風が強くなってきた。
そろそろ船内へ戻ろうかというところで後方から迫る人影に気づく。

物凄い勢いだ。

リーゼリカ

乗り遅れた人かしら? あんなに必死になって……

あいにく船は出向している。船長に進言したところで無駄に終わるだろう。

リーゼリカ

ああ、もう! 中に行きましょう、ここにいては泣いてしまいそうですわ

――……ゼ

風が運んできた声音に覚えがある気がした。
そんなずないのに、足が動かない。

人影が近づくにつれ目が離せない。

わき目も振らず必死に走る姿に、もしかしてという気持ちが次第に膨らんでいく。

――リゼ!

リーゼリカ

……アー、ジェ?

信じられないとわかっているのに彼の名を呟いていた。

アージェ

リゼ!

リーゼリカをリゼと呼んでくれる人がこの世界にいるだろうか。
次第に涙が溢れてくる。

船尾に走った。アージェが近づいてくるのに船は止ってくれないのだ。
出港してしまえばたどり着くのは別の大陸。帰りの船を待つのももどかしい。
約束を交わしたわけでもないのに、この機会を逃せばもう会えないかもしれない。

リーゼリカ

失礼、わたくし降りますわ

瞬間、そばにいた乗客が目をむく。

ちょ、ちょっとお嬢さん!?

これ以上離れたら戻れなくなる。
リーゼリカは旅行鞄を放り投げた。

派手な音を立てたが無事転がった。中には大切な栞が挟まっている。

派手な音に見送りに来ていた人間を始め、乗客たちの視線もリーゼリカに集中していた。
突然の奇行に身内も困惑している。

リードネス

お、おい!? 何してる危ないぞ!

ドレスをたくし上げ手すりに足をかけた。想像以上に高さを感じるが、迷っている暇はない。

リーゼリカ

今なら間にあいますわ!

掛け声とともにドレスの裾が舞う。
冷たい海に落ちたってかまわない。

リーゼリカ

わっ、と……きゃっ!

片足を付けたまでは良かったが、踵が踏ん張れず重心が後ろに傾く。

誰もが驚きに満ちた顔を浮かべ動けずにいた。

そんな人々の間を縫い、諦めて海に落ちようとする少女を救う手が伸びる。

大きな手だった。

リーゼリカの腕など簡単に覆ってしまえるほどに大きくて――温かい。

アージェ

リゼ!

引き寄せられる。あまりの力強さに今度は前のめりになった。そのまま腕の中に抱き込まれる。
荒い呼吸に交じって呼ばれたのは紛れもない自分の名前だ。

リーゼリカ

……アージェですの?

そう信じて飛び降りたはずなのに自信が消えかけるのは、リーゼリカが知るアージェよりも大人びているからだ。髪も伸びているような?

アージェ

久しぶり、ってほどでもないか。まったく、船から飛び降りるなんて驚かせてくれるね。知っていたけど君、足癖が悪いね。嫁の貰い手が心配だ

リーゼリカ

アージェ、本当にアージェ?

アージェ

ああ、僕だよ

リーゼリカ

なんだか姿が少し……

アージェ

鏡の中では歳をとらないからね。現実の僕は二十四らしい。背も伸びたしね、ほら

リーゼリカ

本当、ですわ……

アージェ

どうしたの? 感動のあまり声が出ない? それにしても酷いな。僕を置いてどこに行くのさ。迎えに行くって言っただろ

初耳だ。

リーゼリカ

聞いていませんけれど!

危うくすれ違うところだった!?

アージェ

ああ、良かった。昨日から急いできたかいがある

リーゼリカ

急いでって、あなたどこから……

従者

殿下、お待ちください殿下!

ベルティーユ王族組は条件反射で振り向いた。けれど相手は知らない人間である。

従者

馬車を置いて突然走り出すなんて、ここは他国なんですから節度ある行動を!

アージェ

仕方ないだろう、急いでた。馬車なんかで迂回するより走ったほうがこの道は早い。おかげでこうして間に合った!

