何でまだ自分は生きているのかという陳腐な自問自答を幾度となく繰り返し、答えを得られないまま、自分はまだ生きながらえている。

 そして今日、また一つ、新たな問題が出現した。
 何で彼女は、自分の祖父を見捨てた男に肩を貸している?

……何故だ

 猪助はあゆに問う。

何でお前は……ワシを助けようとしている?

東雲あゆ

…………

 あゆは答えてくれない。ただ黙って、二階に降る階段を慎重に踏みしめている。

ワシなんぞ置いて、あのガキ共と一緒にここから逃げれば良かったものを……何であのガキ共はあの場に残った? どうして、お前は――

東雲あゆ

ねぇ、知ってる?

 あゆは淡々と述べる。

東雲あゆ

お爺ちゃんやお婆ちゃんってのは、ただ若い子と話しているだけで幸せなんだって。だからこっちが分からないようなことを説教臭くベラベラ喋っているんだよ。だから、若い子はそんな意味の無い戯言に一切付き合う義務なんて無いんだよ

 普段の彼女からは考えられない説教だった。誰かの入れ知恵だろうか。

東雲あゆ

だから、お祖父ちゃんの話なんて聞いてやらないもん

お前はまだワシをお祖父ちゃんだと……

東雲あゆ

だって、お祖父ちゃんは
お祖父ちゃんだし

 さっきまでと違い、あゆの言葉には迷いや当惑が無かった。

東雲あゆ

これまでずっと私と一緒に居てくれた、元気でやかましくて寂しがり屋の、何処にでもいる普通のお祖父ちゃん。血が繋がってなくったって、それだけは変わらないよ

……………………

 もし宗仁が生きていたなら、この言葉を奴にも聞かせたかった。

 強くなった、孫娘の言葉を。

あゆ。お前の言う通り、爺婆はただ若造と話すだけで楽しい生き物だ。だから、ワシの話を聞き流してはくれないか

東雲あゆ

ご自由に

 あゆが微笑む。心臓が痛い。持病だけでここまで苦しいのはこれが初めてだ。

……風魔に居た頃、ワシは北条時芳がとある薬物の流通に関わっていると聞き、奴がこの城に溜め込んでおった薬物を全て焼き払ってここから逃げ出した。その時、脱走の幇助をしてくれたのがお前さんの祖父じゃ

東雲あゆ

……………………

 あゆは何も言わない。下手な相槌されるよりかは有り難い。

ワシらはアテも無く逃げたが、逃避行も長くは続かなかった。そこで宗仁は自分が囮になると言って、まだ幼いお前をワシに託して単身で風魔一党に立ち向かった。それ以降、奴がどうなったかは本当に知らない

東雲あゆ

だから顔を整形してまでお祖父ちゃんのフリをして私の家に転がり込んだんだね

 民間人に紛れ込んだ猪助を時芳は手出しが出来ない。極星会は民間に対する不用意な介入を嫌う性質があり、だからこそ同系列の中でも一番性質が悪い北条一家を見張る勢力として隣町の唐沢一家が牽制役として機能しているのだ。

 でも、時芳はPSYドラッグの流通を最近になって再び始めようと画策していた。そこで一番の邪魔者になるのは、過去に同じ種類の薬物を葬った猪助だ。だからこんな回りくどい真似をしてまで猪助を風魔一党の手で殺害しようとしていたのだ。

 これについては、あゆが知らなくてもいい話なので語りはしないが。

ワシはお前の祖父であり続ける為の工作を惜しまなかった。心臓の病も最初は演技だったが、まさか演じ続けるうちに奴とはまた違う種類の病に罹るとは思わなかった

東雲あゆ

皮肉な話だよね

 既に二人は一階の玄関口に辿り着いていた。話していれば、どんな遅々とした歩みでも速く感じてしまう。

 あゆは一旦立ち止まった。決して体力が切れたからではない。

 玄関の扉の向こうから、複数の足音が聞こえるのだ。

東雲あゆ

……まさか、追っ手が?

