翌日、リーゼリカは誰より早く目を覚ます。衝撃的な体験に眠りは浅かった。
ふと、着替えるため服に伸ばした手が止まる。

リーゼリカ

……まさか、ね?

そっと鏡に布をかけていた。
一人で身支度を整えるとすぐに教科書を開く。今日はテストの日だ。
……勉強したのは教えられた範囲より五ページ先まで。

授業を終えたリーゼリカは現実と向き合うため、鏡と向き合っていた。

リーゼリカ

鏡さん。まだ、そこにいるのかしら? ……昨日は、申し訳ありませんでした

アージェ

また会ったね

リーゼリカ

あなたの言ったこと、本当でした。彼、驚いていたわ。すごく悔しそうな顔をしていて……少しだけ、すっきりしたの

アージェ

気にしていないよ。すぐに受け入れられることじゃないと、わかっているからね

リーゼリカ

ありがとう……

どうして自分は鏡に感謝しているのかと思わなくもないけれど、助かったのは事実だ。

アージェ

納得してもらえたところで、そろそろ大事な話をしてもいいかな?

リーゼリカ

もちろんですわ!

アージェ

昨夜は僕も久方ぶりに人と話せて舞い上がっていたようだ。勿体ぶって悪かったね。ここからは単刀直入に言わせてもらうよ。この国――ああ、ベルティーユね。亡ぶよ

リーゼリカ

え?

さて、彼は何と言ったのか。

・・・・・・。

リーゼリカ

あの、ベルティーユが亡ぶとは!? わたくしを驚かせて、騙して何か企んでいらっしゃる? 何を期待しているのか存じませんけれど、王族とはいえほぼ厄介者同然。見返りなんて期待できませんけれど!?

アージェ

だろうね。その点エスメラは甘い汁を吸いたがる取り巻きが多くて――って、ごめんごめん。そんなに怒らないで、綺麗な顔が台無しだよ

どうしろというのだ。
いきなり鏡越しに見知らぬ青年に話しかけられて、実は母親がただの悪女ではなく魔女だと知らされて。挙句、国が亡びるなどと言われて……

どう反応すればいいのか教えてほしい!

リーゼリカ

信じられないことが連続過ぎて、ちょっと……。本当のわたくしはずっと目を回して倒れているの? まだ夢の続きだと有り難いですわ……

アージェ

残念、ここが現実だ。エスメラが死に、世界を呪ったここがね

リーゼリカ

はい!?

アージェ

見てごらん、呪いの種だ。生えてきた

リーゼリカ

生え、て、え?

呪いが生えるとは一体。
鏡の精霊は背後を見遣る。
視線を追うと、そこに小さな樹が生えていた。少し力を入れれば折れてしまいそうな細い枝に青い葉を茂らせている。

アージェ

抜こうとも試みたけど、あれは根深いね。踏みつけても無駄。国中、下手をすれば大陸中に広がっていくだろうな

リーゼリカ

あの、申し訳ありませんけれど、わたくし良く理解できていなくて……もしかしなくても、非常にまずいこと?

アージェ

まずいどころか、あれが育ち切ったとき国が亡ぶよ

リーゼリカは血の気が引いていた。信じられないことも、ここまでくると信じるしかない。

リーゼリカ

そ、そういう大事なことは早く言ってくださいます!?

アージェ

遅かれ早かれ結果は変わらない。呪いを解く方法、どうせ君は知らないだろう?

彼の言う通り、リーゼリカにできたのは信じられないという表情で見つめることだけだった。

酷い嵐だったと彼は語る。

船は激しく揺れ、おそらく転覆寸前だった。

鏡の前で、エスメラは怨みを吐く。

エスメラ

あたしが死ぬ? まさかっ! こんな運命、許さない

自分が退場する世界という舞台が憎いと、彼女は言った。

エスメラ

……呪ってやる

憎いもの?
そんなものは、この世のすべてだ。

エスメラ

あたしがいないんですもの。誰にも、幸せなんて許さない。そうよね? ベルティーユも、大陸も、全部……亡んでしまえばいいわ!

怨みはやがて呪いへと形を変た。
鏡に根を張り、力を蓄える。

彼は娘であるリーゼリカを頼って姿を現したのだろう。けれど娘は何も知らない役立たずだった。

リーゼリカ

確かに、わたくしは何もしりませんけれど……。国が亡びると聞いて黙っていられません!

