重い瞼を押し上げる。
重い瞼を押し上げる。
お目覚めかな……
……アージェ?
おはよう。お姫様
目が覚めたらアージェの腕の中にいた。夢にしては伝わる体温が鮮明だ。
わたくし、どうしたのかしら……
彼はアージェだ。名前も共に過ごした日々もすぐに思い出せる。
彼のことはいくらでも浮かぶのに……
わたくしは、誰?
自分の名前だけが抜け落ちている。「わたくしの名前を知っている?」と訊かなければならないのに、酷くどうでもいいことのように思えるのはなぜだろう。
アージェが目の前にいるなんて夢なのかしら
夢、か……
困ったようなアージェの顔。けれどその理由がわからない。悲しませるようなことを言ったつもりはないのに。
……うん。君が望むなら、夢にしてしまおうか。だから二人で楽しもう
倒れていたのはリンゴの樹の下、真っ赤なリンゴが至るところに実をつけている。
そのうちの一つを口にしたような……
けれどもっと大切な何かを忘れている気がする。
焦らなければいけない気がする。わかっているのに、頭が働かない
何か大切なことがあった気がするの。どうしてかしら、思い出せないわ……
そう悲観することもないよ。ここは永遠だ。ここにいれば悲しいことは起こらない。孤独なのが難点だけどね
孤独?
ここにはアージェがいるのに?
全部忘れてしまいなよ。ここには君を疎む家族も民もいない。ここにいるのは、君を大切に想う僕だけだ
アージェが、わたくしを? ああ、なんて幸せなのかしら!
二人、永遠に過ごすのも悪くないよね
時間が止まったように風も吹かない。
心が凪ぐ必要もない。
何も考えず永遠に幸せでいられる。
あなたが? あなたと、永遠に……
好きな人と二人、永遠に――
なんて甘美な誘いだろう。それはきっと『楽園』だ。
うん
にこりと、アージェは微笑んで手を差し伸べる。
この手を取れば『楽園』で幸せに暮らせるだろう。
何もかも忘れて――
それは……それで、いいの?
どうして? ここは苦しみも悲しみも存在しない
ここではないどこかには苦しみも悲しみもあった、ということ?
見てごらん
黒一色だった世界に色がついた。
花が咲き乱れていた。
色とりどりの春の花――
晴れているのに空からは白い雪が舞い落ちる。
幻想的とは聞こえが良いけれど……ちぐはぐな光景だ。
綺麗ですわね。……冷たくありませんけれど
雪は綿のように白いだけで、あの凍えるような感触を伝えてこない。
また、何か違う気がした。
ああ、そこまで再現できなくてごめんね
アージェが見せてくれる光景はとても美い。
アージェの誘いはどこもまでも魅力的だ。
このまま目を閉じてしまえば楽になれる。
けれどアージェは?
あなたは自由になりたいと望んでいたでしょう?
あれはいつだった?
想いをぶつけられた。感情のままに叫び姿を初めて見た。そうまでして願ったことを放棄するのか。
このまま二人きりでいられるのも幸せかなって
幸せだと、あなたは思ってくれるのですか?
君のことは結構気に入ってるよ。君だって僕のことを憎からず思っていただろう? ……ああ、もう遅いかな
いいえ。わたくしは今でもあなたが……。以前より、惹かれていますわ
彼らが立つ場所は切り取られたように異様だ。太陽など存在しないのに明るい。
その中心にはどうしたってリンゴの樹がある。
リンゴ? ……わたくしが思い出そうとしている景色は、ここではない?
もっと広い場所、明るくて景色があって――
気の良い農婦が出迎えてくれる。
そこにもリンゴの樹が、あれは緑のリンゴでしたわ
大切に育てたリンゴの樹だ。
まだ収穫していない。
味見もしていない。
アージェと名付けたかったけれど、この樹は違いますわ。ここにいては成長を見守ることもできませんのね
ここではないどこかへ想いを巡らせる。
一つ思い出せば、また一つ。
こんなにも未練がありますのね。自分でも驚きましたわ
どうしたの?
ごめんなさい、アージェ。わたくし、戻りたいのですわ
……どこへ?
わかりません。けれど、ここにはいられません。ここは夢のように素敵ですけれど、苦しくてもあそこへ帰りたいのです
そっか
……それにしても悔しいですわね
僕に囚われて?
違いますわ。見てください!
ビシッとリンゴの樹を指差した。
今なら触り放題ですわ。こうして触れられるのに斧の一振りも所持していないなんて、不覚にもほどがあります。せめてマッチでも常備していればと後悔していますの
あきらめてなかったんだ、この子……。そこまで思い出しているのなら大丈夫そうだね。君は誰だい?
背筋を伸ばし顎を引く。
ドレスの裾をつまみ優雅にお辞儀する。
そして仕上げに、とびきりの笑顔で答えた。
わたくしはベルティーユ王国第二王女、リーゼリカ・ヴィランですわ
思い出してみれば簡単なことでも、ずっと靄がかったように思考がまとまらずにいた。
この中で己を見失わずにいたアージェの凄さを実感させられる。
それでこそリゼだ
満足そうに笑っているけれど、その言葉だけで彼の本気が伝わる。目覚めてから彼は一度もリーゼリカの名を呼ばなかった。
名前はとても大切だとアージェは言いましたけれど、その通りですわ。ここにいればどうでもよくなってしまう……おそろしい楽園。本気でわたくしの決断に委ねていましたのね
本気で楽園での生活を望んでいたのか、リーゼリカに賭けていたのか、真意は読めないけれど。
鏡の中へようこそ
わたくしエスメラの声を聞いたような……
本当によく覚えているね。普通すぐに忘れてしまうらしいよ
忘れられませんわ! アージェ、外はどうなっていますの!?
