ねぇ、烏月

なんでしょう?

とうとうあの台所の鬼の烏月が折れた。

何度も家事をさせろー、と台所の入り口で座り込んでいたらやっと許可が下りた。
豆をさやから取り出す地味な作業だが、それだけで嬉しい。
ぷちぷちと出しながら璃朱は何気ない風を装って烏月に問うた。

貴王姫の真名を呼べるのは、契りを交わした者だけって聞いたんだけど……

灯黎の拒絶、三冴の告白から何日か経過したが城の内部は至って普通に見えた。
多分。
もしかしたら水面下ではぴりぴりしているかもしれないが、ご飯は一緒に食べるし、普通に会話しているところも見ている。それに璃朱自身もあのことはないように振る舞った。灯黎との関係は良好……とは言えないが会話は普通にしている。
三冴も告白してきたがその返答に催促してくる気配はない。
それに甘えて璃朱は答えを先延ばしにしていた。

確かにそんな話も聞きますか、どうしましたか?

あの話って出まかせじゃないんだ

えっと……みんな璃朱って呼んでくれないなーって

恐れ多い! 私は姫様で十分です!

みんなもそんな気持ちなのかな……

少なくとも三冴は許可を出さない限り真名で呼ぶことはないだろう――――それは恋人として彼を受け入れると同義なのだが。
他の者達もこのことを知っていてわざと『璃朱』と呼んでいなかったら……

……!!

こいつが恋人ですって言ってるものじゃない!

何で今まで気づかなかったのだろうと頭を抱えたくなる。

大丈夫ですか、姫様?

う、うん

動揺しすぎて豆を指先で潰してしまった。

三冴は嬉々として真名で呼び始めるよね

場合によっては、

俺はこれから璃朱ちゃんって呼びまーす

と宣告して周るとも限らない。

と、いうより絶対するよね……

全部終わったよ

ありがとうございます

それにしてもいつもみんな分一人で作っちゃうなんてすごいよね

そんなことはございません。皆にも手伝ってもらうときはありますよ

ふーん、みんなに、ね

姫様

みんなにかー、そうなんだねー、わたしは含まれないかー

姫様、今度から一緒にやりましょうか

よし

陰で拳を天に突き立てる。
これで自分の存在意義はひとつ確保できた。

三冴に作ってもらわなくてもいいもん

豆の入ったざるを烏月に渡す。

でも、いつかは返答しなきゃだよね……

簡単には断れない。でも、安易に恋人になってしまってもいけない気がする。

三冴とだったら楽しいかもしれないけど

……味噌が案外ないですな

呟きに振り返ると、足元の戸棚を覗き込んだ烏月がいた。

それに魚も買いにいかないと

そういえば食材ってどうしてるの

背後から飛びついてきた璃朱に烏月はたじろぐ。

さっき買いに、って聞こえたけど?

姫様?

食材調達も手伝いの一部だよね?

…………姫様は台所周りだけで

食材調達も手伝いのひとつですよねー?

…………………はい

外に出られるなんて、楽しみ

窓の外を覗いても森と空ばかりで、その向こうがどうなっているかは知らなかった。
貴王姫が安易に外に出ることないと思うが、なんとなく外の空気が吸いたかったのもあり璃朱の気分は有頂天だった。

あれ?

狛、どうしたの?

半開きの戸から覗けば、狛が物をひっくり返している。

……短刀が

一本足りない……

姫様ー、準備ができましたぞ

ちょっと待ってて! 今行きます!

さっきから探してるの?

うん……一刻くらい

一旦探すのやめてみたら?

失くしたのが短刀なのは気になるが、そんなに探して見つからないとなるとこのままずっと見つからないのではと思う。それならいっそう時間を置いてみるのもいいかもしれない。探しものなんて、案外どうでもいい時にひょっこり出てくるものだ。

そうだ

狛の手を取る。

これから烏月と買い出しなんだけど、狛も一緒に行こう?

お姫様、お外出るの?

うん。狛も一緒だったら楽しいだろうな。それに援護が増えて安心だし

後半の言葉に狛はこくりと頷き、端にまとめて置かれていた短刀を袖にしまった。

さっき五本ぐらいしまったよね? それで足りないって……

姫様、こちらでしたか

狛も一緒に行くって!

