マリエッタ

リーゼリカ……

リーゼリカ

マリエッタ、殿下……

この事態を何と説明するか、リーゼリカの役割は多いだろう。
考えなければならないこともたくさんあるのに、頭が真っ白だ。

リーゼリカ

わたくしは……え?

マリエッタに抱きしめられていた。

マリエッタ

辛い思いをしたのね。一人で戦っていたのね……

リーゼリカ

……一人では、ありませんでした。彼がいましたもの。彼のおかげでわたくしはこの世界を選べました。戻ってこられて、それなのに!

その大切な人は救えなかった。

マリエッタ

わたくしたち、見ていたわ。あなたの姿を、あなたの強さを

リードネス

……リーゼリカ。良くやったな

リーゼリカ

陛下……まだわたくしの名前、覚えていてくださいましたのね

リードネス

妹の名を忘れるほど薄情な兄になったつもりはない

リーゼリカ

わたくしを家族と認めてくださるのですか?

慌ただしい足音を引き連れ兵士がなだれ込んでくる。

陛下、王宮中の鏡が割れるという奇怪な現象が!

謁見の間に勢ぞろいしているリードネス、ルシエラ、マリエッタの無事を確認すると兵士の視線はリーゼリカに注がれた。

陛下、皆さまご無事で何よりです。……失礼ですが、そちらの女性は?

その一言でリーゼリカは自分の存在が消えてしまったことを悟った。悪い冗談だとリードネスは兵をたしなめるが、リーゼリカは誰より早く現実を受け入れ始めていた。

国中の鏡が割れるという怪奇事件の顛末を知るのは彼らだけ。

夜さえ明けぬうち、リーゼリカは姿勢を正し告げる。

リーゼリカ

わたくし、王宮を出ていきますわ

マリエッタ

どうして? いいのよ、ここにいて! ねえ、お兄様!?

運命を受け入れたとたんに迎えた結末は残酷だ。リーゼリカという王女は存在しない。

リードネス

無論だ。言ったろ、家族になりたいと。それに、お前は国を救った英雄だ

リーゼリカ

英雄なんて人知れず姿を消すものです。わたくし他の誰に褒められるより、お兄様たちに褒められたことがとても嬉しかったですもの。その言葉だけでわたくしは幸せです。それに……

リーゼリカは己の胸に手を当てる。きっとこれが本当の気持ちだ。だからこそ、早く王宮を飛び出したくてたまらなかった。

リーゼリカ

勝手な言い分ですけれど、わたくしが下した決断は残酷なことです

マリエッタ

……あの彼のことね

彼らにも途中からエスメラの姿が見えていたらしい。エスメラと、国を救ってくれたもう一人の英雄の姿が。

リーゼリカ

わたくしは彼より国を選びました。責められても仕方がないのに彼は最後まで笑ってくれた。わたくしはこの罪を背負って生きたい。彼が生きていた証を探したいのです

エスメラ・ヴィランのことも、アージェのことも生涯忘れるつもりはない。

リードネス

どこへ行くつもりだ?

リーゼリカ

どこまででも

リードネス

止めても無駄、という顔をしているな

マリエッタ

お兄様!?

リーゼリカ

取引は終了ですわね。ところで要求されていた金貨百枚ですけれど、お支払いしますから少しだけ王宮に留まることをお許しくださいますかしら

リードネス

そんなことは家族として当然だ! 金は要らん。あれは……そもそもお前のものだ

リーゼリカ

はい?

ルシエラ

つまりですね。あなたは王宮を出ていきたいと望んだでしょう。一人で生きていけるかのテストだったのです

リーゼリカ

なぜ、そのようなことを?

リードネス

心配だからに決まってるだろうが!

リーゼリカ

し、心配? だ、誰が誰をですの!?

リードネス

俺たちが、お前のだ! おいっ、どうしてそんなことをという顔をするな!

リーゼリカ

しますわ!

リードネス

俺たちだって、悪かったと思ってるんだ。エスメラの娘だからと一括りにして遠ざけて……歩み寄ろうとすれば、お前は勝手に一人で覚悟を決めているし。台無しだ!

