三人の子供が一人の怪物を相手に苦闘している様は、外野から呆然と戦況を見守っていた愁斗からすれば異界の出来事のように思えていた。

 俺はいま、何の為に戦っている?

 決まっている。妻子の為だ。でなければ、あんな奴はすぐ裏切っている。

 俺の事務所を壊滅させ、部下を皆殺しにした北条時芳を、俺は決して許してなどいない。本当なら自分の手で殺してやりたいくらいだ。

 なのに、俺は自分の師匠を苦しめてまで、一体何をしたかったんだ?

 久方ぶりに再会して、ろくに言葉も交わせなかった。時芳から存分に苦しめてから殺せと言われたので、私情を葬り去って命令を実行に移した。

 いまさら、後悔が大波の如く押し寄せてくる。

 まだ幼い頃、俺は一人の忍と出会った。忍者というものに憧れを抱いていた俺は、その男――二曲輪猪助に弟子入りを志願した。

 彼は愛想が悪く、口数も少ない偏屈な男だった。でも、彼は知れば知る程、本当は慈愛に満ち溢れた人物だった。彼の親友であり、風魔一党の先代頭だった東雲宗仁は、おそらく彼のそういったところを気に入っていたのだろう。

 陽の宗仁と、陰の猪助。俺は二人を尊敬していたし、その関係性を羨ましく思っていた。
 二人が風魔から出奔したいまでも、俺は二人を憎めないでいる。

 でも、文句の一つくらいは言いたかった。

伊崎愁斗

何故……俺も一緒に連れて行かなかったのですか?

 一人より二人、二人より三人と、良く言うではないか。

 だから脱走するなら、せめて俺も一緒に連れて行って欲しかった。きっと助けて欲しいと言われたら助けただろうし、少なくとも足手纏いには絶対ならない自信があった。

東雲あゆ

あぁッ……!?

 あゆが歪な呻きと共に吹っ飛ばされて床を転がる。

 彼女は猪助の二番弟子で、愁斗にとっては妹弟子にあたる。だから、本来なら彼女がさっき言った通り、戦うのはこちらだって辛い。

 こういう時、師匠は何と言って俺を叱っていただろう。

 どうすればいいか分からない時、どうやって道を切り開いたのだろう。

池谷杏樹

人は思ったより、
ずっと自由に生きられるよ

 ふと、ある女に昔、こう言われたのを思い出す。

池谷杏樹

どんな過去に縛られたって、自分なりの生き方を探す権利は誰にだってある。もし迷っていることがあるなら、馬鹿みたいにずっと悩んでればいいじゃない。少なくとも、私はそうやって生きていたから

 これらはかつてのライバル、池谷杏樹の言葉だ。

蓮村幹人

君の真面目なところは嫌いじゃない

 今度は蓮村幹人の言葉が脳裏に過った。

蓮村幹人

だが、何処かで溜まったガスを抜いておかないと、せっかく捕まえた奥さんに八つ当たりするようになってしまうぞ? 自分の為にものを考えられないなら、まずは奥さんを第一に考えて行動してみるんだな

 うるさい。何を偉そうに。お前らは価値観の不一致で離婚したんだろうが。

 でも、そのアドバイスがあったから、俺はいまでも護るべきものを忘れないでいられた。そこだけは感謝してやろう。

貴陽青葉

紫月君!

 床を這いずる青葉の悲鳴と共に、紫月が再び床を勢いよく転がった。

 時芳はあゆの間合いに鋭く侵入して空いた片手で喉輪をかけ、彼女の体を壁に叩きつけ、まるで蝿でも払うように部屋の中央に放り投げた。

 あゆが全身を震わせながら立ち上がると、急にその体が宙に浮き上がった。時芳が再び片腕で彼女の体を持ち上げ、首を筋張った無骨な手で絞め上げているのだ。

東雲あゆ

あぅっ……アァアッ……ッ

北条時芳

もう戦う力など残ってはいまい

 時芳はせせら笑うと、あゆの顔を見上げ、視線をゆっくり下に逸らし、彼女の胸、腹、脚、爪先をじっくり観察した。

北条時芳

いま殺すのは惜しい、美しく見事な体躯よ。どうだ? 私の元で働いてみるのは。うちの若い衆は鬱屈とした者が多くてな。風魔一党の党首と張り合える力とその美貌があれば、戦士としても慰み者としても充分やっていけるぞ?

