リーゼリカ

ねえ、アージェ。よく見てみると背後のそれは、もしかしてリンゴの樹ではない?

アージェ

そうなの?

リーゼリカ

ベルティーユはリンゴの名産地ですから目にする機会も多くありますわ。それが呪いの本体ということは確かですのね?

アージェ

間違いないよ

リーゼリカ

わたくし、そちら側に入れないかしら……

鏡に触れるが何も起こらない。相変わらず、ただの固いガラスだ。

リーゼリカ

無理難題とはこのことね

ふと思い出すのは昔読んだ本のこと。

リーゼリカ

遠い国の文献ですけれど、その国には毎夜人を食らう恐ろしい獣が出没するそうなのです。しかも獣は絵の中に住んでいると

アージェ

なるほど……。この状況と似ているね

リーゼリカ

その国では絵を縛るという機転で獣を撃退したのですけれど……

アージェ

つまり?

樹を縛っても意味はない。つまり――

リーゼリカ

斧で真っ二つにすればよろしいのではなくて?

アージェ

それ、鏡割れるだけだから

リーゼリカ

ここからが本題ですわ。わたくしなりに物語を解釈したのですけれど……

アージェ

却下

リーゼリカ

まだ何も言ってませんけれど

アージェ

結果が見えた

リーゼリカ

燃やしてみてはどうかと思いましたけれど、わたくしの作戦は不評ですのね

アージェ

君は悪女の娘だけに留まらず王宮放火の罪まで背負いたいのかい

リーゼリカ

遠慮しますわ。名案だと思いましたのに、残念です

アージェ

僕は組む相手を間違えたかもしれないと早速後悔しているよ

リーゼリカ

あら、わたくしを選んだこと後悔させませんわよ!

アージェ

君は……。僕の気のせいかな? 危機的状況にもかかわらず、楽しそうだね

リーゼリカ

不謹慎だと思われるかしら

アージェ

いや。どうせ僕しか見ていないんだ

リーゼリカ

でしたら本音で申し上げますけれど、少しだけ嬉しいのです

アージェ

国が亡びるって?

リーゼリカ

そこは違います! 自分に役目ができたことが、です。何より友達ができましたもの。初めてですから、嬉しいに決まっていますわ

アージェ

変な子

リーゼリカ

ところでわたくしこうしている間も色々と考えていたのですけれど、街へ行ってみたいですわ!

さらりと流して新たな要求を突きつければアージェは呆れていた。

アージェ

どこをどうしてそうなったの……

リーゼリカ

一から順に説明した方がよろしくて?

アージェ

僕にもわかりやすく頼むよ

リーゼリカ

ええと、閉じこもっていては何も解決しないと思いましたの。それから、わたくしベルティーユを救いますでしょう? 功績を対価に王女の権利を抹消できないかと考えましたの。国が亡んだ場合も王女ではいられませんし、どう転んでも将来王宮から出ていこうと思います。そのための社会勉強もしたいのですわ

アージェ

自ら王女を降りる、ね。エスメラは地位を欲したものだけど

リーゼリカ

わたくし、あの人とは違います。……恵まれているからの我儘かもしれませんけれど

アージェ

自覚はあるんだ。敏くて助かるけど、可愛げがないものだね

リーゼリカ

それはわたくしの仕事ではありませんわ。ねえ、アージェ! どのように外出すればよろしいかしら?

アージェ

はあ……。言質を取られたみたいで複雑だ

王宮には鏡が多い。それもいたるところにある。今思えばエスメラが他人を監視するために用意していたのかもしれない。その中から抜け道を教えろと要求しているのだ。

アージェ

まずはもっと地味な服に着替えて。それから名前、間違っても本名を名乗らないでよ

リーゼリカ

あなた、手馴れてますわね

アージェ

そう? 常識だよ

リーゼリカ

……以後、勉強させてもらいますわ。先生!

王女に悪知恵がもたらされた瞬間だ。
外でも会話ができるようにと小さな手鏡を持たされ、街での振る舞いを指導され、やはり手馴れていると何度も思わされた。
図らずもリーゼリカには家庭教師ではとても教えてくれない実技を習う先生ができた。
高揚するリーゼリカを落ち着かせるように開け放した窓から吹き込む風はやけに冷たい。

リーゼリカ

いつまで回想に浸っている場合ではありませんわね

リーゼリカは国王相手に啖呵を切った。
今日はその翌日で、部屋を訪れたのは姉のマリエッタである。

マリエッタ

ごきげんよう。多忙な陛下から言伝を預かっているわ。陛下もご自分で伝えたかったでしょうに、公務がお忙しいみたい

リーゼリカ

グレイシア王国との会談ですもの。どちらが優先かなど、語るまでもありませんわね

マリエッタは知っていたのかという驚きに顔をしかめている。

リーゼリカ

耳は良い方と自負しておりますもの、すべて存じ上げておりますわ。かの悪女が国王をたぶらかしたとか……

マリエッタ

最近では機密を奪ったとか、国宝を盗んだとか……彼女が亡くなったとたんにうるさいことね

エスメラ・ヴィランの脅威が去って半年。それだけに彼女の影響力は計り知れない。

マリエッタ

陛下も尽力されているけれど……

ベルティーユは山と海に囲まれた国だ。その山沿いに面しているのがグレイシア王国である。
山は雪深く氷に閉ざされているが、もし国境に険しい山がなければ停戦協定も長く続いてはいないかもしれない。
これもまた彼女が残した呪いと呼ぶべきか。

マリエッタ

ですから名代のわたくしで我慢してちょうだいな

リーゼリカ

わたくしなどにはもったいないことです

マリエッタ

結論から言うけれど、取引には応じるそうよ。ただしこちらからも条件が

無理難題の一つや二つ、覚悟していた。それをどう都合の良い展開に持っていくか、何通りも計算していた。

リーゼリカ

さあ、くるならきなさい!

