帰りを望む人ならここにいると伝えたかったのに、そんな猶予は与えられなかった。
目が回るような感覚を味わい、とっさに目を閉じる。
外の世界にはリゼを待ってる人がいる
それはあなたも同じですわ!
帰りを望む人ならここにいると伝えたかったのに、そんな猶予は与えられなかった。
目が回るような感覚を味わい、とっさに目を閉じる。
こわごわと瞳を開いた先にはエスメラとアージェが。
エスメラと自分の意識が入れ替わっていた。
わたくし、戻って……
アージェに背後から拘束されたエスメラは悪あがきのように暴れていた。
あんた! このっ、放しなさい!
もう命令は聞かないよ
しもべのくせに! 後悔するわよ! あんた、一生ここで過ごすつもり!?
しもべ? 僕はアージェだ。プライドを捨ててお前に従うくらいなら、最初からこうしていればよかったね。僕はもう、お前の思い通りにはならないよ
あんた……。父親そっくりなのね
なん、て?
そう、あんた何も覚えていないんだったわね。可哀想だから最後に教えてあげる! あんたの父親は、あたしの誘いを断ったの。せっかく愛人にしてあげるっていうのに頭の悪い男!
英断だ
ホントあんたそっくり。自分の信念は曲げないって顔してた。そういうところが憎くて、復讐してやろうと思ったの。だからあんたを閉じ込めたのよ。ずっとあんたを探しているでしょうね。いい気味だわ!
アージェ!
リゼ……。そうだね、決着をつけるのは僕じゃない。それは君の役目だ
エスメラを問いただしたいだろうに発言権を譲ってくれる。
ならば負けるわけにはいかない。
お久しぶりですわね。エスメラ・ヴィラン
あんたも、あたしにたてつくのね
良くお分かりのようですわね
あたしの影におびえてたくせに
否定はしませんけれど、過去のことですわ。ええ、どうせと、わたくしはいつもあなたに引け目を感じていた。それで勝てるわけがないのですね
なんで、どうしてよ! あたしのいない世界なんていらないのに。全部、滅んでしまえばいいじゃない! いらない、あたしのいない世界なんて必要ないのに!
リーゼリカは鏡を見据える。こんな関係になって初めて向き合うことになるなんて。
見苦しいですわ。エスメラ・ヴィラン
毅然としていよう。強いと信じて背中を押してくれた人のために。命令に背いてまで助けてくれた、強い彼に恥じないようにありたい。
うるさい! あたしの娘のくせに! あたしが産んでやったから、王の娘に産んでやったから、あんたは贅沢できるのよ!
否定は、できません。産んでくださったこと、感謝しています。だからこそ、これからは自分の運命から逃げずに生きていきます
なによ、偉そうに! どうせあんたには何もできない!
リゼ、鏡を割るんだ!
アージェの指摘にエスメラは顔色を変えた。瞬時にそれがどれだけ威力のあることかを悟る。
やめなさい! これはあんたのためでもあるのよ!
どういうことですの?
あたしは全ての鏡に呪いをかけた。あたしを忘れることは許さないってね。もし要であるあたしの意識が消えたら、反動で存在そのものが消えるわよ。そうしたら娘のあんたはどうなるのかしらね!?
構わないと思った。国が救えるなら構わない。
……けれどアージェはどうなる?
アージェは、大丈夫ですの!?
僕より自分の心配をしたらどうだい
答えになっていませんわ!
そう?
はぐらかさないで!
……僕の誘いを断ったリゼなら、間違った答えは出さないよね
あなた、根に持っているのね
当然だ
きっとアージェが辿る結末は――
もうわかってしまった。だから彼は明確な言葉で告げないのだ。リーゼリカが躊躇ってしまうから。
ね、ねえ、冗談でしょ?
リーゼリカ・ヴィラン! 君はベルティーユの王族だ。民を守る責務がある!
