先日の一件を経て、本音でぶつかり合ったからこそアージェとの距離は近くなったように感じている。

アージェ

リゼ、今日は同行を許可してくれるかい?

リーゼリカ

へ!?

過剰反応するもの許してほしい。
正直なところ訓練と称して練習はした。つまりそういうことで……察してほしい。つい唇を押さえてしまった。

練習も繰り返すうち、奇跡の時間を長く維持することに成功している。
ところがアージェから外の世界を求められたのは初めてだ。遠慮されているのか、負い目があるのかもしれないと、心配してリーゼリカ自ら提案したこともある。

リーゼリカ

アージェが望んでくれた。彼のためにできる数少ないことですわ!

もちろん断るという選択肢は存在しない。しかし、つまりもなにも、キスをするということになるわけで。

リーゼリカ

自分から言い出したわけですし、羞恥に屈するわけにはいきませんけれど……

必死になって赤面する自分に羞恥が募る。そして悲しいことに全部鏡に映ってしまうのだ。

いつも通りの街だ。
リーゼリカが一人ではないことを除けば……

ラル

お、おい、リゼ! そ、そいつ誰だよ!? あのカッコよくて街の女どもの視線を独り占めしてる奴は!

視線を追えばアージェがいるではないか。リーゼリカが男性を連れ立って歩いているという噂は街中に広まっているらしい。

リーゼリカ

彼は、ええと……

もちろん要領の良いアージェだ。あらかじめ役柄を取り決めてはいたけれど、実際口に出すとなれば良心が痛む。そうして躊躇っているうちに本人がやってきては、いよいよ言い辛くなってしまった。

アージェ

僕は彼女の護衛で、アージェだ。よろしくね

まるで本物のよう振る舞うアージェに感心してしまう。
その度に浮かれてはいけないと戒めた。どんなにそれらしく振る舞ってくれても彼にとってリーゼリカ・ヴィランという人間は憎い女の娘でしかないのだから。

別行動がしたいと申し出たのはアージェだった。
不審に感じることもなくリーゼリカは二つ返事で了承する。むしろそうしてほしいと願っていたくらいだ。

リーゼリカ

せっかく外に出られたのに、わたくしのそばにいては疲れてしまうもの。アージェには自由でいてほしいわ。……時間までは見回りをしていましょう

観光地として発展すればするほど、他国からの人間が行き来する。どこかで問題が起きていないか、リーゼリカは目を光らせていた。

たとえば少し奥まった道に入ってしまえば極端に人が少なくなる。
そういった場所を重点的に回っていれば――
ほらみたことか。

あの、私急いでます!

そう言うなって。ちょっと付き合ってくれよ

リーゼリカ

なんて典型的な絡み方

見たところ絡んでいる相手は一人。
いつもならここでアージェに相談していただろう。けれどせっかく彼が自由を得ているのに邪魔をして良いのか……。
躊躇ううちに女性の方は泣きだしそうになっている。

リーゼリカ

お取込み中、申し訳ありませんけれど

あっ!?

壁際に追い詰められ泣きそうになっていた少女は助けを差し伸べられたことで目に見えて安堵していた。

リーゼリカ

何か問題でもございましたかしら? お話でしたらわたくしが伺いますけれど

いや? ちょっと遊びに誘ってただけだぜ

リーゼリカ

そうでしたのね。けれどそちらの方、困ってらっしゃいますわ。解放してあげてくださいませんこと

視線は完全にリーゼリカへと移っている。今のうちに退散してしまえとリーゼリカは合図を送った。

でも、あの……

リーゼリカ

この方にご用事があるのでしたら留まることを咎めませんけれど、そうでなければお行きになってください

見かけない顔だった。ということは観光客の可能性が高いわけで、ベルティーユの印象が嫌なまま終わってほしくない。

あ、あなたは?

リーゼリカ

わたくしは大丈夫ですから、ね

注意がリーゼリカに向いているうちに少女は逃げ出した。

おい、何勝手に話しつけてんだよ!