外から組の連中が応援にでも来たか……ぐふっッ

 胸が締め付けられ、咳き込む度に吐血する。

そろそろ年貢の収め時か。さっき経穴に貰った毒針が効いておるわい

東雲あゆ

お祖父ちゃんはそこに居て

 あゆは猪助を床に下ろし、こちらを庇うように身構えた。

東雲あゆ

何が来たって私が
やっつけちゃうんだから

止めろっ……
お前だけでも早く逃げるんだ……!

ワシを庇ったままだと
お前の負担が……!

東雲あゆ

言った筈だよ。
お祖父ちゃんの戯言は
全部却下だって

 足音が徐々に近づいたかと思ったら、突如として扉が乱暴に開かれる。

 現れたのは、一人の小柄な女性と、対照的に大柄な無精髭の男性だった。

池谷杏樹

あれ? あなた、東雲さんじゃないっ?

東雲あゆ

池谷さん!?

 予想外な人物の出現に、あゆは拍子抜けしてその場で立ち尽くした。女性は池谷杏樹、男性は東屋轟。いずれも黒狛探偵社の社員だ。

東雲あゆ

どうしてこんなところに?

池谷杏樹

あなた達を迎えに来たのよ。ていうか、そっちのお爺ちゃんってまさか……

 そうだった。いまは再会に驚く場面ではない。

東雲あゆ

そうだ、早く救急車を呼んでください! このままじゃお祖父ちゃんが……!

東屋轟

状況がよく分からんが、了解した

 当惑していた轟がスマホで救急車への連絡を始める。

 その間、あゆは二つのことに安堵していた。一つは単純に味方が増えたこと、もう一つはまだ風魔一党の勢力があの部屋から漏れ出していないことだ。

 つまり、紫月と青葉はまだ戦闘の真っ最中ということになる。

東雲あゆ

池谷さん。上の階で葉群君と貴陽さんが戦ってるんです!
早くあの二人も助けてあげてください!

池谷杏樹

貴陽?

 杏樹が意外な反応を示した。

池谷杏樹

誰よ、それ

東雲あゆ

貴陽青葉っていう、葉群君の友達で――じゃなくて、そんなことより早く応援を!

……お前が行ってあげなさい

 猪助が装束の懐から緑色の液体が入った小瓶を取り出す。

相手が風魔一党なら使用する忍具に特製の毒が塗られておる。こいつはその解毒剤だ。これさえあれば毒殺だけは免れる

池谷杏樹

ちょっと、無茶言わないでよ!

 杏樹が驚愕して反論する。

池谷杏樹

あなた、お孫さんを殺し合いの現場に放り込む気? 正気の沙汰じゃないでしょ!

あゆはこのワシ、風魔忍者が一人、
二曲輪猪助の二番弟子。
大切な技は全て教えてある。

だから……ぐぅっ

 猪助が胸を鷲掴みにして、うなされるように唸る。

ワシに解毒剤は効かん。
構わず持って行け

東雲あゆ

お祖父ちゃん……っ

 彼の容体は悪くなる一方だった。毒に侵されているのは本当らしく、皮膚の色も若干ながら緑掛かっている。

 しかし、解毒剤が効かないとはどういうことだろうか。

行けっ……あゆ。お前の大切なものを、お前の手で護ってこい

東雲あゆ

……分かった

 あゆは猪助から小瓶を受け取り、彼の懐に仕舞われていた千本を三本だけ抜き出した。戦場に持参していく武器はこれだけで充分だ。

東雲あゆ

じゃあ、行くね

 身を翻し、あゆはたった一瞬で杏樹の視界から消え去った。

 あれは種も仕掛けも無い、鍛えられた脚力が成した人外の技だ。

池谷杏樹

……わーお

東屋轟

嘘だろ、オイ

 轟が手に持ったままのスマホをぽろりと床に落とした。

東屋轟

あの嬢ちゃん、もしかして本物の忍者か?

当たり前じゃ。何せ、自慢の孫娘だからな

 苦しいながらも気丈に笑う猪助だった。

しかし、愁斗の奴を相手に勝てるかどうか……

池谷杏樹

愁斗? 伊崎愁斗のこと?

 その名前なら杏樹も知っている。何せ、かつてのライバルの一人なのだから。

お嬢ちゃんも奴を知っておったか。これも奇縁という奴かの

池谷杏樹

何でここで彼の名前が出てくるの?

