第7話 其は亡羊の一秒か
第7話 其は亡羊の一秒か
あと一秒。
お姉さんが来るのが早ければ、お母さんたちが頭ごと食べられることなんて、なかったかもしれないけど。
あと一秒。
お姉さんが来るのが遅ければ、わたしも頭ごと食べられていたかもしれないのだ。
背後から跳びついたアーデルに頭を喰われる直前、母はクララの手を思い切りぐいと引き、放り投げるように娘の身体を前の方へと逃がした。
異様に大きく開いた口腔に、母の頭がずっぽりと収められた直後、そのアーデルの上半身は引き千切れ、母のの体を口からぶら下げたまま、真横の壁まで吹き飛んでいった。
ちいっ――!
クララの前を吹き抜けた一陣の風は、黒髪のフェーレスの形をしていた。
自分より三つ四つは年上だろうか。
薄着の身体 からまっすぐに伸びた脚が、アーデルを横から蹴り飛ばしたのだ。
だがアーデルの牙はすでに、捉えた母の首深くをえぐり、砕いていた。
アーデルの上半身と共に吹き飛んだ母の身体は、公園の芝生の上でびくり、びくりと数度だけ小さく跳ね、やがて動かなくなった。
マ、マ?
実母(ママ)と育母(ムム)。
二人の母と一緒に少し遠出をして、朝早くから一緒に作ったお弁当を食べていた。
十歳の誕生日。
クララにとって、ほんの少しいつもより特別な、ただそれだけの、穏やかな休日のはずだった。
それが、どうして。
何故ママが、あのすべすべだった髪も、笑うと片方だけえくぼができる優しい顔も失って、血を流して倒れているのだろう。
クララには、わからなかった。
……ごめん
アーデルの死骸と、救えなかった女性のの遺体を見て、マーメイは短く小さく、それだけを言って詫びた。
初めて参加した市街地パトロール中に、ミモル型アーデル出現の緊急連絡を受け、まっすぐに駆けつけ、二体のアーデルを一撃ずつで仕留め、追い立てられる親子を見つけ、走った。
油断はなかった。ミスもなかった。
だがそれでも、目の前で少女の母が喰われるその一瞬に、マーメイの手は、脚は、間に合わなかったのだ。
どうして……
クララはマーメイを見上げた。
まるで母の流す血を映したかのように、うつろに見開いた大きな目を充血させて、マーメイの顔をじっと見た。
どうして、もっと早く、来てくれなかったの
えっ……
言葉に詰まった。
マーメイはその小さな少女の問いに対して、答えられる何かを持っていなかった。
ねえ、どうして! おねえさん、どうして! ねえ、ねえ!
おねえさんが……おねえさんがあとちょっと早く来てたら! ママも、ムムも……!
つとつとと、頼りない足取りで、クララはマーメイに近寄る。
……ごめん、でも
言いながら思わず一歩、マーメイは後ろに退きかけた。
自分のせいじゃない。そう言ってしまいたかった。
母を目の前で失った子供の感情なんて、どう受け止めればいいのか知りはしなかった。
アーデルはまだ残っている。
戦闘を続けている仲間たちの元へ、自分も向かわなければいけない。
だがマーメイは目の前の少女に対して背を向けることが、どうしてもできなかった。
こんな小さな子供が、母を失ったのだ。
せめて思うままに言わせてやるべきか。
自分が責められれば、それで何かが救われるのなら。
マーメイがそう思いかけた、その時。
そっちは無事だったのか、新入り
後ろから呼びかける声に、マーメイは振り向いた。
肩に複装支援銃火器(マルチーズ)を担いだパオ・フウ隊長が、ただならぬ様子に足を止めたのだ。
……隊長
初仕事でこれは、ちょっとヘビーか
助けを求めるようなマーメイの顔に、パオは毛耳(けみみ)をかきながら深くため息を吐いた。
芝生の上で伏して動かないアーデルと無残に息絶えたフェーレス、そして生気を失った少女の様をひと目見て、パオは状況を理解していた。
どうして、おねえさんも、来てくれなかったの?
マーメイを見ていたうつろな目そのままで、今度はクララはパオを見た。
おねえさんも来てくれれば、ママだって、ムムだって……!
涙も流さず、ぽつり、ぽつりと言葉を吐くクララを、パオはじっと見つめていた。
幼い激情に少しずつ熱を帯び始めたその幼い言葉を、じっと受け止めていた。
そして。
ねえってば! なんでもっと早く、あいつ……!
