重い空気を消し去ろうと窓を開ければ冷えた空気が頬を霞める。

リーゼリカ

寒い……

息を吐けば白く色付いた。

アージェ

うん。寒いね

リーゼリカ

あなたも、寒さを感じるの?

時間の流れも感じさせない場所だと話していた。唯一の彩りが呪いの芽なんて皮肉だとも語っていた。だから気温の変化があるわけもないと思いこんでいたのだが。

アージェ

ああ、そうじゃなくて……。気持ちの問題かな

リーゼリカ

アージェ、どこか苦しいの?

アージェ

平気だよ

安心させるような表情なのに、不安はちっとも消えない。

アージェ

ここは寒いから。ちょっと、温もりが恋しくてね。君の笑顔が太陽みたいだからかな。ごめん、ちょっと感傷的になってた

リーゼリカ

わたくしが太陽? 変わったことを言うのね。自分の評価は理解できているわ。無理して褒める必要はないのよ

しっかりと否定しておくけれど、リーゼリカの頬は染まっていた。嬉しくないとは言えなかった。

アージェ

君は素敵な女の子

自然とリーゼリカの手は鏡に伸びていた。所詮アージェは鏡の中に、そうしたところで触れ合えるわけがない。けれど手を伸ばさずにはいられなかった。

リーゼリカ

これで、少しは感じられる? あなたに、触れられたら良かったのに……

アージェ

ねえ、もっと触れてほしいな

珍しいアージェからのお願いに心が揺れる。
もっと? これ以上?
どうしたって届かないのに、アージェが望んでいるなら叶えたいとさえ思う。

アージェ

リゼ。君が好きだよ

突然の言葉に頭がついていかなかった。まっすぐに見つめられては動けない。視線を逸らせば簡単に終われるのに、瞬きさえも忘れていた。

アージェ

鏡の精からこんなこと言われても困るかな。ごめんね、忘れて

リーゼリカ

そんなこと! わたくしとても……嬉しい、ですわ

頬が赤く染まっていくのを感じるほどに動揺している。たった一人の友達が、友情以上の好意を抱いてくれた。好意を寄せられて嬉しくないわけがない。

リーゼリカ

わたくしも同じ気持ちでしたもの……

もうとっくに惹かれていた。鏡相手に何をと笑われても良い。そんなことリーゼリカには関係なかった。

アージェ

ねえ、哀れな鏡の精からのお願いだ。口付けを、くれないかい

リーゼリカ

なっ!

驚くような申し出に躊躇う。
けれどいつも助けられてばかりの自分にできることなら叶えたい。たった一人、リーゼリカの名を呼び寄り添ってくれた人の願いを――

思えば……

良いように誘導されていたのだろう。
人から愛されたことのない小娘を惑わすなんて、さぞ簡単。少し甘い言葉を囁けば良いのだから。

鏡に触れる。
そこは冷たいのに頬だけが異様に熱かった。
胸の鼓動が煩くて、たまらず目を閉じる。そうしてしまえばアージェが本当にそこにいるような気がした。

冷たい口づけだった。
当たり前だ。堅くひんやりとした感触が唇に伝う。

唇を離すまでの時間がとても長く感じた。

ははっ、なんて単純な子だろう!

リーゼリカ

え?

あざ笑うように冷たい囁きだった。
驚きに目を開けると視界が揺れる。

手に触れる感触が変わった。指の間に食い込むのは、固い男の手。

アージェ

エスメラ相手ならこうはいかないよ。君って子はどこまでもエスメラとは違うね

リーゼリカ

アージェ?

強く捕まれている。

リーゼリカ

捕まれる? そんな、彼は鏡の中に!

では誰が――
混乱したリーゼリカを置き去りに事態は進行する。
強い力で押され床に体を打ち付けた。

明かりを遮るようにリーゼリカを押さえつけているのは、見間違うはずもないアージェだった。

リーゼリカ

あなた、鏡から出て!?

アージェ

甘くて愚鈍なお姫様が口付けをくれたからね。ありがとう

とびきりの笑顔でアージェが告げる。
アージェの言葉だ、もちろん全て。甘くて優しい彼の声、なのにいつもと違うのはなぜ?

リーゼリカ

出ら、れるの……

アージェ

言ったろ? お姫様のキスは甘いね

残酷な舌なめずりをして嗤うのは誰?

リーゼリカ

どうして今まで……

アージェ

黙ってたのかって? 憎い相手に話す義務があるのかい?