なおも疑問符を浮かべているリーゼリカに微笑む。

アージェ

ベルティーユ王宮に向かってみれば陛下たちは客人の少女を見送りに出払っているなんて、ほぼ君のことじゃないか! ああ、本当に間に合って良かったよ

逃がさないとばかりに強く抱き込まれた。

従者

本当に、なんなんですかもう、昨日からいきなり! ベルティーユに運命の相手がいるとかなんとか、とち狂ったようなことを言いだして……。勝手をされては困ります!

アージェ

僕は本気だ。彼女こそ僕の愛しい人だよ

にっこりと微笑まれている。
しかもそれは腕の中のリーゼリカのことを差しているらしく。

リーゼリカ

……殿下? あの、失礼なのだけれど、どなたが殿下?

アージェ

即答するのはアージェだ。

アージェ

僕、グレイシアの王子みたいだ。ようやく本当の自分を思い出せた

リーゼリカ

はいっ!?

アージェ

初めまして、というのも違うかな?

まるでいつかのやり直しのようにアージェが笑う。

アージェ

私はグレイシアの王子アージェントと申します。リーゼリカ姫、どうか私と結婚していただけませんか?

リーゼリカ

わたくしは……もう姫では――って、結婚!? あなた、どうされましたの!?

アージェ

いや、あれだけ君が好きだって言ったじゃないか

リーゼリカ

意味がわかりませんわよ!

アージェ

あれ? 伝わってない?

リーゼリカ

そういう好意だとは、思いませんでした……。それにわたくし、あなたのことを見捨てましたもの。怨まれて当然の女ですわ

アージェ

そうだね。最高にかっこいい女の子だよ。こんな子、逃がしたらもう出会えないだろうな。じゃあ責任とってお嫁さんになるってことで、どう?

どうしよう、話が全くかみあわない。

リーゼリカ

王子殿下の申し出は! わたくしなどには……

アージェ

すべてを思い出してみれば、世界からエスメラの存在が消えている。君はどうしているのか不安で仕方なかった

それは自分も同じだとリーゼリカは告げた。

アージェ

僕は君が王族だから好きになったわけじゃない。あの女のことも関係ない。君が君だから愛しているんだ。やっと気づけた

リーゼリカ

なっ!

アージェ

ベルティーユの美しき姫君。どうか私と結婚していただけませんか?

地位も身分も親も関係ないとアージェは告げる。その瞳は真っすぐにリーゼリカだけを映していた。

リーゼリカ

な、なんてこと!

アージェ

ん?

リーゼリカ

わたくし、てっきり幕引きのような気持ちでまとめていましたわ! これからあなたを探して当てのない旅にでようかしら――とか! 今まさに決意していたところですのよ。それをいきなり現れるなんて、どうしてくださるのこの気持ち! 複雑、卑怯ですわ!

アージェ

え、卑怯? 僕は君に会えて嬉しいよ

リーゼリカ

わ、わたくしだって嬉しいに決まっているでしょう! ただ心の準備というものが!

アージェ

さて、本人には許しをもらえたけど。あとは誰に許しをもらえばいいのかな?

言いながらアージェの顔が近づいている。

そう、リーゼリカに両親はいない。
いるのは……

リードネス

ぜひ、俺たちに頼めるだろうか

頼もしい兄と姉だけだ。

旅立ちから一転、緊急家族会議が開かれた。

丁重に城へと迎え入れられたグレイシアからの使者――もとい約束もなく朝一番に訪れた王子本人。
エスメラが消え、開戦も近と囁かれていた両国の関係も好転しているようだ。

アージェ

これでも驚いたんだよ? 目が覚めたら王子だしね

リーゼリカ

でしょうね! わたくしも驚きですわ!

アージェ

エスメラは消えていたけど、君を愛した記憶は残ってた。君を過ごした思い出も、君に触れた記憶も全部。だから会いに来たんだけど……迷惑だったかな?

リードネス

迷惑だなんてとんでもない!

リーゼリカ

お兄様!?