あれはワシの一番弟子でな。まあ、随分と懐かしい話よ

 猪助は遠い目をして呟いた。

でも……どうしてお前が、風魔一党の党首なんぞに……?

 時芳によると、伊崎愁斗は風魔探偵事務所と共に滅び去ったという話だ。

 では、いま紫月の前にいる黒金の忍についてはどう説明するのだろう。

貴陽青葉

どうしてだ

 青葉が紫月の疑問を代弁する。

貴陽青葉

伊崎愁斗はお前の策に嵌まって殺されたんじゃないのか?

北条時芳

私がいつ殺したと言った?

 時芳が小馬鹿にしたように口の端を釣り上げる。

北条時芳

たしかに、彼の事務所を潰したのはこの私だ。でも、わざわざ自作自演までして彼を追い詰めた理由の説明はまだしていない

 言われてみればその通りだ。自身の組が擁する忍者集団と探偵事務所の名前が同じであるだけで、特に時芳と愁斗の間には接点らしき接点が無い筈である。

 ならば、そこには絶対、何らかの込み入った事情が存在する。

北条時芳

東雲宗仁がまだ風魔一党の党首だった頃、当時は奴の跡継ぎを探しておるところだった。病持ちで先もそう長くはないらしく、私も少し焦っていたからな。
そんな時に、私は猪助に弟子がいて、そいつが探偵をやっているという話を聞いたのだ。なんでも彼は忍に通ずる技の数々を駆使して、普通の人間では有り得ない手法で依頼を遂行するという一風変わった男だというのだから、私は話を聞いてすぐに興味をそそられた

葉群紫月

この外道が……!

 紫月は息を荒げて叫ぶ。

葉群紫月

その為に風魔の事務所を
潰したのか……!

北条時芳

妻子の安全を保障するという交換条件を提示してな

貴陽青葉

ものは言い様だな

 青葉が嫌悪感を隠そうともせずに反論する。

貴陽青葉

結局は人質を取って無理矢理従わせているだけじゃないか

葉群紫月

青葉。あのジジイなら
ぶっ殺してもよくね?

貴陽青葉

殺生は好まないが例外もある

 いまこの時、紫月と青葉の中で、北条時芳の死刑が確定した。

 紫月は途切れ途切れの息遣いで愁斗に説得を試みる。

葉群紫月

伊崎さん、あんたっ……このままで――っいいのかよ……

伊崎愁斗

無理に喋らない方がいい

 愁斗が瞑目すると、紫月の脚から急に力が抜け、片膝が地面を突いた。

葉群紫月

……っ!
クソったれ、毒の効果か……!

伊崎愁斗

風魔一党秘伝の毒を経穴に貰った奴が無事で済むと思うか?

葉群紫月

お前……仮にもあの爺さんの弟子なんだろ? だったらこんな真似をして、あの野郎が喜ぶとでも

伊崎愁斗

喋るなと言った

 一瞬で至近距離に詰め寄った愁斗が回し蹴りを放ち、紫月を真後ろに吹っ飛ばす。立ち上がろうとすると、彼は再び接近して紫月の全身を何度も蹴り回し、壁に叩きつけて追加で三本の千本を別の経穴目掛けて投擲した。

 焼けるような痛みが右肩と鳩尾、左足の太腿を暴れ回る。

 青葉がすかさず銃を愁斗に向けるが、いつの間にか放られていた千本が彼女の右肩の付け根と右の太腿、左の二の腕に一本ずつ突き刺さる。

葉群紫月

青葉っ!

貴陽青葉

くそっ……!

 彼女も全身が脱力したらしく、すぐにその場で倒れ込んでしまった。

貴陽青葉

この私が……こんなところで……!

伊崎愁斗

主様からは思う存分苦しめてから殺せと命を受けている

 愁斗があくまで冷淡に言い放つ。

伊崎愁斗

そこで伏して己の死を待つがいい

葉群紫月

貴様ァッ!