リーゼリカ

ずっと、わたくしが憎かった……?

唇が震えた。何度も顔を合わせてきたのにまるで別人のようで、体は冷えていくばかりだ。

アージェ

ああ、憎いエスメラ。なのにエスメラはもういない!? 残ったのは憎い相手の娘だけ、なんて残酷な結末だろうね。悔しいよ……。だから――

リーゼリカ

――んっ!?

乱暴に口付けられる。
初めて見上げるアージェは別人のようだった。
鏡越しとは違う、確かな感触があるのに冷たいだけだ。お前など嫌いだと言われているようでリーゼリカの心を乱す。

リーゼリカ

きっと、これが本当のアージェ……

アージェ

ははっ! 君、僕を信じてくれただろう。信じていた相手に裏切られるって、どんな気分かな?

リーゼリカ

わたくしあなたに騙されたのですね

心が握りつぶされたようだった。
痛かった。苦しかった。
それなのに……

アージェ

甘い言葉を並べただけで、君は簡単に絆された

突き放すような苛烈な怒りだ。
けれど彼の瞳に映る虚しさばかり……

リーゼリカ

アージェの方が苦しそう……

アージェ

悔しいな。あの女は死んだのに、僕はまだ囚われている

リーゼリカ

囚われる?

アージェに裏切られてリーゼリカは傷ついた。けれどそれ以上にアージェはが悲しそうに映るのだ。

リーゼリカ

泣いているみたい……

リーゼリカ

かわいそう、ですわ

アージェ

同情かい?

リーゼリカ

あなた、わたくしと同じですもの

アージェ

……そう、だね。悪女の娘、か

今なおエスメラに囚われている。なんておそろしい人だろう。

リーゼリカ

ごめんなさい、アージェ

アージェ

君が、何を謝るって?

リーゼリカ

わたくしいつも自分のことばかりでした。あなたは優しいから甘えてばかりいたわ。ずっとあなたを追いつめていたのね。憎かったでしょう、わたくしに笑いかけるなんて! 辛かったのでしょう?

アージェ

へえ……

リーゼリカ

こうなってみて、あなたの笑顔が偽物だと良くわかりましたわ

アージェ

僕の笑顔は不評かい? 完璧に笑えていただろう?

リーゼリカ

そうですわね。哀れな王女は簡単に騙されましたもの

アージェ

だよね。よく耐えたほうだと思うけどな

リーゼリカ

けれど本当の感情に触れてしまえば良くわかります。あなたの笑顔はいつも優しかったけれど、こうしている方が心を伴っているわ

アージェ

知った風なことを言うね

リーゼリカ

もう三年も、ずっとあなたを見ていましたもの

アージェ

三年か……。こんなにも、僕は君と過ごしていたのか……

リーゼリカ

三年で、こんなわたくしにも街で友達ができましたわ

アージェ

知ってるよ。毎日、飽きもせず話しかけてくるからね

そのすべてがアージェにとっては煩わしかったのだ。疎まれて憎まれて、結局リーゼリカはここでもエスメラの娘にすぎなかった。
けれどここで終わりにしてはいけない。愚かな女だったといくら後悔したって遅い。
アージェの本心を知ってどうするのか、どうしたいのか。

リーゼリカ

おかげで知ることができました。あなた、友達が困っていれば助けるのに理由はいらないと話していましたけれど、その通りでしたわ

アージェ

さっきから何を言ってるのかな? まるでまだ友達でいたいって聞こえるけど

リーゼリカ

まるでではなく、そう言っています。わたくしが騙されたのは、あなたが自分にとって都合の良い相手だから。けれど友達はそういうものではありませんもの。あなたが何を怒り過去に何があったのか知りたいのです。互いに助け合うのが友達ですわ

アージェ

僕、君を傷つけるつもりだけど? ずっと、この機会を待っていたんだから

リーゼリカ

……わたくしまだ何もされていませんわよ! キ、キスはされたけれど、それだけですもの!

アージェ

それだけ、ねえ……。随分と男慣れしてるんだ

リーゼリカ

全部見ていたのに酷い言い草ですわね

友達さえいないことはお見通しのくせに。

アージェ

僕を赦す? まだ友達でいたいなんて、甘い子だ。本当……

リーゼリカ

エスメラとは違うかしら

続くはずの台詞を奪う。
アージェが諦めたように肯定すれば嬉しいと微笑んだ。

リーゼリカ

最高の褒め言葉ですわ

互いに譲らない沈黙があった。
やがて拘束されていた力が緩み、アージェは手を差し伸べてくれる。

アージェ

僕は鏡の精なんかじゃない。ただの人間だった、おそらくね

リーゼリカ

おそらく?

