重い瞼を押し上げる。

アージェ

お目覚めかな……

リーゼリカ

……アージェ?

アージェ

おはよう。お姫様

目が覚めたらアージェの腕の中にいた。夢にしては伝わる体温が鮮明だ。

リーゼリカ

わたくし、どうしたのかしら……

彼はアージェだ。名前も共に過ごした日々もすぐに思い出せる。
彼のことはいくらでも浮かぶのに……

リーゼリカ

わたくしは、誰?

自分の名前だけが抜け落ちている。「わたくしの名前を知っている?」と訊かなければならないのに、酷くどうでもいいことのように思えるのはなぜだろう。

リーゼリカ

アージェが目の前にいるなんて夢なのかしら

アージェ

夢、か……

困ったようなアージェの顔。けれどその理由がわからない。悲しませるようなことを言ったつもりはないのに。

アージェ

……うん。君が望むなら、夢にしてしまおうか。だから二人で楽しもう

倒れていたのはリンゴの樹の下、真っ赤なリンゴが至るところに実をつけている。

そのうちの一つを口にしたような……

けれどもっと大切な何かを忘れている気がする。

リーゼリカ

焦らなければいけない気がする。わかっているのに、頭が働かない

リーゼリカ

何か大切なことがあった気がするの。どうしてかしら、思い出せないわ……

アージェ

そう悲観することもないよ。ここは永遠だ。ここにいれば悲しいことは起こらない。孤独なのが難点だけどね

リーゼリカ

孤独?

リーゼリカ

ここにはアージェがいるのに?

アージェ

全部忘れてしまいなよ。ここには君を疎む家族も民もいない。ここにいるのは、君を大切に想う僕だけだ

リーゼリカ

アージェが、わたくしを? ああ、なんて幸せなのかしら!

アージェ

二人、永遠に過ごすのも悪くないよね

時間が止まったように風も吹かない。
心が凪ぐ必要もない。
何も考えず永遠に幸せでいられる。

リーゼリカ

あなたが? あなたと、永遠に……

好きな人と二人、永遠に――
なんて甘美な誘いだろう。それはきっと『楽園』だ。

アージェ

うん

にこりと、アージェは微笑んで手を差し伸べる。
この手を取れば『楽園』で幸せに暮らせるだろう。

何もかも忘れて――

リーゼリカ

それは……それで、いいの?

アージェ

どうして? ここは苦しみも悲しみも存在しない

リーゼリカ

ここではないどこかには苦しみも悲しみもあった、ということ?

アージェ

見てごらん

黒一色だった世界に色がついた。

花が咲き乱れていた。

色とりどりの春の花――

晴れているのに空からは白い雪が舞い落ちる。

幻想的とは聞こえが良いけれど……ちぐはぐな光景だ。

リーゼリカ

綺麗ですわね。……冷たくありませんけれど

雪は綿のように白いだけで、あの凍えるような感触を伝えてこない。

また、何か違う気がした。

アージェ

ああ、そこまで再現できなくてごめんね

アージェが見せてくれる光景はとても美い。
アージェの誘いはどこもまでも魅力的だ。

このまま目を閉じてしまえば楽になれる。

けれどアージェは?

リーゼリカ

あなたは自由になりたいと望んでいたでしょう?

あれはいつだった?

想いをぶつけられた。感情のままに叫び姿を初めて見た。そうまでして願ったことを放棄するのか。

アージェ

このまま二人きりでいられるのも幸せかなって

リーゼリカ

幸せだと、あなたは思ってくれるのですか?

アージェ

君のことは結構気に入ってるよ。君だって僕のことを憎からず思っていただろう? ……ああ、もう遅いかな

リーゼリカ

いいえ。わたくしは今でもあなたが……。以前より、惹かれていますわ

彼らが立つ場所は切り取られたように異様だ。太陽など存在しないのに明るい。
その中心にはどうしたってリンゴの樹がある。

リーゼリカ

リンゴ? ……わたくしが思い出そうとしている景色は、ここではない?

もっと広い場所、明るくて景色があって――
気の良い農婦が出迎えてくれる。

リーゼリカ

そこにもリンゴの樹が、あれは緑のリンゴでしたわ

大切に育てたリンゴの樹だ。
まだ収穫していない。
味見もしていない。

リーゼリカ

アージェと名付けたかったけれど、この樹は違いますわ。ここにいては成長を見守ることもできませんのね

ここではないどこかへ想いを巡らせる。
一つ思い出せば、また一つ。

リーゼリカ

こんなにも未練がありますのね。自分でも驚きましたわ

アージェ

どうしたの?

