王女リーゼリカの朝は早い。
まずは人の手を借りず身支度を整え、鏡に被せていた布を取り払い友達に朝の挨拶をするのだ。
王女リーゼリカの朝は早い。
まずは人の手を借りず身支度を整え、鏡に被せていた布を取り払い友達に朝の挨拶をするのだ。
おはよう。今日の予定は、街の視察と農園の経過チェックかな
あら、まずは日課の走り込みからよ。何事も体力が必要ですもの!
ははっ、頑張ってね
王宮では第二王女が離宮の周囲を走るという奇行がしばしば目撃されている。
呪いを解くためにリーゼリカが最初に始めたのは調べること。王宮中の書物を漁ったが、結果は現状が語っている。
王宮内でダメならば、今度は外へ目を向けた。
簡易なドレスに革靴をあわせ、アージェに誘導されながら人目をかわして街に降りた。
王女リーゼリカの顔はあまり知られてはいない。それどころか民は存在しているのかも疑問視している。これは式典に出席しようとしても拒否されるという理由だ。
さっそく自分の足で街を歩き、リーゼリカは己の体力のなさに嘆いた。即座に実践したのが走り込みである。やはり体力作りは必要だったとアージェも納得せざるを得なかった。
リーゼリカは本を抱え慣れた足取りで街を歩く。王女ではなくベルティーユに住む庶民の娘として。
リゼちゃん、今日も早いんだねえ!
おばさま、おはようございます
おーい、リゼ!
ラル、そんなに急いでどうかなさいました?
ちょっと助けてくれねーか!? うちの宿にセリテからの観光客が泊まってんだけど、言葉が通じなくてさ。お前、話せるか?
問題ありませんわ。お引き受けします
セリテはベルティーユよりもさらに南方に位置する国。ベルティーユで話せる者は限られているが、王家の義務として学んでいるリーゼリカにとっては難しいことではない。
助かった!
相変わらずリゼちゃんは大忙しだねえ
眩しそうに見つめられたリーゼリカは、忙しさの中にこそ生き甲斐があると答えた。
ラルに案内された宿で、リーゼリカは困った様子の宿泊客に話しかけた。
雪とリンゴの国ベルティーユへ、ようこそ! わたくしはベルティーユ王国観光大使のリゼと申します。本日はお日柄もよく、お会いできたこと光栄に存じます
まあ! 随分と流暢にお話しされるのね。この国では言葉が通じにくいから驚いた。もしかして噂の観光大使さん?
噂のかは存じませんけれど、ベルティーユにおいて観光大使を招集されたなら、もれなくわたくしが参上いたします
リーゼリカは胸元に抱えている本の表紙を広げた。そこに記されているのは彼女を観光大使に任命するという旨の文と、了承するという領主のサイン。さらには国王陛下の印も押されている。
自主的に奉仕活動を行っていたところ、いつの間にか名の知れた存在になり、やがて観光大使に命名されていた。
もっともリードネスはリゼという少女の顔までは知らないだろう。
よろしければ、わたくしがご案内いたしましょうか?
助かるけれど、でもお忙しいでしょう……
わたくしがご一緒することで少しでもベルティーユの良さを知ってもらえるのなら、むしろ同行させていただきたいのです
心からの申し出だった。
未だにベルティーユ=悪女の国という認識を抱いている人も多い。
本日のリーゼリカの予定は見回りという名の呪い調査がメインだ。
農園へ顔を出すのは夕方でも間に合うわ。ここで観光案内に時間を割いても問題はないはず
景色は変わって――
あちらに見えますのがベルティーユ最古の建造物、ベルティーユ王宮です。百年ほど前に造られたもので代々国の発展を見守ってきました。残念ながら王宮の中まではご案内できませんが、ここから見るだけでもその歴史を感じ取っていただければと思います
あのエスメラが暮らしたっていう?