東雲あゆ

……へっ

 あゆは悪意の発露にも似た笑みを浮かべ、両手で時芳の手首をがっちり掴んだ。

東雲あゆ

私は身持ちが固いんでね……
好きな人じゃないと、イケない子なんだよ

北条時芳

なるほど。たしかに、いけない子だ

 喉を絞める力がさらに強くなり、あゆが目玉を剥いて聞くに堪えない嗚咽を漏らす。

 紫月と青葉が立ち上がったのは、もう何度目になるか分からない。でも、そんな彼らですら、一歩を踏み出す気力が既に尽きているらしい。

人間、守りたいものはそう多くはない。でも、一つじゃない

 かつての師の言葉が、永い時を経て蘇る。

だから、本当に護りたいと思ったものには、正直になりなさい

 足元に落ちていた部下の短刀を拾い上げる。

伊崎愁斗

――はい。師匠

もう、迷いは吹き飛んでいた。

 あゆを死の淵から救ったのは伊崎愁斗だった。

 逆手持ちの刀を救い上げるように一閃させ、真横からあゆを掴む時芳の腕を肘のあたりで切断し、床に落ちそうになった彼女の体を抱えて紫月の傍まで跳んできたのだ。

 時芳は斬られた腕の断面を見て、慌てず騒がず、ただ不機嫌そうに訊ねた。

北条時芳

伊崎よ。
これは一体どういうつもりだね?

伊崎愁斗

この少女は我が師、二曲輪猪助の二番弟子。つまり、私の妹弟子です

 あゆの体をそっと床に下ろすと、愁斗はさっきまでと違い、はっきりとした意思を瞳に湛えて毅然と言い放った。

伊崎愁斗

ならば、彼女を守るのは兄弟子たる私の御役目。もし彼女を害そうとする者があるなら、それが例え雇い主でも許す訳にはいかない

北条時芳

さっきは平然とその師匠をいたぶっておきながらよく吐かす。この恥知らずめ。貴様もやはり猪助と同類の卑しくて矮小な男のようだ

伊崎愁斗

俺のことは好きに言えばいい。何にせよ、これで形成逆転だな。その怪我ではろくに貴様も戦えまい

北条時芳

果たしてそうかな?

 時芳が口の端を釣り上げると、さっきからずっと床に倒れていた白い忍達が続々と起き上がってきた。脚などを怪我した連中も、既に止血を済ませて起き上がっている。

北条時芳

よりにもよって党首が裏切りを働いた。その報いはきちんと受けてもらうぞ

誰が何の報いを受けるだって?

 いきなり、忍の一人が頭巾を剥いで顔を晒した。すると、他の連中も次々と頭巾を脱ぎ捨て始めたのだ。

 彼らは一様に満面の笑みを浮かべていた。とてもじゃないが、忍とは思えない様相だ。

北条時芳

これはっ……
どういうことだ!?

 時芳が狼狽すると、今度は愁斗が余裕の仮面を被った。

伊崎愁斗

思った通りだ。貴様は風魔一党のメンバーの素性や人数を大して把握はしていない。だからその中に俺の腹心が混じっていても気づきはしない

北条時芳

腹心だと?

伊崎愁斗

覚えているか? 連中の顔を

 愁斗が群れのうちから四人を一人ずつ選んで指差すと、時芳の顔がさらに蒼白になる。

北条時芳

奴らは……風魔探偵事務所の従業員!? 奴らはあの時死んだ筈では……

伊崎愁斗

いわゆる死んだフリという奴だ。貴様の組員は随分とお粗末な連中でな。ろくに生死確認もせずに襲撃した事務所から立ち去ってくれた

北条時芳

だ……だが、そいつらを除いた風魔一党の構成員まで……?

