里帰りを終え、ダッシュで研究室に直行したというのに……、また昼間っからソファーでごろごろと。
撫子はぴくりと片眉を上げ、室内を見回した。
お師匠様~!! ただいま戻りました~!!
……zzz。
里帰りを終え、ダッシュで研究室に直行したというのに……、また昼間っからソファーでごろごろと。
撫子はぴくりと片眉を上げ、室内を見回した。
たった一週間で……、また、カオスな空間と化してる!!
薬学術師の他に、魔王業、神龍業……。
撫子のせいで苦労させている自覚はある。
けれど、……この光景を見てしまうと。
お掃除です!!
お掃除!!
研究室の隅から掃除道具を取り出した撫子は、この惨状に我慢ならないながらも、フェインリーヴを起こさないよにという器用な気遣いまでこなしながら掃除をやってのけた。
最早弟子というよりも、その顔と技は主婦のそれだ。
ふぅ……。
バッチリ!!
掃除道具を片付け、すっかり綺麗になった室内の様子に、撫子は満足げな頷きを落とす。
テーブルの上に広げられていた書類や書物は、多分まだ使用途中だろうから、手はつけていない。
撫子はフェインリーヴの寝ているソファーに近寄ると、彼の顔の傍に座り込んだ。
ふふ、子供みたいに可愛い寝顔。
zzz……。
どんな夢を見ているのか、その幸せそうな寝顔に、撫子はクスクスと小さな笑いを零す。
この人と出会ってから、もう一年以上……。
戸惑いや不安ばかりに駆られていた撫子を見捨てずに、ずっと傍で守り続けてくれた、大切な人。
今こうして、彼の傍にいられる事が、少し、怖くも思える。
夢じゃありませんように、どうか、この幸せが、現実でありますように……。
撫子はフェインリーヴの頬を撫でながら、瞼を閉じて願う。
大丈夫、お師匠様は……、ちゃんと、ここにいてくれる。
小さな声でそう呟いて、そっと唇を近づける。
フェインリーヴの頬に触れる程度のキスを贈り、離れようとした、その時。
……。
お、お師匠様? お、起きていたんですかっ!?
ふふん。俺は魔王だぞ? 気配の変化には敏感なんだ。
そ、そうです、かっ。えっと……、た、ただいま、戻りましたっ。
あぁ、お帰り。――というわけで、今度はこっちに頼めるか?
こ、こっち?
撫子の腕を掴み、もう片方の大きな手のひらで彼女の後頭部を抱き寄せたフェインリーヴが、ニヤリと笑う。頬の次は、当然こっち、だろう? と……。
それがどこの事を指しているのか、流石に恋人一年目の撫子がわからないわけもない。
む、無理です!!
ぐっ、やはりお前にこれは難易度が高いのかっ。毎回の事ながら、ちょっと傷付くがっ。
フェインリーヴと想いを交し合い、一年……。
初めての恋と、初めての想い人。
そんな彼と過ごすこの一年は非常に慌ただしく、恋人らしい触れ合いや時間はあまり持てていない。
そのせいか、まだまだ、撫子はフェインリーヴからのおねだりに上手く応える事が出来ない。
寝ている時ならまだしも、起きている彼に、それも、く、唇にキスをと言われても……、恥ずかしくて出来ない。
な~んてな。お前がまだまだお子様だという事はわかっているから、そんな顔するな。ほら、これなら大丈夫だろう?
……はい。
上体を起こし、両手を広げて微笑むお師匠様の腕の中に、撫子はふわりと飛び込んでいく。
ぎゅっと、その力強く優しい温もりに抱き締められると、あぁ、帰って来れたんだな、と、凄く安心する。
ただいまです。お師匠様。
あぁ、一週間、里帰りは楽しめたか?
はい、とっても。姉様からお師匠様や皆さんに、和菓子のお土産もあるんですよ。
和菓子!!
と、甘い物に目がないお師匠様が瞳をキラキラと輝かせたのは一瞬だけの事だった。
和菓子の入っている重箱を取りに向かおうとした撫子を引き留め、そのまま自分の腕の中に閉じ込めてしまう。
もう少し、このままでいてもいいだろう?