アージェ

意気込みは買ってもいいけど、それで? 僕の声は君にしか届かないよ。さて、どうする? 呪いで国が亡びると騒いで反逆罪にでも問われてみるかい? そもそも呪いを残したのは、誰だっけ――

リーゼリカ

わたくしの、お母さま……

アージェ

娘の君なら、あの樹をなんとかできると思ったけど。こうして声が届いたのも偶然か、奇跡か……

リーゼリカ

偶然だろうと奇跡だろうと、些末なことです。こうして今、あなたの声はわたくしに届いているのですから

アージェ

呪いなんて突拍子もない話を信じられるのかい?

リーゼリカ

信じます

アージェ

どうして? 昨日まで――というか今も夢だと思っているだろう

リーゼリカ

そうですわね。けれど本当だとしたら……現実から逃げて、国が亡びた後に後悔するなんて嫌ですわ

アージェ

僕が嘘をついているとは思わない?

リーゼリカ

あなたが嘘をついて得をすることがありますの? 黙っていれば勝手に亡ぶのでしょう。それをわざわざ、わたくしに会いたかったと言いました。呪いを解いてほしいから、わたくしに話かけたのですね。期待に応えられず申し訳ありません。……本当にどうにもなりませんの?

アージェ

他の誰ができなくても娘の君ならもしかして、とは考えたけど……

おそらくこの鏡よりもリーゼリカが母と話した時間は短いだろう。朝の挨拶すら存在しないのに魔女でしたなんて話題に上ったこともない。

リーゼリカ

魔女がいるなんて初耳で、驚きましたわ。物語ばかりの存在だと思っていましたもの

嘘をついても仕方がないので正直に告白した。その物語すら、語ってくれたのは母ではない。

アージェ

不安だ……

むしろこちらの台詞だとリーゼリカは思うが、事実なので大人しくしていた。

アージェ

いっそ亡びゆく国を見捨てて逃げてみるかい

リーゼリカ

逃げられるの、ですか?

鏡は笑みだけで肯定している。

リーゼリカ

……あの、例えばですけれど。わたくしの未来は! 将来は、どうなると思いますかしら?

初対面の鏡相手に何を訊いているのか。けれどこの鏡なら、なんでも知っているような気がする。
彼は少し考えてから話し始めた。

アージェ

ある程度の年齢になるまでこの暮らしに変化はないだろうけど……。いずれ愛のない結婚を強要されて終わりじゃないかな。例えば金だけはある有力貴族に売られるとかね。みんな君を厄介払いしたいだろうし

まるで見てきたことのように語る。ある程度想像はしていのでリーゼリカは静かに受け入れた。

アージェ

あれ、泣かないの? 軽く泣かせたと思ったけど

リーゼリカ

泣いて何になります? 泣いたらその運命は回避できて? でしたら干からびるくらい泣いてみせますけれど!

国は亡ぶし、未来には破滅しかなさそうだし、自棄にもなる。

リーゼリカ

……それで?

アージェ

あ、うん、ごめん。回避できないね

さすがに悪いと思ったのか謝られた。

リーゼリカ

無意味なことはしませんわ。意味のあること、どうすればいいか考えないといけませんもの

国も自分の運命も、大人しく受け入れてやるつもりはなかった。

アージェ

案外逞しいんだね

リーゼリカ

そうでなければ生きていけませんでしょう

甘えられる相手もいない。リーゼリカの味方なんてこの王宮には――きっと世界のどこにも存在しないのだ。

アージェ

まあまあ、そうつんけんせずに。僕が力になってあげようか?

リーゼリカ

あなたが?

アージェ

仕える相手がいなくて退屈しているのさ。僕は役に立つよ。鏡さえあれば覗き見し放題だ

リーゼリカ

そんなことが、可能ですの?

アージェ

エスメラはね、鏡を通じて覗き見ては相手の弱みを握っていたのさ。その繰り返しで王妃まで成り上がった人間だ。説得力があるだろう?

各国に愛人がいて、その国の弱みを握っているというのもあながち間違いではなかった。

リーゼリカ

……おそろしい人

アージェ

同感だ。でも、もういない。だからこそ君の処遇をどうするかって、揉めている

望めばここから連れ去ってくれるのだろうか。望まれない王女、いつだって逃げ出したいと思っていたリーゼリカの前に望んだ未来がもたらされた瞬間だ。鏡の中に透明な道が見えたような気がした。

リーゼリカ

でも、逃げてどこへ行くの?

