部屋に戻り髪をほどこうと手をかけ、止まる。
花が飾られたままだ。
外してしまえば今日の思い出が消えてしまいそうでもったいない気がした。けれどこのままでいても花は枯れてしまう。

慎重に抜き取り花瓶に挿した。
色鮮やかなバラが咲き誇る中で小さな白は浮いているけれど、見ていれば自然と頬が緩む。

いつも抱えている本の表紙をなぞる。きっと見るたびに心が温かくなるだろう。

エスメラはこの世のあらゆる物を欲しがった。彼女の部屋は高級なもので埋め尽くされている。

けれど本当に欲しい物は手に入ったのだろうか。

満たされていないからこそ国を呪ったのではないか。

そう、エスメラなら笑い飛ばすだろう……

馬鹿ね。そんな花、なんにもならないのに

手が止まる。
どこから聞こえたのかと周囲を見回すけれど誰もいなかった。

樹は成長を止めない。

あんな光のない場所ですくすくと育つ。
悠々と青い葉をつけ枝を広げて、白いリンゴの花が咲き始めていた。やがて実が生るだろう。
その逞しさや、リンゴ農園を手伝っている身としては秘訣を教わりたいくらいだ。

焦ったところで無駄なことは身に染みているけれど、未だに決定的な変化は訪れていない。

今日の天気はリーゼリカの心情を表しているように重苦しい。
すると――

はらりと白が舞い降り、掌に乗ったそれはじわじわ熱で溶けていく。

まだリンゴの収穫も終わっていないのに。
濡れない場所へと移動してから本のページをめくれば探していた項目はすぐに見つかった。

毎年積雪の記録をつけているが、年々早くなっている。

もう一度、空を見上げる。
青空を覆う雲は太陽まで覆い隠し、つられるように心まで重たくなった。

消えてしまわないようにとでもいうのか、しっかりと手を握られている。

しかるべき時はきちんと別れの挨拶をするともりでいる。

突然すぎる告白である。
当然、リーゼリカの思考も真っ白だ。

嬉しかった。こんな自分を認めて貰えたのだから。
けれど――

あの燃えるような感覚とは違ってた。
あの時――
アージェに告げられた時は何も考えられなかった。胸はうるさいばかりで体中が熱くて、彼のことしか考えられなかった。


……偽りだったけれど。

誰かを好きになることが苦しいと知った。
叶わない恋は苦しい、その痛みに翻弄されているからこそ申し訳なさがこみ上げる。

だとしたら本人に見破られ、利用されるのも当然か。周囲に鏡がないことを確認し、自分の手鏡もカバーをかけてあることを確認する。これで本音を話しても問題ない。

それは焦るだろう。唯一の理解者なのだから。

アージェがそんなことをしていたなんて意外だ。何でもないことのように花をくれたとばかり。

身に覚えがありすぎる。

すでに一度、ほかならぬアージェに騙されていた。

いくら訂正しようと反論は無駄に終わったけれど……

叶わぬ恋と知ってなお、他人を応援できるラルは凄いとリーゼリカは尊敬の眼差しを送った。

不思議な、夢を見ていた。

鏡を覗けば、そこに映るのは真っ赤な唇。その唇は見たことがないほど残酷に微笑んでいた。

瞬きする間に景色が変わる――
色というものが存在しない真っ暗な場所だ。

一人で立っていた。
景色さえ存在しないのに良く知っているような気がする。

呪いの芽と呼んでいたそれが目の前にある。今となっては芽どころか大木だ。

目の前で、はらりと白い花が散る。
花が散れば実を結び、小さな果実がみるみる成長していく。
赤いリンゴが実をつけた。
真っ赤なリンゴ、宝石のようにも血のようにも美しいそれから目が離せない。

食べなさい

生き物のように枝が動き、恭しく差し出されたリンゴは一際赤く輝いていた。磨き上げられたような表面は鏡のようだ。

引き寄せられるように唇を寄せ齧りつく。
芳醇なリンゴの香りが広がった。

ごろりと鈍い音を立ててリンゴが転がった。

意識が遠ざかる。
倒れ行く体を抱きしめたのは誰だったのか。

耳になじむこの声をリーゼリカはよく知っていた。