本人より早く答えたのはリードネスだ。

アージェ

感謝します。突然のことに申し訳ありませんが、ぜひ妹君を妻にいただきたい

これまた単刀直入すぎる申し出にリーゼリカは頬が熱くなるどころの騒ぎではない。

アージェ

兄君たちが妹姫のことを想っているかは存じております。けれど私には彼女以外考えられないのです

真摯な申し出ではあるが、少し待ってほしい。
ちなみにリーゼリカは既に言葉を失くしているので彼女ではない。引っ掛かりを覚えたのはリードネスだ。そしてルシエラ、マリエッタへと伝染していく。

リードネス

ええと、少々お待ちいただけますか――

距離をとり兄姉たちは小声で会議を始めた。

リードネス

おいっ! どうして俺たちがリーゼリカを大切に想っていると知っている!? 誰だ話したの!

ルシエラ

私ではありません。そもそも、私たちの想いはリーゼリカも知らなかったはず……

マリエッタ

わたくしたち三人だけの秘密でしたわよね!?

しばし無言が続けば、ひんやりとしたものが背を伝う。得体のしれない王子だ。

そして結論は早かった。
満場一致で、敵に回すよりもリーゼリカという繋がりを得て身内にしておくのが一番という見解だ。

リードネス

よろしくお願いします

リーゼリカが動揺している間に兄と姉はそろって頭を下げていた。どこにそんな一体感があったのか。
ちょっと待ってほしいと思っているのは当事者のリーゼリカだけだ。

従者

あの、アージェント様、そちらのお嬢様は……

リーゼリカ

そうですわ! まだ彼が居てくれましたわ!

非常に居心地悪そうに従者が発言する。リーゼリカが求めていたのはこの戸惑いの空気だ。自分だけだと思っていたので、なんとなく味方のような心地がして親近感を抱く。

リードネス

従者殿、彼女は私たちの妹です

従者

失礼ながら、ベルティーユ王家には王女はお一人と伺っておりますが

リードネス

養女です

従者

なんと! これは大変失礼いたしました! ではさっそく、本国へ戻り婚姻の手続きを進めましょう

瞬殺にもほどがある!
従者が丸め込まれた。彼にとっても大国との繋がりは願ったりらしい。

ルシエラ

では私は手続きを進めてまいります

リードネス

助かる

兄たちが小声で打ち合わせている。
第二王女として扱うことは難しいが養女にするだけなら簡単らしく。元々妹だったのだ。問題ないだろうという全員からの圧力が降り注ぐ。

リーゼリカ

口を挟むすきがない、なんて統率力ですの!

初めて見た兄姉の連帯感であった。

戸惑うリーゼリカに、アージェは止めとばかりに微笑む。合わせ鏡のように掌を重ねられた。

アージェ

鏡よ鏡、鏡さん。悪女の娘(きみ)は幸せかい?

リーゼリカ

――っ!

絶対に、わかっていてやっている。
ならばせめてもの悔しまぎれに、とびきりの返事を返してやらなければ。

リーゼリカ

この顔が幸せ以外に見えまして?

後にベルティーユから世界に広まる緑のリンゴ。その誕生の秘密を知る者は少ない。

一方、グレイシア王国は突如発表された謎の姫君の話題で持ちきりだ。ベルティーユを訪問していた王子が一目で恋に落ち、口説き落としたと民の間で話題となっている。

貴族間では王子を狙っていた女性たちが一斉にリーゼリカの値踏みを始めた。しかしリーゼリカに隙はない。

リードネス、すなわち国王が後継人となり養女にしたことで身分という不安要素もなくなった。さらにリーゼリカは幼少期からの努力で恥ずべきことのない教養を身に着けている。加えて美しさにも某母親譲りのため文句の付けようがない。となれば次第に王子が惚れるのも無理はないと周囲も納得し始めた。

リーゼリカ

わたくしずっと、アージェが好きでしたのよ

アージェ

うん。知ってた

かつて悪女と呼ばれた人はすべてを欲した。
けれどその娘は小さな幸せをもとめた。

――はずだったけれど。気付けば悪女と同じく王妃となっていた。

けれど同じ過ちは犯さない。
なぜなら本当に欲しいものを理解しているから。

こうして悪女の娘は幸せを手に入れました

12悪女の娘、その結末

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