返答はない。
灯黎、入るよ
返答はない。
どうしようかと思ったが、璃朱は結局引き戸に手を掛けた。
あの時のように本が目に飛び込んでくる。
灯黎は固く目を閉じ、布団に横たわっていた。胸が上下しているところをみると、安静に寝ているみたいだ。
布団に隠れた脇腹は烏月の治療によって化膿は回避している。しかししばらく安静は必須だった。
早く、良くなってね……
頬に触れるとまるで猫のようにすり寄ってくる。
何で……他の城の偵察なんて……
わたしはここでみんなと居られたらいいのに
灯黎の傷、どうだと思う?
なんだよ、何で俺に訊くんだよ
この話、聞かせるなら七瀬かなって
もったいぶらずに言えよ
三冴はまるで告白するか否か考えている少女のように手を後ろで組み、七瀬に背を向けて数歩歩く。
まぁ本音を言えば、俺は誰かに手当させて傷の具合とか観察したかったんだけどね
悪趣味だな
そういう意味じゃない
あの時は烏月が来てくれて助かったよ。部屋に春画隠してる赤毛は頼りなかったし
喧嘩吹っ掛けたいだけなら今すぐ消えるぞ
冗談、冗談
ここからは真面目な話
あいつの怪我、本音どう思う?
どうって……大事なくてよかった、か?
七瀬は優しいね
何だよ、何かあるっていうのか
三冴は顔を無表情に塗り替えると、両手を拳に変え、連ねて何かを持つ仕草をする。そのまま腹部に振り下ろした。
なっ……!
どういう意味か分かる?
拳を当てている位置は……灯黎の負傷箇所と寸分たがわない。
……あいつが自分で怪我をした!?
俺はそういう見解をしてるよ。実際、狛の短刀が一本行方不明だしね。自分の柳葉刀じゃばれるって思ったのかな?
同じ型の短刀も見せてもらったけど、多分当たりだと思う
だいたいにして偵察で怪我を負ったってのがおかしい。どんだけ隠れるの下手なの? それに腹部のあの位置なんて飛んできたとしても避けれるでしょ
…………お前、私情入ってないか?
さぁ
めんどくせ……
確かに飛んできたっていったが……
何故、自ら怪我をする理由がある?
ただ、痛ぇだけじゃねぇか
『姫取合戦をしない貴王姫は存在する意味がない』
ってあいつは言ってたよ、しかも姫ちゃんに向かってね
……!
俺の見解その二。灯黎は姫ちゃんの報復心を煽りたいんじゃないかな
その本人は自傷野郎の看病……っと
ほっんとにむかつくよね
あ、無理に身体起こさなくていいよ
璃朱は手で押しとどめようとしたが、灯黎はそれ以上の力でそれを跳ね除けた。頭をゆっくりと振り、布団の上でぼんやりと座り込む。
身体大丈夫……な、訳ないよね……あ、何か飲み物持ってこようか
立ち上がり背を向けた璃朱の腕を灯黎は掴んだ。
ん? 何かあった?
……ってちょっ、ちょっと!?
引っ張られ璃朱は体勢を崩し、灯黎に覆いかぶさるように崩れる。
間近に紅玉の瞳があった。その瞳は笑っていない。
お前は
はーい、やめてくださいー
!?
病人だからって姫ちゃんを襲っていい口実にはなりませんよ
お、襲ってなんて……
…………
確かに二人の距離は近く、誤解するのは無理もない。しかしそれ以上に三冴は完全にきれていた。
言い訳を重ねようとした璃朱は口ごもる。
一気に空気が張りつめ、息が詰まりそうだ。
さっさとその手離そうか
言いたいことがあったら引き留めただけだ。誤解するな
言いたいことって……姫取合戦やれとかでしょ
姫ちゃん、そいつ危ないから離れた方がいいよ。自分に刃物立てる奴だから
えっ!?
……どこからそんなでまかせを
勘。でもほぼ当たりだと思うけど。あとはあんたから狛の短刀が出てくれば完全に大当たり
そんなものは出てこない
じゃあ捨てたのかな?
とにかく苛々するからさっさと姫ちゃんから離れてくれないかな
何に怒っているんだか
あんたの存在全般?
女の幻影で自分の存在をぶれさせているお前に言われたくはない
途端。
璃朱の身体は突き飛ばされ、床に転がった。
目の前では灯黎の胸倉を掴んだ三冴がいる。顔は今までに見たことがないほど怒りに歪んでいた。
それ以上何も喋るな
こいつに聞かれたくない話か?
灯黎は一歩も引かず、紅玉で璃朱を射抜く。
恐ろしくなったのか、腑抜けた連中だ。姫取合戦は絶対にしなければいけない
狂ってる
どっちがだ
やめてってば!
お前ら何やってんだよ!
璃朱の悲鳴に七瀬が飛んできて、今すぐにも殴りかかりそうな三冴を引き離す。
灯黎の口角が上がった。
お前が一番臆病者だな
なんだよ
触れないくせに
!!
だいたいのお前らの素性は知り得ているつもりだ
だったらなんなんだよ!
こいつは戦闘狂みたいなものだから、殴んなきゃ多分収まらない
収まらないのはお前だろ。そんなに亡霊のことは触れちゃいけない話か。自分自身では大々的に話しているような装いなのに
なにを……七瀬離せ! 貴王姫を
貴王姫の話すんじゃねぇよ!
お前らが憑りつかれているように、おれも憑りつかれているんだ。どいつもこいつもおかしいのは一緒
いいかげんにして!!!!
三人の声が一瞬にして止まる。雫をいたるところから零し立ち尽くす。
灯黎が犬のように軽く頭を振る。眼前には璃朱が桶を脇に抱え立っていた。
みんな、黙って
上がった息は重たい水を持ってきただけではないことを、璃朱は頭の端で理解しているつもりだった。
水を滴り続け黙っている彼らに背を向ける。
姫様命令発動します。全員ついてこないで。次喧嘩してたら魚の入った水ぶっかけるから
仲良くはいお終い、なんて出来ないことは解っていた。
誰も彼も触れちゃいけないところに爪を立てた。
わたしは何も知らない
貴方達の真意も、真実も。
踏み込むことはできず、璃朱はその場から逃げ出した。