お、お師匠様……。
な?
……はい。
大好きな甘い物よりも、自分を優先してくれる事が嬉しい。
少しだけ薬草の匂いが混ざる、お師匠様の温もり。
その手に頭を撫でられながら髪を梳かれていると、子猫にでもなったかのように、素直に甘えてしまう。
おやおや、相変わらず仲が良い二人だな。
ら、らららららら、ラヴァスティアさん!?
な、何故お前がここに!! 契約は一年近く前に完了しているだろうが!!
ほんのりと甘いひとときに浸っていた二人の背後に現れたのは、忌まわしき裏切り者のラヴェルノを討つ際に協力してくれた、七大長老の一人、ラヴァスティアという少年であった。
宙に浮いているラヴァスティアは、にんまりと笑いながら慌てている二人を眺めてくる。
確かにな。私は撫子から契約の代償を得た。――恋に花開く、乙女の笑顔を、な。
無害だったとも言えるが、本当にそんなもので良かったのか? 得たとは言っても、ただ、俺の傍で笑う撫子の顔を見ていただけだろう。
ラヴェルノとの契約。
フェインリーヴを死なせない為に、撫子は確かに彼らと契約を結んだ。
しかし……、戦いが終わり、撫子の世界に関する面倒事が落ち着いたその後に。
ラヴァスティアは、フェインリーヴとの幸せを手に入れて、心から笑う事が出来るようになった撫子に告げたのだ。
――その曇りなき乙女の笑顔こそ、自分達の欲するものだと。
感情を奪うでもなく、ただ、本当に、幸せそうにしている撫子を見ていただけなのだ。
それで、契約は全て完了した、と。
ラヴェルノはそれぞれの性質により、求めるものが違う。あの忌まわしき裏切り者が戯れに世界を壊そうとしたように、私が治めているラヴェルノは、乙女の幸せを糧とする。
本当に? 本当に、それで満足なんですか? 契約内容と、報酬が見合ってないように思うんですけど。
うむ。精神的な充足というものだ。だから、見るだけで良いのだ。これからも、そなたの幸せを、願っている。
ラヴァスティアさん……、ありがとうございます。
それではな、と、優しい笑みを残し、ラヴァスティアは幻のように消えてしまった。
乙女の幸せが、あのラヴェルノ達の糧……。
奇特なラヴェルノもいたものだ……。
そうですね。でも、人の幸せが自分達にとっての幸せ、という事は、なんだか良いものですね。
確かに、な……。俺も、お前が幸せでいてくれるのなら、同じように幸せだ。
腕の中に閉じ込めていた撫子を自分の隣に座らせると、フェインリーヴはその額にこつんと、同じ場所をぶつけてきた。
お師匠様……?
ありきたりな言葉かもしれないが、――俺は、お前と出会えて幸せになれた。
私もです。私も、癒義の巫女として生きる人生の中で、雁字搦めになっていた気がします。でも、お師匠様に出会う事が出来たから。
……。
……。
なんだか、急に勇気が湧いて……。
気付いたら、無意識に、大好きなお師匠様の唇に温もりを重ねていた。
不束で未熟な弟子兼恋人ですが、どうかこれからも、末永く。
あ、あ……、
えっと、そのっ。
どうしたのだろうか?
フェインリーヴが顔を真っ赤にすると、突然自分の服の懐から、ピンクのリボンが巻かれている白い箱を取り出してきた。
それを撫子の手に握らせ、熱の籠った幸せそうな双眸で彼女の視線を抱く。
俺の方こそ、色々と苦労をかけるが、よろしく頼む。
はい!!
いつまでもお傍に……。
私の愛するお師匠様。
――贈り物の箱の中身。
それは、フェインリーヴが撫子の為に新しく生み出した、『幸福』を意味する魔族の一部たる石で作られた……。
――未来を約束する、可愛らしい指輪だった。
それを彼女が目にするのは、もう少し、その愛しい温もりに包まれた、その後の未来。
異界よりの乙女と、心優しき魔王に、幸多からん事を……。
二人の温もりが再び触れ合ったその光景を、天上高くから見守っていたラヴェルノの長老は、心からの祝福を与え、また何処かへと去って行ったのだった。