 紫月は痛みや焦熱を振り切って無理矢理立ち上がり、刺さっていた千本を全部抜いて、取り落としていた刀を再び握って駆け出した。

 忍の一人が前に出ようとするが、愁斗に止められ、彼が前に出る。

 大太刀とクナイの刃が交差すると、紫月は歯を軋らせながら顔を近づけた。

葉群紫月

よくも青葉を……
お前だけは絶対に
殺すッ!

 鍔迫り合いに勝って愁斗の体を押し飛ばすと、再び踏み込んで渾身の水平斬りを繰り出す。

 刃の軌道上に愁斗の姿は無い。またぞろ姿を見失ったか。

葉群紫月

あッ……!?

 今度は両脚のふくらはぎに一本ずつ千本が突き立った。愁斗が再び時芳の傍に戻り、千本を遠くから投擲していたのだ。

 紫月が再び倒れると、愁斗が懐からもう二本、クナイを抜き出した。

伊崎愁斗

探偵ごっこも貴様らの命も
ここで終わりだ

葉群紫月

誰が死ぬものか

貴陽青葉

全くだ

 傍に寄っていた青葉がふくらはぎの千本を抜くと、紫月は彼女の肩を借りて立ち上がった。本来ならこの時点でお互い死んでいてもおかしくないだろうに、体力が桁違いなのも似た者同士とは、つくづく青葉とは妙な共通点があるらしい。

貴陽青葉

このバカと心中するのは御免被る。死ぬならせめて女子力が高い死に方をしたい

葉群紫月

安心しろ。あの世はお花畑らしいからな。死んだ後ならどんな女だって女子力高いぜ

北条時芳

つくづく呆れ果てたお二人さんだ

 時芳がやれやれと大きな肩を揺らす。

北条時芳

死ぬ間際に追いやられて、何故君達はそうやって笑っていられるというのだね?

葉群紫月

親の教育方針だよ

 紫月の脳裏に、一瞬だけ杏樹の笑顔が浮かび上がった。

葉群紫月

気に障るってんなら、俺の親にクレームでも何でも入れてみろや

貴陽青葉

もっとも、親の電話番号を教える気は無いがな

 青葉が銃を持つ腕を無理矢理持ち上げようとする。しかし、毒の効果が徐々に進行しているのか、もはや立っているだけで精一杯という風情だった。

 もう、二人に戦闘行為を行う気力は無い。

伊崎愁斗

ならば、すぐにお前達の言うお花畑とやらへ旅立つがいい

 愁斗がクナイを二本投擲。標的は紫月と青葉だ。

 黒鉄の先端が、視界の中で遅々として迫る。集中力が極限まで高まると、稀にこうした現象が起こり得る。一説には時間間隔の延長とも言うらしい。

 動け、俺の体。

 せめて、青葉だけでも助けるんだ。

葉群紫月

青葉……っ

 肉体への負担は全部無視だ。紫月は強引に腕を伸ばし、青葉を抱き寄せて、自らの背中を盾の代わりとしてクナイの先端に向ける。

 ふわりと、一陣の優しい風が紫月の頬を撫でる。

 目を固く瞑り、何秒経っただろうか。少なくとも、クナイは既にこちらへ届いている筈だ。なのに、まだ背中には何の痛みも感じない。だからといって、意識が無に転じた訳でも無さそうだ。

 なら、俺はいま、普通に無事なのか?

 目を開け、正面を確認する。

伊崎愁斗

……お前は

 愁斗の鋭い目がさらに細まり、時芳は逆に眠たそうな瞼を急に開いた。

 さっき紫月と青葉の横を通り過ぎた風の正体は東雲あゆだった。いつの間に拾っていたんだろう、さっき紫月が投擲して床に落とした十手が、彼女の右手に違和感無く収まっている。まるで最初から彼女の持ち物みたいだ。

 あゆが左手の指先で摘んでいる二本のクナイを見て、紫月はようやく、自分が助かったという自覚を得られた。

伊崎愁斗

お前は一体、何者だ

 愁斗がさらに声音を低くして訊ねる。

 あゆは湖水のように静かな調子で答えた。

東雲あゆ

通りすがりの
探偵だよ

『通りすがりの探偵』編/#3通りすがりの探偵 その二

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