リーゼリカ

ごめんなさい、アージェ。わたくし、戻りたいのですわ

アージェ

……どこへ?

リーゼリカ

わかりません。けれど、ここにはいられません。ここは夢のように素敵ですけれど、苦しくてもあそこへ帰りたいのです

アージェ

そっか

リーゼリカ

……それにしても悔しいですわね

アージェ

僕に囚われて?

リーゼリカ

違いますわ。見てください!

ビシッとリンゴの樹を指差した。

リーゼリカ

今なら触り放題ですわ。こうして触れられるのに斧の一振りも所持していないなんて、不覚にもほどがあります。せめてマッチでも常備していればと後悔していますの

アージェ

あきらめてなかったんだ、この子……。そこまで思い出しているのなら大丈夫そうだね。君は誰だい?

背筋を伸ばし顎を引く。
ドレスの裾をつまみ優雅にお辞儀する。
そして仕上げに、とびきりの笑顔で答えた。

リーゼリカ

わたくしはベルティーユ王国第二王女、リーゼリカ・ヴィランですわ

思い出してみれば簡単なことでも、ずっと靄がかったように思考がまとまらずにいた。
この中で己を見失わずにいたアージェの凄さを実感させられる。

アージェ

それでこそリゼだ

満足そうに笑っているけれど、その言葉だけで彼の本気が伝わる。目覚めてから彼は一度もリーゼリカの名を呼ばなかった。

リーゼリカ

名前はとても大切だとアージェは言いましたけれど、その通りですわ。ここにいればどうでもよくなってしまう……おそろしい楽園。本気でわたくしの決断に委ねていましたのね

本気で楽園での生活を望んでいたのか、リーゼリカに賭けていたのか、真意は読めないけれど。

アージェ

鏡の中へようこそ

リーゼリカ

わたくしエスメラの声を聞いたような……

アージェ

本当によく覚えているね。普通すぐに忘れてしまうらしいよ

リーゼリカ

忘れられませんわ! アージェ、外はどうなっていますの!?

アージェ

いいよ、見てごらん

広いホールのような造りだ。
ずっと見張られているようで苦手だったけれど、覗き見る立場に回る日がくるなんて想像もしなかった。
向こう側にいるのは見間違えるはずもない。紛れもない自分自身の姿――

リーゼリカ

なぜ、わたくしが!?

アージェ

あれはエスメラだ。君の体は奪われたのさ

リーゼリカ

そんなこと! あの人は、もう……

アージェ

樹が、成長したよね

リーゼリカ

……力を、取り戻していましたの?

アージェ

確かなことは言えないけど、エスメラの意識の欠片が鏡に残っていた。それが、あれだ

アージェが示すのは、外にいるリーゼリカの姿をした別人。

アージェ

僕は命令に従い君を鏡の世界に連れてきた。……逆らえなかった。君を、裏切ったんだ

リーゼリカ

そうでしたの……。わたくし、あの人に勝てませんでしたのね

アージェ

リゼ……

リーゼリカ

あなたが責任を感じる必要はありませんわ。それでもアージェを信じると決めたのはわたくしです

憎しみはなかった。ただ自分が至らなかったのだと思い知らされただけだ。一度裏切ったことのあるアージェを信じると決めたのは自分で、誰を非難するつもりもない。

アージェ

本当に君って子は……

リーゼリカの体を乗っ取ったエスメラは玉座にしなだれかかる。
呼びつけたのか、そこには兄姉が揃っていた。

リードネス

これは何の真似だ?

リーゼリカ

何、ねえ……

マリエッタ

不敬罪、ですわね。そこは陛下の場所ですわよ

リーゼリカ

ねーえ。あたしこの国が欲しいんだけど、ここを譲る気はないかしら?

わざとらしい手つきで椅子を撫で上げる。

マリエッタ

あなた、どうしちゃったの?

リードネス

お前、本当にリーゼリカか?

リーゼリカ

さあ? どうかしら

マリエッタ

あの子は、そんな風に品のない笑い方をする子ではないわ

ルシエラ

同意です

リーゼリカ

あんたたち可愛くないわねえ。あたし仮にもあんたたちの母親なのよ?

表情は窺えないがエスメラは笑っているのだろう。

リーゼリカ

ご無沙汰ね! あたしの可愛くない義理の子どもたち――ってところかしら?

リードネス

お前……。エスメラ、なのか?