いいよ、見てごらん
広いホールのような造りだ。
ずっと見張られているようで苦手だったけれど、覗き見る立場に回る日がくるなんて想像もしなかった。
向こう側にいるのは見間違えるはずもない。紛れもない自分自身の姿――
なぜ、わたくしが!?
あれはエスメラだ。君の体は奪われたのさ
そんなこと! あの人は、もう……
樹が、成長したよね
……力を、取り戻していましたの?
確かなことは言えないけど、エスメラの意識の欠片が鏡に残っていた。それが、あれだ
アージェが示すのは、外にいるリーゼリカの姿をした別人。
僕は命令に従い君を鏡の世界に連れてきた。……逆らえなかった。君を、裏切ったんだ
そうでしたの……。わたくし、あの人に勝てませんでしたのね
リゼ……
あなたが責任を感じる必要はありませんわ。それでもアージェを信じると決めたのはわたくしです
憎しみはなかった。ただ自分が至らなかったのだと思い知らされただけだ。一度裏切ったことのあるアージェを信じると決めたのは自分で、誰を非難するつもりもない。
本当に君って子は……
リーゼリカの体を乗っ取ったエスメラは玉座にしなだれかかる。
呼びつけたのか、そこには兄姉が揃っていた。
これは何の真似だ?
何、ねえ……
不敬罪、ですわね。そこは陛下の場所ですわよ
ねーえ。あたしこの国が欲しいんだけど、ここを譲る気はないかしら?
わざとらしい手つきで椅子を撫で上げる。
あなた、どうしちゃったの?
お前、本当にリーゼリカか?
さあ? どうかしら
あの子は、そんな風に品のない笑い方をする子ではないわ
同意です
あんたたち可愛くないわねえ。あたし仮にもあんたたちの母親なのよ?
表情は窺えないがエスメラは笑っているのだろう。
ご無沙汰ね! あたしの可愛くない義理の子どもたち――ってところかしら?
お前……。エスメラ、なのか?
あたしはリーゼリカ! あたしと陛下の娘ですもの、正当な王位継承権を持っているわよねえ? だったらあたしがこの国をいただいたって問題ないでしょう!
大ありだ! これ以上国を混乱させてたまるか!
素直に従った方が身のためよ。あんたたちも鏡に閉じ込められたい?
……エスメラ、なの? ねえ、リーゼリカは? あの子はどうしたの!
あたしがリーゼリカよ?
ふざけないで!
ああ、もしかしたら見てるかもしれないわね
わたくしが――
振り返った自分の姿。
けれどリーゼリカの眼にはかつてのエスメラが映っていた。
見えたところでどうにもならないけど!
リーゼリカ、ねえ、いるの?
マリエッタ殿下、わたくしを探してくれますのね……
けれど視線が交わることはない。
エスメラ!
リーゼリカは見えない壁を叩く。
どんなに手が痛くなったって構うものか。
聞こえているだろう、エスメラ!
ああ、もうっ! あんたたち、うるっさいわねえ!
鋭いエスメラの視線が鏡を射貫く。エスメラにだけは声が届いているらしい。
あんた、わかってるの? せっかく自由にしてあげようってのに、そんな態度で許されるのかしら
リゼは、僕を助けたいと言った
はあ?
甘い子だって、思っていたけれど。ああ、僕も今同じことを考えているよ。他人なんて気にせず自分のことを考えれば良いのにさ。リゼのことばかりを愚かとは言えないね
懐かしむようにアージェは告げる。
……あんた、しばらく見ない間におかしくなった?
ははっ、そうかもしれないね。だって彼女は言ったんだ。二人で自由になろうと。だから僕はリゼを裏切りたくない。もう二度と!
つまりあたしを裏切るのかしら?
当然だね
その子にそこまで言わせる価値があるっていうの?
彼女のためなら……
リーゼリカ!?
おい、リーゼリカ! 聞こえるか!?
リーゼリカ!
名前、呼んでくれますのね……
こんなにも必死に。
もっと自分から歩み寄ればよかった。エスメラの娘だからと言い訳にして逃げてばかり。もっときちんと向き合えば何か変わっていたかもしれないのに。
逃げたくありませんわ。わたくし向こうには未練がありすぎます……
僕の誘いを断るの?
責めるような言葉ではなかった。ただ現実を告げている。
楽園を捨て辛い世界に帰るなんて、愚かと思いますかしら
けれどもう苦しいだけではないと知ってしまった。名前を呼んでくれる人がいるなら、応えたい。
ふわりと、アージェの纏う空気が変わった。
最高にかっこいいね。リゼなら断ると思った
なら、どうして……
言ったろ? 君とここで永遠を生きるのも悪くないって。けど僕が好きになったリゼは選ばないんだ
買い被り過ぎですわ
不本意だけど、僕はいろんなものを見てきた。そんな僕が言うんだよ? リーゼリカ・ヴィランて子は決して楽な道を選ばない。負けず嫌いで、努力家で……ずっと見てたんだからそれくらいわかる。リゼにはこんな狭い世界、似合わないよ
アージェが優しく笑うほど泣きたい気持ちになった。
あなたが見ているのなら途中で投げ出せませんわね
君は立派な魔女だ。リゼなら出られる
アージェを外に出すことができた。
鏡を通して声を届けることができた。
リーゼリカが成長していた証だ。
優しい手に背中を押される。
帰ってきて、リーゼリカ! わたくしたち、ちゃんとあなたと向き合わなければ――家族になりたいの!
帰ってこい、リーゼリカ。お前は、見どころのあるやつだ
同意です。……リーゼリカ
意識が引きずられる――
そばにいたはずのアージェの気配が遠ざかっていく。
わたくしはリーゼリカ・ヴィラン! 鏡の亡霊に負けたりしませんわ