リーゼリカ

本日もベルティーユは治安良好としたためるつもりでしたのに、残念です

ため息を吐くリーゼリカの腕には分厚い表紙の本が抱えられている。

リーゼリカ

ここは要注意と伝えておくべきかしら

いまではリーゼリカの発言力は大きな力を得ていた。

ったく、お嬢ちゃんは気楽でいいねえ

リーゼリカ

気楽?

あっさりと禁句を発してくれた。

リーゼリカ

まあ……。気楽、わたくしが気楽だとおっしゃるの?

まあ、さっきの女よりお嬢ちゃんの方が美人だな。ちょーっとツラ貸してくれねえか?

リーゼリカ

下劣な誘いに乗る暇はありませんわ

おいおい、美人だからって高くとまると痛い目見るぜ!

リーゼリカ

あなたこそ身の程をわきまえてはいかが?

こういう時は頭に血が上ったほうの負けなのでリーゼリカは淡々と語る。

このっ!

いってえええー!

振り上げられた拳を受け止めたのは本だ。
リーゼリカは本を盾に防ぎ、ひるんだすきに足を踏みつけ、さらには本の角を振り下ろす。

とはいえ自分の実力はわきまえているので、彼が呻いているうちに速やかに逃亡するつもりだ。

おいあんた、やってくれたな!

仲間がいたのか退路を塞がれている。

リーゼリカ

まだいましたの……

なんて単純な失態だろう。呆れられても文句は言えない。

これ以上はさすがに分が悪い。申し訳ないと思いつつもアージェに助けを求めるべきだろう。

リーゼリカ

彼は来てくれるかしら

いつもなら騒ぎを見つけた時点でアージェと相談していただろう。けれど彼に聞くより行動することを選んでいた。
無意識のうちに、不安に思っていたのかもしれない。

以前のように助けてくれるのか――

アージェ

リゼ、無事!?

迷っているうちに本物のアージェがならず者の手を捻りあげていた。

リーゼリカ

わたくしに都合の良い幻かしら……

い、いだだだだっ!

リーゼリカ

あ、アージェ!?

このっ! お前ら、やっちまえ!

彼らは総攻撃という手段に出る。
けれどアージェの方が上手だ。
必要最低限の動きで避けたかと思えば相手の威力を利用して撃退してしまう。今もまた、軽く足を引っ掛けるだけで転倒させていた。

リーゼリカ

助けて、くれた?

アージェ

当然だろ! ごめん、僕が目を放したからこんなことに!

ラル

おーい、お前ら大丈夫かーって、すごいな、お前!

アージェは鏡から異変に気付いてくれたのだろう。

彼の後方から走ってくるラルは兵士を連れている。また一歩、ベルティーユの治安維持に貢献できたかもしれない。

事情聴取から解放されたリーゼリカは王宮への帰路につく。もちろん馬鹿正直に正門から入ったりはしないので、回り道に時間がかかる。

その時間がこんなに重くなる日が来るなんて、初めてだ……

リーゼリカ

怒らせてしまったかしら。せっかく外に出られたのに、わたくしのせいで時間を無駄にさせてしまったし……

アージェ

リゼ、少しだけ時間をくれないか

まるで心を読まれたようで肩が震えたのは秘密だ。

その広場には噴水があるのでお気に入りだった。
噴水のふちに腰かければ水面には憂い気な表情が写る。

リーゼリカ

情けない顔ですわ

今度は大人しく待っていてと言われてしまったので、本当に大人しく座っていた。これ以上アージェに迷惑をかけたくはない。

リーゼリカ

待っていて、とは言われたけれど。何かやり残したことでもあったのかしら? けれどアージェはあまり詮索が好きではないと思うし……

もう何度目かのため息が零れた。

リーゼリカ

わたくしが途中で呼びつけてしまったから、やりたいことができなかったのね

アージェ

――ゼ、リゼ!

リーゼリカ

はいっ!

アージェ

随分熱中していたね。声をかけるのを躊躇うほど真剣な顔だったけど、悩み事かい?