伊崎愁斗

さっき言ったことをもう忘れたのか。これだから年寄りは扱いに困る。お前はこいつらの素性や人数を把握していなかった。だからここに、お前の息が掛かった者は一人もいない。これがどういう意味か、分かるな?

葉群紫月

……あー、つまり

 紫月が口の端と眉をぴくぴくさせながら、この状況を簡単な一言で纏め上げた。

葉群紫月

ここにいる忍者は全員、
あんたと仲良し?

伊崎愁斗

正解だ

 まるで杏樹の男版を見ている気分だった。

 水を得た魚のように、愁斗は声を高らかにして問う。

伊崎愁斗

では、いまこの場に居る全員に訊こう。妻子を担保に悪逆非道の限りを尽くすよう俺に命じたこの腐れ外道に対し、お前達はどういった形の制裁を提案するだろうか。面白い案なら即採用だ。さあ、言ってみろ

葉群紫月

はい、はーい!
僕にいいアイデアがありまーす

 紫月は近くにいた忍の一人から借りたクナイをやや大げさに振りかぶった。

葉群紫月

奴の体に空いた穴という穴に特大の座薬を突っ込んで、
泣いて許しを乞うまで懺悔の台詞を下痢ピーさせてやるのが一番だと思いまーす

伊崎愁斗

採用だ

 愁斗が同じようにクナイを振りかぶると、青葉やあゆ、風魔一党の総員が全く同じフォームで投擲の構えを作る。

 時芳の顔が、蒼を通り越して蒼白に干上がる。

北条時芳

貴様ら、
揃いも揃って
この私を!

葉群紫月

さっき言ったろ? 全部、あんたが悪い

 ここまで悪人の殺害を善だと思った瞬間は無い。

 だからこそ、誰も躊躇わなかった。

伊崎愁斗

撃てぇええええええええええええええええええええええええええええっ!

 狂気じみた愁斗の怒号で、黒い凶器が一斉掃射される。

 魚群にも似たクナイの怒涛は退路を完璧に塞ぎ、時芳の全身を隈なく覆い尽くす。

 最後に仕上がった標的の末路は、まさしく血塗れのハリネズミのようだった。

貴陽青葉

……まだ息がある

 注意深く時芳を観察していた青葉が呟く。

貴陽青葉

正真正銘の化け物が相手だ。まだ気を抜くな。むしろ、これからが本番だ

北条時芳

……よく分かっているじゃないか

 喉の奥から重低音が響いたと思ったら、時芳の和服の袖から何かが転がり落ちた。

 注射器だ。病院でよく見るごく一般的な型で、中身は既に空だった。

北条時芳

宗仁と猪助に裏切られ、風魔一党にも見限られ――最後に残った商売道具はこの一回で底を尽きてしまった。この始末、どうつけてくれよう

 恨みがましさを吐露する間に、斬られた腕の断面が沸騰したように泡立ち、突き刺さっていたクナイが弾かれたように飛んでいく。

 やがて腕は元の姿を取り戻し、これまでにこちらが与えた全ての傷が一瞬で塞がれる。

 紫月は驚嘆をそのまま口に出した。

葉群紫月

傷が全部治りやがった。
あの野郎、一体何をした!?

伊崎愁斗

さっきのアンプルだ

 愁斗が床の注射器をちらりと見遣る。

伊崎愁斗

北条一家が彩萌市で流通を始めた超人薬、通称・PSYドラッグ。こいつを打ち込んだ者は人ならざる力を得ると言われている

貴陽青葉

なるほど。だったら奴の異常な戦闘能力にも説明がつく

 青葉がいち早く理解を示す。

貴陽青葉

未来予知に近い反応速度も強靭な肉体のバネも全部ドーピングだったのか

東雲あゆ

そんな奴、どうやって倒すんだよ!

 あゆが恐慌じみて喚く。

東雲あゆ

こんなん、ただの反則じゃん!
何か弱点とか無いの!?

北条時芳

弱点? そんなものを探させる時間を与えると思うか!

