一国の王女にしては飾り気のない部屋だ。調度品が高級というわけでもなければ外に美しい景色が広がっているわけでもない。どちらかといえば日当たりは悪く、離宮でも端の端。備え付けられている鏡一つをとってもありふれた代物、それがリーゼリカ・ヴィランという王女の部屋だ。
一国の王女にしては飾り気のない部屋だ。調度品が高級というわけでもなければ外に美しい景色が広がっているわけでもない。どちらかといえば日当たりは悪く、離宮でも端の端。備え付けられている鏡一つをとってもありふれた代物、それがリーゼリカ・ヴィランという王女の部屋だ。
ふふっ、ふふふっ……
大抵のことは受け入れて生きてきた自分が、はっきりと意見するなんて初めてのことだった。だからこそ兄姉たちも盛大に驚いてくれた。
ついに言ってやりました! あなたは、見ていてくれましたか?
待ちきれないとばかりに駆け出し、覗いた先には高揚を抑えきれない姿が映っている。たとえどこにでもあるような代物でも、リーゼリカにとって鏡は特別な意味を持っていた。
応えるように鏡が光を放つ。
ああ、もちろん。君の雄姿を見逃すはずがない
そこに映るのは少女の姿ではない。だがリーゼリカは当然のように会話を続けた。
みんな驚いた顔をしていましたわ
だろうね。君は実にすがすがしい顔をしていたから。僕の位置からは彼らの後ろ姿しか見られなくて残念だったよ
けれど大変になるのはこれから。もう引き返せないわ。そもそも引き返せる道なんてどこにもないのだけれど……
大丈夫。君ならできるよ、リゼ
家族の誰も呼びはしない愛称。
それだけでリーゼリカは安らぎを覚える。強張っていた力が抜け、ようやく本当の笑顔に戻れた気がした。
ありがとう。……あなたがそう言ってくれるから、わたくしは頑張れる
彼だけが、孤独な王女の唯一の希望。
彼と出会って、リーゼリカの世界は鮮やかに動き出した。
あれから、まだ半年しか経っていないのね。……悪女の娘は幸せになれるかしら
それ、久しぶりに聞いたな。また一人遊びかい?
もう一人ではないわ。あなたが答えてくれるもの
そうだね。友達の幸せのため、尽くさせてもらうよ
それはまだリーゼリカが孤独な一人遊びをしていた頃――
鏡よ鏡、鏡さん。悪女の娘は幸せになれますか?
優雅に微笑むも返答なんてあるわけがない。
豪華な装飾を施された鏡がより虚しさを掻き立てた。
なにが、リーゼリカ様にはもっとふさわしい方がいらっしゃると思います? 素直にエスメラ・ヴィランの娘はごめんだとおっしゃればよろしいわ!
ただ友達になってほしいと望んだだけだ。唯一無二の恋人に望んだわけでもないのにこの切り替えしは酷いと思う。
大国ベルティーユの第二王女という恵まれた身分にありながら彼女は誰にも望まれていない。
ふさわしい方、それはどこの誰? そんな方がいると本気で思っていらっしゃる!? ぜひご紹介していただきたいものね。身分と住まいとご職業を聞いてやれば良かったわ!
小脇に抱えた枕を力任せ引っ張り殴る。枕に罪はないけれど、そうでもしなければ家具が犠牲になりそうだ。
好きで婚約者の一人もいないわけではありませんのよ。どこも悪女の娘なんてお断りなのですわ! あのエスメラの娘はまだしも、不幸を呼ぶ女、破滅を招く女なんて呼ばれだす始末……。わたくし何もしておりませんけれど!?