考え事に熱中しているうちにアージェは戻ってきていたらしい。

リーゼリカ

わたくしどれほど熱中していたのかしら

アージェ

頼りないかもしれないけど、相談してほしいな

リーゼリカ

あなたを頼りないと思ったことは一度もありません。ただ、わたくしのことで予定を狂わせてしまい申し訳ないと。今日は迷惑をかけてしまいましたわね

アージェ

ああ……

納得がいったのかアージェは隣に座る。

アージェ

僕は迷惑なんて思ってないよ。今日外に出たかったのも君のためだから

予想外の切り返しに張りつめていた緊張の糸が緩む。

アージェ

結果的に来てよかったと思ってる。君を助けられたからね

リーゼリカ

来てくれて、ありがとう

アージェ

どういたしまして。でも、ああいう時はもっと早く読んでほしいな

リーゼリカ

ごめんなさい。あなたが気付いてくれて助かりましたわ

アージェ

君の声が聞こえたんだ。君に呼ばれたような気がして、焦ったよ

リーゼリカ

鏡を通して繋がっているのかしら……

アージェ

あまり一人で危険なことはしないでほしいな。君は勇ましいけど……大切な人なんだから

その言葉に思い知らされる。アージェにとってリーゼリカは唯一外界との繋がりだ。

リーゼリカ

無神経でしたわね……。わたくしに何かあればアージェの迷惑ですもの

アージェ

違うよ

怒鳴るような叫びにリーゼリカの肩が震える。

アージェ

ごめん、そうじゃないよ。僕はただリゼが心配で――

リーゼリカ

……ですから、ちゃんとわかっています

本当にわかっているのだ。もうアージェに心配をかけるようなことはしたくないと心の底から後悔している。

アージェ

いや、その顔は絶対わかってない! ああもうっ!

アージェは焦れたようにリーゼリカの腕を引っ張った。

リーゼリカ

あの、アージェ?

アージェ

こないだは、ごめん。僕、ちゃんと謝ってなかっただろ

リーゼリカ

あなたが謝るようなこと、ありませんわ

アージェ

あのねえ……

アージェ

こんなことされて何も感じないのかな?

アージェの顔が近づく。
唇に吐息が触れて体の熱が上がった。

リーゼリカ

わ、わたくし、気にしていません! あなたの行動も感情もしかるべきものです……

アージェ

君はエスメラじゃないだろ! あんなの八つ当たりだ。君を傷つけていい理由にはならない。だから本当に、ごめんね

謝られたいわけじゃない。
アージェの怒りはもっともだと思う。自分はにくい相手の娘なのだから。

それなのに毎日顔を合わせて優しい言葉を吐いて、辛かったのはアージェだ。
何も知らなかったとはいえ、むしろ謝るべきは自分なのにアージェはそれを許してくれない。

アージェ

でも僕は何も持っていないから。これくらいしかできないけれど

水面に映るリーゼリカの髪には小さな白い花が飾られている。

リーゼリカ

とても、綺麗

もっと気の利いた表現ができれば良かったのに。これだけ告げるもやっとだ。

リーゼリカ

これは、あなたが?

アージェ

そんなにじっくり見ないでほしいな。ただの花だし、それも一輪だよ。もっと時間があれば花束を送れたんだけど

悔しそうにアージェが呟いている。

リーゼリカ

時間があれば、というのは?

アージェ

君と別行動してから急いで資金を稼いだ。もちろん、ちゃんと仕事してね

リーゼリカ

それをわたくしが途中で邪魔してしまったのですね

アージェ

あのさ! いくら花があっても君が無事じゃないと意味ないからね。花より大切なのは君!

リーゼリカ

あ、ええと、その……

アージェ

だから笑ってくれると嬉しいんだけど

リーゼリカ

……はい。嬉しいです。とても

高価な宝石もドレスも望んだことはない。けれど求めてやまない『心のこもった物』は誰からも送られたことがなかった。

アージェ

いつか自由になれたら、もっと素敵なものを贈るよ

リーゼリカ

わたくしとても満たされていますわ。たとえ石ころをもらったとしても大喜びしたと思います

アージェ

僕が納得できないの!

ムッとしたように口を尖らせる姿が面白くてリーゼリカは笑った。子どもっぽい仕草は滅多に見られるものではない。

リーゼリカ

そうまで言うのなら楽しみにしていますけれど、もちろんこれも大切にさせてくださいな

慈しむようにリーゼリカは花に触れていた。それは小さな宝物。

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