リーゼリカ

あたしはリーゼリカ! あたしと陛下の娘ですもの、正当な王位継承権を持っているわよねえ? だったらあたしがこの国をいただいたって問題ないでしょう!

リードネス

大ありだ! これ以上国を混乱させてたまるか!

リーゼリカ

素直に従った方が身のためよ。あんたたちも鏡に閉じ込められたい?

マリエッタ

……エスメラ、なの? ねえ、リーゼリカは? あの子はどうしたの!

リーゼリカ

あたしがリーゼリカよ?

マリエッタ

ふざけないで!

リーゼリカ

ああ、もしかしたら見てるかもしれないわね

リーゼリカ

わたくしが――

振り返った自分の姿。
けれどリーゼリカの眼にはかつてのエスメラが映っていた。

エスメラ

見えたところでどうにもならないけど!

マリエッタ

リーゼリカ、ねえ、いるの?

リーゼリカ

マリエッタ殿下、わたくしを探してくれますのね……

けれど視線が交わることはない。

リーゼリカ

エスメラ!

リーゼリカは見えない壁を叩く。
どんなに手が痛くなったって構うものか。

アージェ

聞こえているだろう、エスメラ!

エスメラ

ああ、もうっ! あんたたち、うるっさいわねえ!

鋭いエスメラの視線が鏡を射貫く。エスメラにだけは声が届いているらしい。

エスメラ

あんた、わかってるの? せっかく自由にしてあげようってのに、そんな態度で許されるのかしら

アージェ

リゼは、僕を助けたいと言った

エスメラ

はあ?

アージェ

甘い子だって、思っていたけれど。ああ、僕も今同じことを考えているよ。他人なんて気にせず自分のことを考えれば良いのにさ。リゼのことばかりを愚かとは言えないね

懐かしむようにアージェは告げる。

エスメラ

……あんた、しばらく見ない間におかしくなった?

アージェ

ははっ、そうかもしれないね。だって彼女は言ったんだ。二人で自由になろうと。だから僕はリゼを裏切りたくない。もう二度と!

エスメラ

つまりあたしを裏切るのかしら?

アージェ

当然だね

エスメラ

その子にそこまで言わせる価値があるっていうの?

アージェ

彼女のためなら……

マリエッタ

リーゼリカ!?

リードネス

おい、リーゼリカ! 聞こえるか!?

ルシエラ

リーゼリカ!

リーゼリカ

名前、呼んでくれますのね……

こんなにも必死に。
もっと自分から歩み寄ればよかった。エスメラの娘だからと言い訳にして逃げてばかり。もっときちんと向き合えば何か変わっていたかもしれないのに。

リーゼリカ

逃げたくありませんわ。わたくし向こうには未練がありすぎます……

アージェ

僕の誘いを断るの?

責めるような言葉ではなかった。ただ現実を告げている。

リーゼリカ

楽園を捨て辛い世界に帰るなんて、愚かと思いますかしら

けれどもう苦しいだけではないと知ってしまった。名前を呼んでくれる人がいるなら、応えたい。

ふわりと、アージェの纏う空気が変わった。

アージェ

最高にかっこいいね。リゼなら断ると思った

リーゼリカ

なら、どうして……

アージェ

言ったろ? 君とここで永遠を生きるのも悪くないって。けど僕が好きになったリゼは選ばないんだ

リーゼリカ

買い被り過ぎですわ

アージェ

不本意だけど、僕はいろんなものを見てきた。そんな僕が言うんだよ? リーゼリカ・ヴィランて子は決して楽な道を選ばない。負けず嫌いで、努力家で……ずっと見てたんだからそれくらいわかる。リゼにはこんな狭い世界、似合わないよ

アージェが優しく笑うほど泣きたい気持ちになった。

リーゼリカ

あなたが見ているのなら途中で投げ出せませんわね

アージェ

君は立派な魔女だ。リゼなら出られる

アージェを外に出すことができた。
鏡を通して声を届けることができた。
リーゼリカが成長していた証だ。

優しい手に背中を押される。

マリエッタ

帰ってきて、リーゼリカ! わたくしたち、ちゃんとあなたと向き合わなければ――家族になりたいの!

リードネス

帰ってこい、リーゼリカ。お前は、見どころのあるやつだ

ルシエラ

同意です。……リーゼリカ

意識が引きずられる――

そばにいたはずのアージェの気配が遠ざかっていく。

リーゼリカ

わたくしはリーゼリカ・ヴィラン! 鏡の亡霊に負けたりしませんわ

pagetop