたくらいで覚えられるわけもなく、みんなの名前が右から左へサラーっと流れていった。



 ただ、つり目っ娘の『倖田真子』という名前だけは頭にしっかりこびりついた。



 自己紹介が終わり、部員のみんなは作業に戻った。




 水彩画を描いてる人。



 僕がやりたいと思っていた鉛筆デッサンをする人。



 油絵を描いている人。





 それぞれが自由に描きたいものを描いているといった感じだ。

飯塚俊司

ところで渡利君。
今日は俺のを貸すとして、自分の画材はいつ買いに行くの?

渡利昌也

えっと。
一応、画材のお金は親から借りたんで明日行こうと思ってます。
丁度明日は土曜日なんで

 スネをかじったと思われたくなかったので、借りたということを強調した。

飯塚俊司

だったら俺も一緒に行って画材を選んでやるよ。
画材屋の場所も知らないだろ?

 これはとてもうれしい申し出だった。



 飯塚さんは他の部員にも声をかけ、飯塚さん含めて三人の男子が僕の画材選びに付き添ってくれることになった。



 他の全女子の方々は予定があるからと、やんわり断った。





 つり目っ娘の倖田さんは時間がもったいないとの理由で断った。



 断り方に遠慮がなくて実に清々しい。


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