マリエッタ

お兄様は照れ屋ですものね

ルシエラ

同意です

リードネス

お前らも同罪だろうが! ああーっ、とにかく! ちゃんと金が稼げることが証明されれば、それで良かったんだよ。頑張って稼いだんだろ? お前が自分のために使ってくれ。それに、第二王女はもういない

圧的な物言いだが、リーゼリカのためを想っていることはしっかりと伝わっていた。

リーゼリカ

わたくし本当に幸せ者でしたのね

こんなに恵まれていたなんて、どうしてもっと早く気付けなかったのだろう。

夜が明けてリーゼリカは街に向かう。エスメラが消えた世界をこの目で確認したかった。

リーゼリカが取引のために蓄えていた金貨百枚は消えていなかった。
床下、庭園、地面の中……様々な場所へと隠していたが、どれも無事だ。もちろんアージェが提案してくれた隠し場所である。リーゼリカが生きた小さな証がたまらなく嬉しかった。

道案内も護衛も不要だと断った。よく知っていると笑い飛ばした。

慣れた足取りで街を歩けば見覚えのある景色ばかりだ。裏路地の抜け道から、定食屋の裏メニューまで知り尽くしている。
けれどリーゼリカを知る人は誰もいなかった。

リンゴ農園へ赴けば緑のリンゴは存在していたが、誰が開発したのかは不明らしい。
なんでも傍らに立てられている札に『アージェ』と記されており、そのまま品種の名前に起用するそうだ。

リーゼリカ

いつか緑のリンゴが食べられたら素敵ですわね

けれどもう、リーゼリカが品種改良に関わることはないだろう。なのでベルティーユの発展を願って、開発の資料はそっと郵便受けに入れてきた。

街でもリーゼリカが声をかけられることはない。少し前なら通りを歩くだけで大忙しだったのに……。

リーゼリカ

あれは……

ラルだ。反応を示したからか、視線を逸らせなかったからか、彼はわざわざ足を止めてくれた。

ラル

えっと、俺に用か? あんたみたいな美人、一度会ったら忘れないと思うんだけどな……

リーゼリカ

ぶしつけでしたわね。申し訳ありません。知人に、よく似ていたものですから

ラル

いや、気にしてないよ。むしろ役得だぜっ! じゃーな!

リーゼリカ

ラル……

引き止めたい衝動を堪える。引き止めてどうするというのか。
今のリーゼリカにできることは――

リーゼリカ

さようなら

ラルはとっくに背を向け歩き出している。

別れの挨拶を告げることだけだ。
遠ざかる背に向けて笑ったつもりが上手くいかない……

リーゼリカ

わたくしちゃんと、別れの挨拶しましたわよ? 黙っていなくなったり、しませんでしたわよ

思い出が零れるように、涙が頬を伝う。

リーゼリカ

そういえば、アージェともこの道を歩きましたわね

鏡の中で起こった、夢のような現実。
けれどリーゼリカもアージェも確かにそこにいた。
たとえ誰が忘れようとリーゼリカは忘れない。彼と話した王宮での生活も、彼と歩いた街並みも。
彼が贈ってくれた花は、確かに存在していた。

彼の歩んできた道を知ることが、アージェという人間の存在した証になるのだから。それはリーゼリカにしかできないことだ。

翌朝、リーゼリカは生まれ育った故郷を発つ。雲一つない快晴の空が旅立ちを祝福しているようだ。

どこへ行くかを考えて、まずエスメラの故郷を目指そうと決めた。アージェを探すのならエスメラの面影を追うべきだろう。

リーゼリカ

旅をしながらお金を稼いで、そうして世界を回るの……

リーゼリカ

どこかで見ていてくれるかしら……

マリエッタ

手紙、待っているわ。元気で、たまには帰ってきなさいよ

リーゼリカ

はい。マリエッタお姉さまもお元気で

捻くれた妹にも優しい穏やかな人。

リードネス

お前の故郷はここだ。俺はお前の帰る場所を守ろう

リーゼリカ

リードネスお兄様ならベルティーユは安泰ですわね

こんなに温かく笑う人だったのか。

ルシエラ

言いたいこと、すべて取られてしまいました。私も同意です。気を付けて

リーゼリカ

ルシエラお兄様は苦労が多く大変でしょうけれど、どうかお体を大切になさってください

無口だけれど気持ちのこもった言葉をくれる人だった。

リーゼリカ

陛下たちに見送られるなんて、わたくし贅沢ですわね!

リードネス

本当に、気を付けてくれ。お前は大切な妹だ

リーゼリカ

お言葉、有り難く受け取らせていただきますわ。そんなに心配なさらないで、お兄様。わたくし一人でならず者を撃退したこともありますのよ

リードネス

それについてゆっくり話を聞けないのが残念だ

今朝の一番早い船を希望したのはリーゼリカだ。出向時間が迫っている。

名残惜しい思いに引きずられながら船へと乗り込む。

いつ戻れるかもわからない、あてのない旅だ。可能な限り家族の姿を目に焼き付けておかなければ。向こうも同じなのか、船が港から離れるまで見守ってくれるようだ。

リーゼリカ

次に戻るのはいつになるかしら……

ゆっくり船が港から離れていく。
強い風が吹き、潮風に髪が遊ばれた。

リーゼリカ

これが悪女の娘がたどる結末

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