アージェ

鏡から出たければ命令を聞けと、それ以前の記憶はない。自分が何者かさえわからない。唯一覚えていたのは名前くらいで、忘れないように必死だった。忘れてしまえば二度と戻れないような気がしてね。だから最近は、君が呼んでくれて嬉しいよ

リーゼリカ

わたくしが頑張れば、あなたも助けられるのかしら

アージェ

そうだといいね。願望にすぎないけど

リーゼリカ

悲観するものではありませんわ。あなたが外に出られたのは、わたくしの力ではないかしら?

アージェ

それは……

リーゼリカ

アージェが外に出られたらと強く望みましたの。こんなこと初めてですし、少しは成長しているのではないかしら?

アージェ

復讐のことばかり考えていて、盲点だったよ……

リーゼリカ

二人で自由になりましょう

アージェ

ああ、本当に。君は――

まるで鏡が砕け散るような音を立て、アージェの姿は消えた。いわく、奇跡の時間切れらしい。

アージェ

エスメラとは違うね

リーゼリカ

また外に出たければ協力しますわ

アージェ

ええと……。わかってる? それ、鏡越しとはいえ僕とキスするってことだからね。できるの?

リーゼリカ

キ、キスくらい、友達のためなら!

アージェ

それは有り難いけど……。僕は友達の将来が心配だよ

リーゼリカ

わたくし誰にでもキスするような優しさは持ち合わせていませんわ。相手がアージェだから、そうしたいと思うのよ

アージェ

どうして僕だといいんだい?

リーゼリカ

あ……あなたがアージェだから、ですわ!

わざと明るく取り繕って誤魔化すことしかできなかった。

リーゼリカ

わたくしが気持ちを伝える資格はない

相談に乗ってくれて、助けてくれて。たわいない話を聞いて相槌を打ってくれる。笑いあって、今日の出来事を話す。
そんな当たり前のことがリーゼリカにとっては初めての体験で、自然とアージェに惹かれていくのも仕方のないことだった。

優しくて、都合がいいから――

自覚して己の浅はかさを恥じた。

リーゼリカ

利用しようと企んでいたのですから優しいのも当然ですわね

表面上の彼しか知らなかった。
彼の事情を知り、むき出しの感情に触れて初めてアージェという人を知れた気がする。これからもっと知っていけたらと思う。

リーゼリカ

いつか互いの立場も関係ないところで同じ言葉を聞けたら……

リーゼリカ

……根拠も何もありませんけれど。わたくしエスメラ人の娘ですもの、いずれ同じことができるはずですわ! ですから諦めないでくださいね

リーゼリカがどれ程エスメラと比較されるのを嫌うかアージェは知っている。だからこそ目を見張った。

アージェ

君……

リーゼリカ

わたくしたちの関係はエスメラで成り立っている。あなたと出会えたことがエスメラのおかげだとしたら、わたくしはようやく受け入れられる気がするわ

アージェにとってはただの災難でしかないというのに、それを嬉しく思うなんて最低だ。

なのに募る感情を抑えきれない。
歪でもいい。
裏切られてもいい。
本当のアージェに触れられたことが嬉しかった。

リーゼリカ

どうしたって、わたくしはアージェが好き

好きだと告げたら彼はどんな反応をするだろう。
けれどリーゼリカが告げることはない。

この気持ちは胸に秘めておこう。
いつか鏡なんて関係ない場所でアージェと会えたなら、伝えたい。
エスメラも、その娘という身分も関係ない場所で会えたなら……

アージェ

今更何をと思うだろうけど、最初に言ったこと……君に会えて良かったのは本当だよ、リゼ

リーゼリカ

本当の感情に触れたからこそ、嘘と真の違いがわかると言いましたわね。ですからその言葉だけで十分ですわ!

また背負うものが増えた。
国と、自分の未来と、アージェの未来――
けれど重荷と呼ぶほど圧し掛かりはしない。より強くなれた気がするから。

リーゼリカ

わたくし幸せ者ですわね

安っぽい幸せね

喜びは否定され踏みにじられた。
彼の言葉ではない。
けれどそこにいるのは彼だけだった。

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