やはりか、呆れるもリーゼリカの鉄壁の笑顔は崩れない。
稀代の悪女にしてベルティーユ王妃エスメラ・ヴィラン。亡くなった今となってはまるで御伽話ですからね
彼らが好みそうな話題を選ぶ。
御伽話のように消化しているからこそ、この国に来られるのよね。彼女が生きていたら、怖くて足を運ぼうなんて思わなかったわ。だいぶ荒れていたでしょう?
ええ、それはもう
傍若の限りを尽くしたエスメラの影響は街にも現れ、アージェという協力者を得たリーゼリカは無法人の一掃を試みた。
アージェに悪事を働いた人間の居場所を教えてもらい匿名で衛兵に通報する。それだけでも見違えるように治安は安定した。
治安を確保したリーゼリカは金貨百枚のため、初めての仕事に挑む。
初めての仕事は子どもでもできるようなリンゴ磨きで、リンゴの名産地ならではの仕事だ。
右も左もわからないリーゼリカを雇ってくれたのは気立ての良い夫婦だった。仕事を終えた今でも顔を合わせれば声をかけてくれる。
初めての給金を手に稼ぐということの大変さを知った。
徐々に経験を積み、今では花売りも定食屋の給仕だって経験済みである。
少しずつ稼いだお金は大切に保管し、隠し場所は秘密だ。
それがどうして観光大使に行きついているのかといえば……始まりは踊子の欠員を手伝ったことにあるかもしれない。
その日、一座の踊り子が怪我をして代理を探している場面に出くわした。
ただ給金が良いという理由から面接を受けた。
日々のトレーニングで培った体力、加えて教養としての踊りを学んでいれば難しいことではない。仮にも王族、人前に立つ度胸も備えていた。
結果、会場は沸いた。いっそ本業にしてはどうかと勧誘を受けるほどに。
一座の客には他国からの人間も多く、無数の言語を操るリーゼリカは重宝された。
自分の特技で人を助けられたことで自信に繋がり充実した経験ができた。今でも暇があれば踊りを披露している。
何度も舞台に立てば顔は覚えられ、言葉がわからず不安げな相手には率先して話しかけた。ベルティーユを案内もした。
もちろん呪いについても忘れてはいない。
異変はないか、気になることはないかと親身になって街の人に寄り添った。
お城にはエスメラの娘がいるのでしょう?
第二王女の、リーゼリカ様ですわね
他人のように自分の名を呼んで誤魔化す。もう何度も何度も……
お城に引きこもってばかり。今年で十八になられたと聞くけれど、ろくに公務にも顔を出されないなんて、困った王女様ね
そう、ですわね
いい身分に生まれておかれながら責務も果たされないなんて! マリエッタ王女を見習われるべきだわ
わたくしだって出席できるものならしていますのよ。先方が丁重に、かつ遠回しに拒否してくるのです!
――というのは心の中で。
本当に、その通りですわね
相槌を打てば観光客は満足する。こういった噂話は誰もかれもが好む物、その度に自分を産んでくれた人と自分の存在を客観的に見つめ直させられる。
滞在中何かお困りの際はリゼにお声掛け下さいませ。あなたのベルティーユ滞在が健やかでありますように
満足した観光客を港へと送り届け、本日の観光案内業務は終了だ。
御伽話……
当事者にとっては切迫した現実以外のなんでもない。笑顔が崩れリーゼリカは独り呟く。服の下に隠した鏡のペンダントに触れると少しだけ心が安らいだ。そこには唯一の見方がいてくれる。
立ち止まっている暇なんてありませんわね。早く農園へ行かなければ日が暮れてしまいう
山を登れば走り込みの成果が表れていた。
リゼちゃん、今日も来てくれたのね! いらっしゃい。街の方は、もういいの?
観光案内の方は終わりました
今日も大忙しだねえ。リゼちゃんが頑張っているのを見ると、あたしらも励まされるよ
品評会に向けて頑張りどころですものね! 今日の出荷分は、もう磨き終えていますか? まだでしたら手伝いますわ
ありがとね。思い出すねえ、リゼちゃんがうちに来た日のこと
それは、できれば忘れて下さると有り難いです。あの頃のわたくしは本当に至らないことばかりでしたから
そりゃ、リンゴの樹の倒し方を教えてくれって訪ねてきたときには驚いたけど!
