試験も終わり、周りはそれぞれ部活動が再開したらしい。



 アキオ君やホアチャー君、うらべっち君達はもう放課後に僕の相手をしてくれないのだ。


 学校が終わると、やることもない僕は一人真っ直ぐ帰宅した。


 自分の部屋へ戻ると、床にゴロンと寝そべった。




 この学校へ来て僕は変わる。




 そう決意した結果、何かが変わっただろうか。



 僕は目を閉じて考えた。



 ちゃんと友達も出来たと思うし、会話もしているじゃないか。


 そう言い聞かせる僕の後ろに、それを憐れむもう一人の僕がいた。



 充実感がない。
 達成感がない。


 暗闇の中からまた一人。
 一言つぶやいてはまた一人。


 浮かない顔した『僕』たちが、突っ立って僕を眺めてる。





 目を開いて薄暗い部屋の中で天井を見つめていると、不意にうらべっち君との会話を思い出した。

うらべっち

なんかやってみるのもいいんじゃね?

 僕も部活に入ってみよう。



 そう思った瞬間、少しだけドキドキした。

 次の日の放課後、僕は美術部が活動していると言われる美術室を訪ねた。



 結局のところ、僕が入ってもやっていけそうだと思ったのは漫画か絵だった。



 ただ、漫画研究部には知っての通り山根さんが在籍している。




 本人から直接それを聞いていただけに、山根さんがいるから僕も入部したなどと思われるのは避けたい。


 というわけで、消去法で美術部を選択したのだ。





 僕は廊下から窓越しに美術室の中を覗いてみた。



 人っ子一人いない。


 高尚な顔立ちをした男女の頭部だけが、教室の後方で無言の圧力をかけている。



 困ったな。せっかくわざわざ入部届けを持ってきたのに。

飯塚俊司

なにしてんだ?

 美術室の扉の前でウロウロしていると、背後から声をかけられた。


 振り向くと、随分と立派な体格を持った男子生徒が立っていた。

飯塚俊司

うちになんか用?

 そう言って彼は腰に手を当てた。

飯塚俊司

あ!
もしかして入部希望?

 彼は僕の手に握られた入部届けを見て、嬉しそうに言った。

飯塚俊司

珍しいな、この時期に。
入ってくれ。
大歓迎だ

 僕がなにも話せていないうちに、あれよあれよと部員として認められたようだ。

飯塚俊司

見ない顔だな。
一年生?

渡利昌也

に、二年生です。
つい最近、転校してきたばかりで

飯塚俊司

ああ、なるほど。
俺は美術部部長の飯塚俊司。
俺も二年だよ。
同級生だったんだな、悪い悪い

渡利昌也

ぼ、僕は渡利昌也です

 飯塚さんは割と整った顔をしているが、そんなことよりも注目すべきは高い身長とがっしりとした肩幅だ。



 本当に美術部の人か?


 空手部か柔道部の間違いじゃないの?

飯塚俊司

ほんとはもっと部員がいるんだけど、試験終わったばかりだし今日は誰もこないかもね。
うちは割と自由だからな

 そう言ったあと、飯塚さんは大げさに顔をしかめた。



 飯塚さんは僕と話をしながら、石膏像を土台にセッティングしたり、絵を載せるためのイーゼルと呼ばれる三脚の板を配置したり、テキパキと動き回っている。



 準備を整えたあと、飯塚さんは今までに描いたという絵を僕に見せてくれた。



 ごつい体に似つかわしくない繊細な絵だ。



 どれもこれも今にも動き出しそうな存在感があった。



 僕が絵に見とれていると、彼は気を良くしたようで奥の部屋から次々に作品を持ってきた。



 僕はそれらの絵を、飽きることなく見続けることができた。



 中でも僕は、鉛筆で描かれた絵に惹かれた。


 鉛筆一色で表現される色の違いや陰影は、上品さを醸し出しつつも山に篭った達人を思わせる渋さを感じさせた。


 鉛筆でのデッサン。



 僕が描きたいジャンルはこれだ!