 さっきよりも数段ハイになった時芳が哄笑を上げ、大太刀を振りかざして床を蹴った。速力はさっきの倍以上だ。

 まず、奴は脇を固めていた忍達の首を五つ跳ね飛ばし、身を瞬転させて別の六人の体を胴から真っ二つにする。この一瞬で、計十一人分の赤い間欠泉が湧いた。

伊崎愁斗

くそっ!

 愁斗が千本を三本投げるが、時芳の体にはかすりもせず、それどころかたった一瞬で彼の懐に入り込んで逆袈裟に大太刀を振るった。

 防御に使った刀が砕かれ、愁斗の体が壁に叩き込まれる。

 さらに息つく間も無く、時芳が足元から拾って放った忍の短刀が愁斗の腹を刺し貫き、彼の体が壁に磔にされた。

東雲あゆ

伊崎さん!

 あゆが愁斗の傍に駆け寄ろうとすると、その行く手に時芳が立ち塞がった。

東雲あゆ

そこを退け!

 彼女が十手で時芳の頬を打つが、奴はまるで微動だにしなかった。

 時芳はあゆの手首を掴んで片腕の力だけで投げ飛ばし、生き残っていた忍をボーリングのピンみたいに弾き倒す。

 再び青葉の死角からの銃撃。しかし、放った弾丸は彼の体に弾かれ、当たった先から先端が潰れて床に落ちる。

 これにはさすがの青葉も焦燥する。

貴陽青葉

銃弾が効かない……!?

北条時芳

お前は後回しだ

 時芳の姿がまたぞろ掻き消えると、忍達の死体が一気に十体以上も増えてしまった。さらに次の一瞬で四人を残して斬殺され、最後の四人――元は風魔探偵事務所の従業員だった彼らにも時芳は牙を剥いた。

 一人目が喉仏を貫かれて絶命し、背後から短刀で斬り掛かった一人が振り返り様の一閃で首と胴が泣き別れる。さらにもう一人を斜め一閃で斬り伏せ、返す刀で最後の一人を始末する。

 かくして、風魔一党は壊滅した。あまりにも、あっけない幕引きだった。

伊崎愁斗

北条……貴様ぁあああっ……!

 今度こそ仲間を全て失ってしまった愁斗は、涙を目じりに浮かべつつ、腹に刺さった短刀を無理矢理引き抜いた。

 しかし、それだけだった。

 一歩を踏み出そうにも、既に愁斗には戦う体力が無くなっていたのだから。

伊崎愁斗

よくも……よくも、俺の……部下を……!

北条時芳

全ては一時的な陶酔で判断を誤った貴様が悪い

 時芳が狂気じみた笑みを晒しながら、額にいくつかの筋を浮かべる。

北条時芳

この私に従っていれば、仲間もこんな目には遭わずに済んだものを――

 背後から降り下ろされた大太刀の唐竹割を、時芳は振り返りもせずに自らの大太刀で受け止める。

 紫月は柄を握る両手に最大の力を込めた。

葉群紫月

おい、知ってっか? ジジババの加齢臭は腐った刺身みたいな臭いがすんだとよ

北条時芳

年寄りに対して何が不敬かを心得ておらん様子だな

葉群紫月

黙れ

 今度こそ、紫月は本物の怒りを言葉にして吐き出した。

葉群紫月

その臭ぇ口で喋るな。
その薄汚れた手で、
人様の大切なものを二度と触るな

 紫月が刀を払うと、時芳はようやく身を翻した。

葉群紫月

お前だけは――

 こんなに腸が煮えくり返ったのは久しぶりだ。どんな憎い奴でも一発思いっきりぶん殴ればスカっとする性分だと思っていたのに、いまは自分自身がどういう気持ちでこの感情に向かい合えばいいのかが全く分からない。

 柄を握る掌から血が滲む。知ったことか。

 噛みしめた奥歯が砕けそうだ。後で歯医者にでも行けばいいか。

 胸が痛い。猪助もきっと永い間、この痛みと付き合い続けていたのだろう。

葉群紫月

この俺が、殺す

『通りすがりの探偵』編/#3通りすがりの探偵 その四

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