王女ともなれば生まれる前から婚約が決まっていてもおかしくはない。だがしかし、王族という付加価値をもってしても決まらぬリーゼリカの縁談。
要するに『悪女の娘は御免』なのだ。
あんな人に憧れていたなんて愚かしい! 今すぐ過去に戻って自分を殴り飛ばしたいですわね
あの人だけは違うと思っていた。
でも結局は周囲の人と同じ。
リーゼリカを悪女の娘と認識し、悪女の娘のそばにいることで疎外されることを恐れている。
その悪女とは。
ベルティーユ王国にとどまらず、この大陸において悪女と聞いて連想するのはエスメラ・ヴィランその人だろう。リーゼリカの実母でありベルティーユの第二王妃であるその人は亡くなって以来、もはや伝説として歴史に名を刻み始めていた。
ベルティーユは大陸に数ある国の中でも随一に豊かな国、だった。それが一人の人物によって疲弊したといっても過言ではない。
ともすれば彼女を稀代の悪女と呼ぶべきか……
孤児として生まれたその人は神に愛されたように美しく、心優しい貴族の目にとまり養女として迎えられた。引き取ったといえば聞こえはいいが、要するに当主の愛人だ。この頃から彼女は美貌をもって貴族社会で浮名を流し始めていた。
ほどなくして不運にも彼女を引き取ったヴィラン家の当主は病に倒れ、実質その家は彼女に乗っ取られたも同然だ。
蝶のように様々な男の元を渡り歩き貢がせる。
豪華な食事を、極上の酒を――
煌びやかな宝石、美しいドレスで己を着飾り、彼女ははあらゆる物を欲しがった。
地位さえも……
行き着いた先は王の妃。
あらゆる物を欲する王妃によって国は疲弊した。王はそれを咎めるどころか寵愛を続け、逆らう者を次々と罰し恐怖を植え付けた。
ではどれ程美しかったのかといえば、肖像画の一つもないので噂ばかりが渦を巻く。なぜなら本人が「あたしの美しさはこんなもの? お前、目が腐っているのね。廃業なさい」と肖像画を破り捨て、当時王宮に出入りしていた職人を永久追放したからである。
他にも彼女が残した逸話には若さを吸い取る魔女だとか、彼女が歩いた後には雑草も残らないとか、各国に愛人を潜ませ国の機密を握っているとも。
そんな伝説の悪女は娘に出立の挨拶もなく国王を伴い旅に出た。一人娘がメイド伝いに知った時、両親は既に船上だった。
ああ、またいつものことかと、その時は思っていたのに。
二度と会えないなんて、思いもしなかった
父と母、両親がそろって帰らぬ人となり一月余り。母のおかげで保障された暮らしには一月経っても変化は見られない。
でも、それはいつまで?
不安に押しつぶされそうになるたび、惨めにも亡き母の部屋を訪れる。
ここにはお母さまを恐れて誰も近寄らないわ……
それどころか、いつ帰ってきてもおかしくないように一月前のままだ。
鏡を見れば嫌でも思い出したくない相手の顔が浮かぶ。リーゼリカ様は母君に似てお美しいですねなんて最悪の褒め言葉だ。
ねえ、鏡さん。悪女の娘は幸せになれると思う?
うーん、それは難問だね。なにせ君はかのエスメラ・ヴィランの娘だろう。その辺の悪女とは格が違う
……え
え?
無理だと、いや難問だと言われた。そんなことはわかっていたけれど、幻聴か。友達を欲するあまり空耳まで聞こえ始めてしまった。まず耳を疑えば、目まで疑うことになる。
鏡に映るリーゼリカの顔が渦を描くように歪む。じっと見ていると吸い込まれるような目眩が襲う。まっすぐ立っているはずなのに、つられて目が回りそうだ。
え――、な……なに?
耐えかねて目を閉じた。
……ああ、やっと!
歓喜に溢れた。それでいて感慨深いような。
短い言葉には深い感情が込められていた。
やあ
鏡を覗いていたはずだ。つまり自分の姿を前にしているはずなのに……彼は誰だ。
一目で身なりが良いとわかる上品な装い。眩しいようない彼とは対照的に背後に広がるのは一面の闇色。彼だけが黒の中に浮かび上がっている。
…………こ、こんばん、は?
はたして返すべきは挨拶だったのか。
もうそんな時間かい? ここには時間という概念がないからね。夜に女性の元を訪ねるとは不謹慎だったかな
い、いえ。そんなこと、かまいませんけれど……。もっと他に話すべきことがありますわよね!?
これは失礼。初めましてと挨拶をやり直すべきか悩むところだよ。とはいえ僕は初めてというわけでもないけど
わたくし幽霊に知り合いなんて……
真剣に記憶を辿ってみるが、どう考えてもいなかった。
違う違う! 僕は鏡の……精霊、みたいな?
どちらにしても知り合いなんていませんわ!