かっと目を見開いたクララの顔を、赤黒い影が覆った。
腕だけで這い寄り跳ねた上半身だけのアーデルが、血に濡れた口腔を再び開き、クララを真上から狙う。
クララの頬にたた、っと散る、小さな血の飛沫。
アーデルの喉の奥に見えたのは、母がつけていた銀の髪留めの、弱々しい光。
ああ、わたしも喰べられるんだ。
ひどく静かにそんなことを考えていたクララに、アーデルの臼歯が届く直前、
っッ――!
マーメイの手が真横からクララを抱き攫(さら)い、彼女を救った。
喰らい損ねた獲物に向かって尚も吠えるアーデルの、
やかましい
後頭部に銃口をぴたりと添えて、パオは面倒そうに引き金を引いた。
三つ並んだ風穴から青紫の脳漿を吹き出して、アーデルは今度こそ死に絶えた。
おねえ、さん?
クララを胸にかばい芝生に倒れ込んだ姿勢のまま、マーメイは起き上がらなかった。
ごめん、ごめんね……
クララを抱く手も、声も震わせて、マーメイはただごめんと繰り返していた。
血のりと汗に乱れた前髪の向こう側で、マーメイの目はぎゅっと閉じられていたが、確かにそこから涙が浮いてこぼれていたのを、クララのうつろな瞳は見つけた。
自分がおねえさんを、泣かせてしまった。
そう思ってしまった瞬間に、クララは自分の目の奥からも、同じものが押し上げてくるのに気付いた。
それはもう、止めることはできなかった。
小さなその身のすべてを絞り出すように、クララは声を上げて泣く。
クララ自身も、幼い心の片隅で、ほんのわずかではあったが、わかっていたのだ。
お母さんが死んだのは、お姉さんのせいじゃない。アーデルのせいだ。
お姉さんは自分たちを助けようとしてくれたのだ。
だが、小さな小さな自分の胸を、黒く黒くねぶる喪失の闇。
クララはそれを、どうしていいのかわからなかっただけなのだ。
私が、あと一秒。あと、一秒だけ――ああああっ!
ごめんなさ……ごめんなさい、ママ……っ!
己の無力と悲運に、そして不可逆の喪失に必死に耐えるように、クララとマーメイは互いを強く抱きしめて泣いた。
ただ黙して見守るパオの前で、二人の幼いフェーレスたちは、そうしてずっと、泣き続けた。
起きましたね、クララ
天井の白い照明を目にして、自分を呼ぶ声を傍らに聞いて、クララは自身の目覚めをぼんやりと自覚した。
誰だっけ。
ううん、ここはどこだっけ。
灯りのまぶしさに目を細めながら、記憶と現状の認識を一致させようと、動きのにぶい自分の頭を少しずつ回してみる。
寝言で言っていましたよ、ママとか、お姉さんって。少しはゆっくり、夢の中で甘えられました?
おかしそうに、だが優しい声でそう言うのが誰なのか、まだクララは思い出せない。
ここが病室であること、アーデルと戦い傷ついたこと。
事実と記憶のパーツを、まだはっきりとしない意識でつなぎ合わせる。
そうしてようやく、今しがたまで見ていた母の死とマーメイとの邂逅の情景が、自分の記憶をただなぞっただけの夢であったことを、クララは知る。
ショッピングセンターの戦闘から、ちょうど二週間です。担ぎ込まれてから二回手術して、そのあと一週間眠っていたんですよ、あなたは。覚えていますか
……リーダー
ベッドサイドで自分を見守る機動歩兵部隊リーダー、ピクシー・ボブの名をクララは思い出す。
よしよし、と安心したようにうなずく彼女の手には、見慣れたアンダースーツとプロテクター。
マーメイを真似て配給してもらった、長いスカーフ。
おろしたてだろうか、スーツの薄い布地には傷やほつれひとつ見当たらず、最低限の要所を守るプロテクターもつやつやだ。
任務、ですか
そうです。お休みのところ、大変恐縮ではございますが、ね
ピクシーはわざとらしく頭を下げた後、今度は本当にすまなそうに小さく笑う。
大丈夫です、行きます
クララは半身をひねり、左手で上半身を支えてぐいと身体を起こす。
――左手?