だからこそ呪いを解きたいと思った。アージェはずっと見ていてくれた。だからこそ最後に惨めな姿は見せられない。
そこまで言われてしまっては、覚悟を決めないわけには参りませんわね
やめなさっ、聞いているの!? あたしは、あんたの母親なのよ! あたしの命令を聞きなさい!
早く、リゼ!
え、えっと……
割るのはいい。決定事項だとして。
何で割れと!?
素手?
さすがにそれは難しい気がするので周囲を見回した。
国王陛下愛用の椅子?
豪華な作りすぎて持ち上げられる気がしない。
こんなことならやはり斧を隠し持っておけばよかったが、ない物ねだりをしてもしょうがない。
仕方ないと、リーゼリカは優雅にドレスの裾をつまんだ。
産んでくださったことには感謝しています。おかげで出会えた人がたくさんいますから。けれどわたくしは、あなたの所有物ではありません。この国も、すべて自由にあるべきなのです
優雅に頭を下げる。それでいて力強く踵を上げた。
もう、退場なさるべきですわ。さようなら、わたくしのお母さま
やめっ――!
鏡に亀裂が入る。
小さなひび割れは、徐々に鏡を蝕んでいく。
……あんた、後悔するわよ
運命を悟ったのかエスメラは動きを抵抗を止めた。
その通りかもしれませんわ
ちっともあたしに似てないわね!
おほめにあずかり光栄ですわ
かつて啖呵を切った時と同様、もうすべて受け入れていた。
後悔しても構いません。この先わたくし自身がどう生きていくかで、なんとでもなりますわ
はあ!? 馬鹿じゃないの!
わたくし、あなたが思うより逞しいんですのよ
ああそう!
そう拗ねないでくださいませ。あなたのことは、わたくしがずっと覚えていますから。どんなことがあろうと、わたくしのお母さまですもの
……勝手にすればいいわ
エスメラの姿が消える。
拒絶も否定もされなかった。本当に彼女にとってはどうでもいいことなのかもしれない。
赤く熟していた実が地に落ちる。
ぼとり、ぼとりと、無残な音を立てて転がる。
落ちた果実は砂になった。小さな砂の山がいくつも残っている。
緑に溢れていた葉は瞬く間に色を失くし、樹はみるみる痩せ細っていく。やがて同じように砂へと変わり果てた。
この日、大陸中に深く根を張っていた呪いは消滅した。
さすが、かっこいいね。惚れそうだ。ああ、もう惚れてるんだけどさ
リンゴの樹は消え、エスメラの亡霊も消滅した。
けれど軽口を叩くアージェの顔にも浸食が伸びている。
アージェ、わたくしなんてこと! ごめんなさい。本当に、ごめんなさい!
どうして君が謝るの? 僕が望んだことなのに
あなたの望みは自由になることでしたわ!
良いんだ。もう
良くありませんわ! お願い止まって、止まりなさい!
ピキ――
ピキ――
ピキ――
どうして!
聞いて、リゼ。君が嘆くことはないよ。だって僕はとっくにエスメラの支配から自由になれていた
こんな時まで優し過ぎますわ。そんな、わたくし何もできませんの!?
こうして終われたのはリゼのおかげだ
違う、こんなの違います!
ああ、叶うことなら最後に君に触れたかった
鏡に触れればアージェが笑う。触れ合いはやはり鏡越しで冷たいだけだ。
リーゼリカはもう知ってしまった。あの温もりを――
アージェ! わたくしあなたのこと、ずっと好きでした。今でも大好きです。あの頃より、ずっとずっと!
音もなく消えたアージェの唇が何かを紡ぐ。けれど何も聞こえない。もう互いの声も届いていなかった。
アージェ!
力の限り叫ぶけれど、彼を繋ぎ止めるだけの力はなくて。
耳元で幾重にも鏡が割れる音が木霊していく。
ピキ――
ピキ――
二人で自由になると約束しましたのに!