 そう思った。







 そのあと、デッサンで使う鉛筆の削り方や必要な道具などを飯塚さんに教わって、初の部活動を終えた。

 十八時前。



 外はもうすっかり暗くなっている。



 飯塚さんと僕は、美術道具や石膏像を片付けて教室を出た。




 丁度そのとき、隣の教室のドアが開いて女子生徒が出てきた。


 うつむき加減で長い髪が垂れ下がり、そして夜でも光る眼鏡。


 もしやと思って僕はその女子生徒をじっと見た。


 彼女も僕の視線に気づき、僕の方に視線を向ける。




 山根さんだ。




 美術室の場所だけを聞いたので全然気がつかなかったが、隣は漫画研究部だったらしい。


 山根さんは肩を強ばらせ、鳩のように首を突き出したまま早歩きで僕の横を通り過ぎていった。



 僕が声をかけるのを躊躇していると、山根さんは突然ピタッと足を止めた。


 三秒ほどの間を置いた後、山根さんは突然方向を180度変えた。


 そして姿勢を保ったまま足を加速させて、僕のところまで引き返してきた。


 僕の隣にいた飯塚さんが、ズンズンと向かってくる山根さんの勢いに圧倒されてとっさに一歩後ろへ下がった。



 山根さんを知る僕でも体を後ろへ引いたんだ。



 薄暗い廊下を、光ったメガネが一直線に接近してくるのはなかなかに怖いものがある。

山根琴葉

あの!
ま、漫画!
よ、読んでもら……もらえますか?

 山根さんは早口でそう言うと、手提げかばんから大きいサイズの茶封筒を引っ張り出してきた。



 その封筒の太さからして、どうやらこの中に漫画の原稿が入ってるようだ。

渡利昌也

え?
え……っと。
今から読むの?

 僕は暗くなった窓の外を見ることで、結構な時間になっていることをアピールした。

山根琴葉

あ、あの!
もちろん……今ここでではなくてですね。
よろしければ……お持ち帰りになって……
ごゆるりと!
ご、ご自宅で

渡利昌也

え?
持って帰って?
だ、大丈夫かな。
曲がったり汚したりしたら……ほら

 漫画の原稿といえば折り曲げ厳禁、取り扱い注意のイメージがある。


 そんなものを責任もって管理する自信がなかった。

山根琴葉

そ、そんなことに!
なな、なったら……死ねる!
です

 それほどのものを簡単に貸さないでいただきたい。

山根琴葉

う、うそです。
死ぬは言いすぎでした!
で、でも……ポテチの油とかだと、し……死ねる……かもです

渡利昌也

その。
今日はやめといた方がいいと思う

 場合によっては死ねるとわかった以上、漫画の原稿を持っていくわけにはいかない。

飯塚俊司

あのさ、明日の部活前に読んでやったら?

 僕と山根さんの会話を黙って聞いていた飯塚さんが口を開いた。




 山根さんはまるで、今頃飯塚さんの存在に気づいたかのように体をビクつかせた。



 飯塚さんを見る山根さんの顔が、ホラー映画で物音の正体を恐る恐る確かめる主人公のような表情になっている。




 なにをそんなに怯えることがあるのか。


 彼女の人見知りは僕より重症かもしれない。

山根琴葉

すす、すいません!
明日にします!
ご迷惑をば!
これにて失礼します

 山根さんは頭を下げ、クルッと向きを変えたあと、下げた頭を上げることなく大きな歩幅で立ち去った。

飯塚俊司

友達?

 飯塚さんが、過ぎ去っていく山根さんの後ろ姿を見ながら言った。

渡利昌也

と、友達じゃなくてただのクラスメイトです。
ひょんなことから漫画を読ませてもらえ
ることになって

飯塚俊司

ふうん。
彼女だったら面白いのに

 飯塚さんはそんなことを言って、小馬鹿にしたようにケラケラ笑った。



 だが、僕はその言葉に内心ドキリとした。



 いや、勘違いしないで欲しい。



 山根さんが好きだとか、そういうことではない。



 恋人というものに憧れ、妄想を膨らますことは多々あった。



 だが妄想はあくまで妄想であり、現実感がまるでなかった。



 だから、『彼女』という言葉が僕に飛び込んできたとき、妄想とは明らかに異なるリアリティーを感じた。



 そのことに対する『ドキリ』なのだ。




 そうだ、そのとおり。


 僕の見解に間違いはない。

飯塚俊司

悪い悪い。
はは。
まあ明日は漫画を読んでやりなよ。
部活はそのあとで自由に来てくれていいからさ

 謝ってきたことを考えると、やはり飯塚さんは僕をからかっていたという自覚があったわけだ。



 僕は腹を立ててなどいなかったが、むしろその謝罪でムッとした。

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