自分の何気ない動作を終えてから、クララは違和感に気付いた。
戦いの中で失った、アーデルに喰われてしまったはずの自分の左腕が、今クララの目の前に存在し、しようと思った行動そのままを、確かに遂行して見せたのだ。
驚いたでしょう、クララ。あなたの義手、新しい左腕です
義手。
ピクシーにそう言われて初めて、クララはその腕の違和感に気付く。
形自体は、自分の知っている自分の腕によく似ている。
鍛え方が甘いとしょっちゅうマーメイに言われる、まだ筋肉の足りない細い腕。
だがその表面は、自分の身体を為す肉の肌とは明らかに異なる、すべらかな金属。
ゆっくりと自分の顔に寄せた手の甲は、灯りを照らし返しきらめく。
自分の顔までうっすらと映り込んでいるような白銀の固体が、失ったはずの左腕によく似た何かになって、クララの肩から生え、動いているのだ。
新組成の金属で再現した神経と筋肉。隊長が言うには、CATの持ちうるすべての技術で可能な限りフェーレスの肉体構造に近づけた、研究中の試作品だそうです。でも、まさか訓練もなしにそんなに自由に動くなんて……!
動揺にわずかに上ずったピクシーの言葉を聞きながら、クララは再び自分の記憶をたどる。
ショッピングセンターから退却し、緊急病棟に担ぎ込まれる直前のこと。
担架で運ばれる自分に、パオ・フウ 隊長が何事か訊ねて答えを迫り、自分はそれを承諾した。
そうだ。
確かに 自分は、望んでこの腕を得たのだ。
そのことだけは、クララは思い出すことができた。
パオ隊長から、その左腕のマニュアルらしき資料を預かっています。一度端末で確認しますか
いえ。たぶん何となく、わかります
そうですか
両足を揃えてベッドの横から下し、手すりに左手をついて重心を支え、立つ。
ただそれだけの動作が自然に行えること、それ自体がすでに、クララにとって甚だしい違和感だった。
だが、あの時の絶望がまるで嘘だったように、腕を失った事実など存在しないかのように、クララの白銀の左腕は、不自然なほど自然に動いた。
手を握ったり、広げたり。
指を揃えて正面に突き出してみたり。
プグナーレの拳の型を作ってみる。
自分が知っている自分自身の左手の動きと、全く差はないように思える。
あらゆる感覚と認識の一致不一致を確かめるように、クララは動作ひとつひとつをゆっくりとこなしながら、肌着を脱ぎ去り、スーツへの着替えを終える。
あの日あなたが助けた小さな子が、言っていましたよ。あなたを絶対に助けてくれと
ピクシーの言葉は、クララの中でぼやけて埋もれていたあの日の記憶を、ひと息に、鮮烈に喚起した。
ショッピングセンターでアーデルから守り戦った、自分と同じ名前の少女。
自分を見上げる、涙でいっぱいの少女の目。
そして、この子を守らなきゃ、戦わなきゃと歯を食いしばって奮い立たせた、あの時の自分の心。
無事だったんですね、あっちのクララも
……ひょっとして、あなたと同じ名前を?
少女の名を知らなかったピクシーは、クララが口にしたその名に少し目を丸くしながらも、
ええ、大丈夫でしたよ
短くそう答え、優しく一度うなずいた。
そして、それを聞いたクララの、口元にわずかにこぼれた微笑みを、ピクシーは見逃しはしなかった。
きっとクララは今までずっと、生死をさまよう眠りの中にいながら、少女の身を案じていたのだろう。
そして目覚めて今ようやく、あの戦いに勝利したのだと知ることができたのだ。
よくやりましたね、クララ
二週間ごしの、短い戦果報告(デブリーフィング)。
ピクシーのねぎらいに、クララは少し恥ずかしそうにうつむきながら、黙ってこくりとうなずいた。
その腕を受け取ったということは、あなたは戦い続けることを選んだ。
そうですね、クララ
問いかけるピクシーを、今度はまっすぐ正面に見て、
はい
クララははっきりと、そう答えた。
入隊してまだ数か月。
それ以前からマーメイの指導を受け、格闘術(プグナーレ)の心得はあるものの、経験は当然浅い。
何より、寝言で母を呼び続けるような、幼い少女だ。
だが彼女の中にはきっと、戦いの道を選んで進む確たる理由があるのだ。
事情は計り知れずとも、この白銀の腕をその身に宿した事実と、揺るがぬ彼女の眼差しが、何より強くそれを物語っているではないか。
そうですか。では
ピクシーは確信し、傷ついた部下を再び戦場へ送る小さなためらいをかなぐり捨て、
行ってください、みんなのところへ。
一秒でも早く、さあ!
了解(フェッチェ)!
身支度を終えた小さな戦士に、強くそう命じた。
窓の外遠く立ち上る、黒と灰の土煙。
再びバーシムに迫るクラブ型アーデルと、それに付き従い縦横に列を為す大小のアーデルたち。
視認可能なその距離まで、敵の群れは迫っているのだ。