なぜ疑問形。みたいなと言っている時点で幽霊との差がわからない。
人を呼ぶ!? 鏡がしゃべり始めたなんて正気を疑われそうですけれど……
叫んでも意味はないと、僅かに残った冷静な思考が足を縫いとめてくれた。
ああ、この時を待っていた。ずっと、君に会いたかったよ
嬉しそうに彼が告げるほど、リーゼリカは一層疑いの眼差しを濃くする。
だって――
そんなこと誰も言ってくれなかった。
あなた、わたくしが誰か知っていて?
リーゼリカ・ヴィランだろう
正解だからこそ謎は深まるばかりだ。
いっそ自室に戻って寝てしまおうか。いや、これこそが夢なのかもしれない。
僕はね、エスメラのしもべだよ
お母さま!?
自称鏡の精の発言に戸惑う。エスメラという名がさらにリーゼリカを動けなくしていた。
……仮に、仮に、本当に仮に、ですけれど!
わかった、わかった。仮定の話だね
幽霊ではなくて鏡の精霊、みたいな存在だとして。それがあの人のしもべだとして。こんな非現実的なことっ、いったいどうして、何がどうなっているの!?
何も知らないのかい?
その言葉はリーゼリカの胸を貫いた。傷は深い。
まともに会話した記憶すら乏しいのに、何を知っていると?
わたくし、あの人のこと……何も知りませんわ
エスメラは娘のことを何も知らない。それは娘の方も同じだ。
もちろん表面だけのことなら知っている。ヴィラン家の養女として引き取られ、美貌をもって王の妃にのし上がった。そんな誰もが知る内容だけだ。
悪女だとか傾国の美女だとか、特に悪い噂はたくさん耳にしてきたけれど。
どこで生まれてどんなふうに過ごしていたか、祖父母のことさえ聞かされていない。
ふうん……。エスメラはね、鏡の魔女なのさ。厄介なことにね
ええと、あの、少し意味が……。確かにあの人は、よく魔女だの悪魔だの毒女だの比喩されていましたけれど……
初耳だからという次元ではない。告げられた内容に現実味がなさすぎる。子どもに分類されようと、それが物語の存在だということくらい理解できる。
よくよく言葉を吟味して頭の中を整理した結果、信じられないという結論に至った。目の前ではありえないことがおこっているけれど……。
きっと疲れているだけだ。
正真正銘、本物さ
はい、正真正銘本物の魔女だそうで。
魔女なんてそんな! 本当に、わたくし何もしらなくて……
うん。突然のことに君は驚いているだろう?
問われるまでもありませんわ!
ははっ! 急いても仕方ないか……。うん、ひとまず眠ってごらん
わかりましたわ。これは夢ですのね!
目が覚めても夢じゃないから出直しておいで、ってこと。次は君の鏡で大丈夫だよ。そうそう、一つ忠告してあげる。明日のテスト範囲はもう五ページほど先までだ
なぜテストのことを!?
鏡の精だからね。あの家庭教師はお勧めしないよ。君を貶めて笑いものにしようと企んでいるからね
そんなこと……
とっくに知っている。
テスト範囲を勝手に変えるのも常習犯だ。
抗議したところで不真面目なお前が悪いと咎められるのはいつだってリーゼリカである。
……また明日
リーゼリカはふらふらとした足取りで鏡に背を向けるが、彼は戻ってくることを疑いもしなかった。
頭の中が一杯で何も考えられそうにない。
元の静かな部屋、そこに映るのは不安に彩られた少女だけである。
ベッドへ潜り込んだけれど、とても寝付けない。
何度も考えたのは母のこと。
顔は思い浮かぶのに、思い出ばかりは空白だ。
一緒に過ごしたことはあった?
笑いかけてくれたことは?
抱きしめてくれたことは?
何もかも空白のまま、永遠に会えなくなってしまった人……
わたくしは……
得体のしれない現象、得体のしれない相手。何も見なかったことにしてしまえば簡単だ。そうしてしまえと頭ではわかっているのに――出来ない。
彼は、彼だけが……欲しかった言葉をくれた
ただの偶然だ。深い意味があるわけがないのに。
会いたかったと言ってくれた。こんなわたくしに……
彼に会えばもう一度聞けるのだろうか。淡い期待を抱き、信じたいとさえ思ってしまった。
そう思わされた時点でリーゼリカの負けなのだ。