マリエッタ

ベルティーユ金貨百枚を用意なさい。それをもってリーゼリカ・ヴィランの存在を消されるそうよ

リーゼリカ

……金貨、百枚?

マリエッタ

王女の身分を買うと思えばよろしいのではなくて?

今後の裁断をつけていたリーゼリカだが、すぐに笑顔を張り付け直した。

リーゼリカ

そう、ですわね。わたくしには似合い、ということですわね

マリエッタ

え?

リーゼリカ

母もお金で自分を売っていたと聞き及んでおりますもの

マリエッタ

……どこでそれを?

リーゼリカ

メイドたちが話していましたわ。エスメラはお金で自分を売っていた卑しい出自、とても王の妃にはふさわしくないそうですわね

噂話とは、意外と本人の耳に一番入っていたりするものだ。

マリエッタ

なんてこと! たしなめておくわ。神聖な王宮で品のない

リーゼリカ

王女殿下を煩わせるほどのことではありません

強がりではなく心から余計な気遣いは不要だと思っていた。よけい惨めになるだけだ。

マリエッタ

……そう

そっけなく言ってマリエッタは視線を逸らす。

マリエッタ

ねえ、知っている? 陛下は昨夜、あなたに自覚を持てと促すつもりだったのよ。けれどあなたに一本取られてしまったわね

リーゼリカ

大げさなことをしたつもりはございませんけれど

マリエッタ

あなたの評価はその程度だった、ということよ。でもね、わたくしはあなたに期待しているの

リーゼリカ

何を思われようと、わたくしは自分が成すべきことをするだけですわ

マリエッタ

あなたに用意できるか、楽しみにしているわ

リーゼリカ

まあ!

腹の探り合いのような、意味のない会話にうんざりする。にもかかわらずリーゼリカが会話を引き延ばしていることには理由がある。

何度も何度も、頭の中で計算する――

金貨百枚を用意する計算を立てているのだ。

リーゼリカ

そうまで期待されては断るわけにはいきませんわね。承諾いたします

何度も何度も、頭の中で計算して。導き出した答えがこれだ。
期限も金額の妥協も必要はない。

リーゼリカ

――というわけなのだけど、アージェはどう思うかしら

リーゼリカ

わたくしに救えると思えないから? 国が亡びるなんて信じられないから……こちらが有力ですわね。いずれにしても厄介な王女がいなくなる機会ですもの、金貨百枚で手を打つということかしら。それにしたって……安すぎますわ!

アージェ

同感だ

リーゼリカ

身分を買うつもりでとおっしゃるのなら、もっと法外な金額を突きつけてもおかしくないけれど……それはそれで困りますわね!

ベルティーユだけでなく大陸で使用されている通貨は銅貨、銀貨、金貨の三種類。

アージェ

金貨百枚、頑張れば稼ぐことは難しくないね

リーゼリカ

その通りですわ

どう考えても導き出される結論はそこだ。

リーゼリカ

真面目に働けば貯められて、それも一生なんてかからない。あの人たちからの評価が良くわかりましたわ!

けれどアージェは何か思うところがあるようにも見えた。

リーゼリカ

アージェ?

アージェ

ああ、ごめん。効率よく金貨百枚貯める方法を考えてた

リーゼリカ

さすが仕事が早いのですね。助かりますわ

アージェ

君に仕えているんだ。それが僕の役目だろう

リーゼリカ

アージェ……

語気を強めれば頭の良い彼はそれだけで理解してくれる。

アージェ

ごめんね、リゼ

これが魔法の言葉だと思われているのではないだろうか。けれどリーゼリカの凪いだ心は落ち着いたので間違っていないかもしれない。
彼に出会って、リーゼリカはただ受け入れるだけの人生を辞めた。国を救うなんて無謀なことを申し出たのも彼がいてくれるからだ。

リーゼリカ

忘れてしまわないで。わたくしとあなたは、友達よ

やるべきことはたくさんあるけれど、ただ王宮に閉じこもっていた頃よりも生きがいを感じていた。
十五歳で何を言っているのかと思われるかもしれないけれど。

一年。

また一年、時が過ぎていく――

孤独な王女はもういない。『リゼ』は民から好かれる人間へと成長していた。
多忙な少女は今日もベルティーユを駆け回っているだろう。はたして街(そこ)に悪女の娘がいると誰が信じられるのか。

リーゼリカが鏡の協力者、またの名を友達と出会ってから三年が経とうとしていた。

pagetop