冷静と言えば聞こえはいいが、生活能力のない子どもが一人で生きていけるのだろうか。そして、このまま逃げては母に負けたままだ。

リーゼリカ

たとえ母が誰であろうと、わたくしはベルティーユ王家に名を連ねております。国が亡ぶと聞いて見過ごすことはできませんわね

アージェ

それで? 術者が死んでいるからね。それを上回る力を持つ魔女が必要だけど、エスメラには後継者もいない

リーゼリカ

わたくしでは、だめですの? なんとか、します。いいえ、して見せますわ! 修行も、特訓だってします。ベルティーユを救いたいのです!

アージェ

何のために?

リーゼリカ

祖国を救うことに理由が必要ですの? けれど、強いてあげるとすれば自分のためですわ。誰に認められなくても、誰が見ていなくても……あなたが見ていましたわね! お母さま、……いいえ、エスメラには負けません。エスメラを超える魔女になってみせますわ!

王妃でありながら国を呪った魔女。母ではなくエスメラと呼ぶことはリーゼリカのけじめだった。

アージェ

ははっ、綺麗ごとだけは一人前のお姫様だね

リーゼリカ

綺麗ごと? 上等ですわ。それに初めてできた目標ですもの。心強い味方がいるのですから頑張ってみたいと

アージェ

味方……。それはもしかしなくても、僕のことかな?

リーゼリカ

他に誰がいて

アージェ

味方、ね……。しもべの僕が味方か……

棘のある言い方だ。エスメラとの関係は良好ではなかったのだろうか。そもそも主を呼び捨てにしている。

リーゼリカ

わたくし、あなたの主ではありません

アージェ

違う? じゃあ、何だい?

リーゼリカ

あなた、わたくしのこと見ていたのでしょう?

アージェ

もちろん。君が友達にも恵まれず癇癪を起していたのも――

リーゼリカ

それはどうでもよろしいの!

アージェ

はあ……

リーゼリカ

ですから、お友達を希望しますわ

アージェ

なんだい、そのひどく曖昧な関係は

リーゼリカ

不満かしら

アージェ

命令されれば従うまでさ

リーゼリカ

……命令ではありません。あなたは曖昧と表現しましたけれど、わたくし友達は尊いものだと認識しております。対等に話せて、喧嘩だってできますの。あなたにも思ったことは正直に、なんでも話してほしい。世間知らずのわたくしにはそれくらいが丁度良いのです

アージェ

友達、ね……

リーゼリカ

あなた、お名前は?

アージェ

そんなもの知ってどうするんだい?

リーゼリカ

呼びますけれど

アージェ

君が?

リーゼリカ

他に誰がいますの

アージェ

いや、エスメラは呼ばなかったから……

リーゼリカ

……わたくしと同じですわね

少しだけ自分と重なったことがリーゼリカにより親近感を抱かせたのかもしれない。

アージェ

アージェだ

根負けするように教えてくれたことが少しだけ可笑しかった。

リーゼリカ

よろしくお願いしますわ。アージェ

アージェ

くすぐったいね

リーゼリカ

でしたら慣れてくださいな。あなたも、わたくしの名前はご存知で……

アージェ

リゼ

リーゼリカ

え?

アージェ

友達なら愛称で呼び合うものだろう。それともご主人様の方がお好みかい?

リーゼリカ

ま、待って! その名で、リゼと呼んでください。嬉しいですから!

愛称で呼ばれるなんて、本当に友達のようだ。

アージェ

まあ、僕は君の友達らしいし? 世間では友達を助けるのに理由なんていらないと言うからね

リーゼリカ

心強いですわね

初めての友達ができた。そうとなれば行動あるのみ。

リーゼリカ

ところで、亡びるというのは具体的にどういうことですの?

アージェ

言葉通りの意味さ。人が住める場所ではなくなるだろうね

リーゼリカ

魔女になるにはどうすればよろしいの?

アージェ

本でも読んでみたらどうだい

リーゼリカ

呪いを解くには、どうすればいいかしら……

アージェ

この樹をなんとかしないとね

解決策がないのはよーくわかった。

リーゼリカ

まずはトレーニングでもしてみようかしら? 走り込みに、素ぶり……

アージェ

それは違うと思うけど

リーゼリカ

あら! 具体的な解決策が浮かばないのであれば、物理的に強くなることも必要かもしれませんわよ

アージェ

そう? え、そうなの? 君って……王女様なのに逞しいね。いろんな意味で

小声で呟くアージェの発言は、残念ながら高揚するリーゼリカには届いていなかった。

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