ですから、それはっ!
敵を倒すには敵を知ることからという理念のもと、リーゼリカはリンゴ農園を訪ね。そこで件の樹がリンゴであることを再確認した。
鏡の中で育つ樹は成長しているが、ここに並ぶほどではない。ということはまだ成長に時間がかかるということも。
あんたが来てくれて、とっても助かってるんだ。観光名所にしたらどうだって、お客さんを連れてきてくれたのは、あんただよ。あたしらじゃ、農園の観光なんて思いつかなかった
大陸のリンゴはほぼベルティーユ産といえる。他国にしてみればリンゴ農園は珍しいものだろう。
そこでリーゼリカはリンゴの収穫体験を提案した。収穫の人出が増え、お金にもなるというわけだ。
役に立てたなら、何よりですわ。リンゴ、とびきり綺麗に磨きますわね!
この景色も守るべきものの一つ。
ベルティーユは亡びない。わたくしが守ってみせるもの
多忙を極めるリーゼリカはすでに金貨百枚を揃えている。
ならば、あとは呪いを解くだけだ。
それが難問ですけれど……
部屋に戻れば鏡の前に立つのがリーゼリカの日課である。
そこには変わらず友達の姿があった。
アージェは柔らかく微笑んで、いつものように出迎えてくれる。
リンゴの実り具合を確認してきたわ。順調よ
同じく呪いの芽も順調に育っているけれど。
それはよかった。君が品種改良の指揮をとっている樹はどうだい?
まだ小さいけれど実がなり始めたわ。これからが頑張りどころと話してきたの
緑のリンゴなんて面白い発想だよね
でしょう! リンゴは赤なんて常識、覆してみせるわ! ……とは言っても、樹の弱点を知るために研究していたら偶然発見したのだけれど
ホント君の発想力って、毎回ちょっと斜め上だよね
そうかしら?
魔女になるために本を読んだり走ったり、呪いの芽がリンゴの木だからって……敵を知るにはまずリンゴから! とか言ってリンゴ農園に働きに出るし
本のくだりはアージェが提案したのだが。
貶されているのかしら……。別に、慣れているからいいけれど
褒めているさ。成功したら、ベルティーユの新しい名物になるね
アージェにはまだ秘密だけれど、成功したらわたくしが品種名を付けていいと言われたの。そうしたら『アージェ』と、あなたの名前を付けるわ
その時、彼はどんな反応を見せるだろう。
努力が実を結び、ベルティーユの力になれることが嬉しい。たとえ街中でどんな風に噂されようとリーゼリカの決意は揺るがない。
さて!
品種名の件はまだ秘密なので話を逸らそうと思う。
魔女修行に移りましょうか
この三年、魔女になるための努力も怠っていない。
イメージして……。遠く、ずっと遠くを見通すように……
いざ! という心持で目を開くけれど、そこに映っていたのは見慣れた自分の顔だ。
はあ……。わたくし才能ありませんわね
強く念じた――はずだった。
それは遠くを覗く魔法なのだが、いつまでたっても映るのは自分の顔ばかり。今はアージェが見せてくれているだけ、自分では何もできていないのだ。
珍しく弱気だね。疲れたかい?
疲れは……しますわ。今日は特に忙しかったですもの。けれど諦めませんわよ。あとは呪いを解くだけ、そうすれば自由になれるのだから
……応援しているよ
アージェは、優しいのね
今頃気づいたのかい?
いいえ。ずっと前から知っています
アージェという存在も、彼の優しさも、自分だけが知っている。何度も彼の存在に救われてきた。アージェの前では自然と笑えて、ありのままのリーゼリカでいられた。
その理由もとっくに気付いている。けれど彼は鏡の中の人間だ。
この想いが苦しいなんて……