手を握り直すとこくこくと頷いてくれた。

わー、すごーい

それはようごさいました。が、あまりきょろきょろしすぎないでくださいませ。姫様とばれたら……

耳元で囁かれ、力強く頷く。
貴王姫とばれたら危険なことは重々承知している。
両脇に心強い味方を携えているが、それでも争いになることだけは回避したい。
狛も警戒ではなく物珍しさにきょろきょろとしていたが、その手はしっかりと握られていた。

烏月さんいらっしゃい

おや? あんたってお父さんだったんかい!?

馴染みの魚屋の旦那の言葉に吹き出したのは狛だった。

……お父さん

いや、あの、違う……

そうなんですー、でもお父様過保護で、全然お料理させてくれなかったんですよ

でも今日やっと一緒にできて

ひ、姫……さま……

食べっぷりがすごいとはきいていたが、まさか娘までいるなんて。可愛いのは分かるが、過保護はよくない

ですよねー

お父さん、ぼく、鯛が食べたい

うっ……

坊や、目利きがいいね。この鯛は上物だよ。食べたらほっぺが落ちるかもね

うっ……ぐっ……

鯛なんて高いもの、買う予定はなかったのだろう。烏月のお財布事情がごりごりと削られているのは璃朱の目からも分かった。

あー……狛誘っちゃったの悪かったかな

でも狛も普段はあんまり要望出さないし、いいか。わたしが手伝えばいいし

鯛、買いましょうか……

お父さん大好き

七瀬や灯黎がありがたみも感じずがつがつ食う未来しか見えないのですがね……

大所帯なんだね

ここにいない奴らが食いましてね

あの亭主さん優しいね

まさか鯛一匹の値段ぐらいでこんなにくれるとは思いませんでしたな。そのうち鯛めしを握り飯にしてお返ししましょうか

烏月の抱える樽の中には、様々な種類の魚が鯛を取り囲むように入っていた。

いつもこんなに買うの?

そうでもございませんよ。今日は手がありますゆえ……少し甘えてしまいましたな

魚の他にも少量の肉と城の庭では取れない野菜。それらを分担して持っている。あとは味噌を買えば終りだった。

あ……

目の端に赤がちらついて、璃朱はそちらの方を向く。
半透明な金魚が棒に突き刺さって泳いでいた。

綺麗

最近赤といったら怖い印象だったが、これは初めてみた灯黎の瞳のように綺麗だった。

おや、飴細工が気になりますか?

綺麗だなって……

もう少し近づいて御覧になってもよいでしょう

烏月に促され、食い入るように飴細工を見つめる。
近くでみると鱗まで描かれていて精巧なのがよく分かる。飴であることを忘れそうだった。今すぐにでも泳いで行きそうだ。

本当に綺麗ですね

きらきらした目で見つめていると金魚の向こうで作り手と目が合った。彼女は持っている半端な飴細工を璃朱の前まで持ってくると、まるで魔術を使うかのように鶴を作り上げる。

すごいです! 凄い! 凄い!!

食べるの勿体ないね

ありがたい言葉だが、食べてくれるとさらに嬉しいな

飴細工師が創り上げた鶴を璃朱に差し出す。
一瞬手に取りそうになったが、慌ててその手を引っ込める。見上げれば烏月と目線が合った。

どうかしましたかな?

……その、お金……

勿論対価は払いますよ。この技術と貴女様の笑顔が見られたら安いものです

何も気にせず、受け取ってあげてくださいませ

指先が飴細工をとる。しかし目線は金魚にも注がれていた。

わたしって強欲だな……

言えば金魚も買ってくれるのかもしれない。さっきの鯛も璃朱が言えば即決だっただろう。

何故か赤に惹かれる。
灯黎の瞳も七瀬の髪も三冴の簪もそれぞれの赤を持っていた。その全てが彷彿できて、金魚から目線が外せない。
烏月の指がその金魚に触れる。それと隣の花も一緒に掴んで飴細工師に硬貨を握らせた。

素晴らしい芸をありがとうございました

いいんや。最近では反応も薄くてね、ちょっとばかし嬉しかった

頭を掻きながら飴細工師はさらに白い花を一輪作って見せた。

姫様、どの形がよろしいでしょうか?

帰り道、じっと鶴を見つめていると烏月に、そう声を掛けられる。

三つも……よかったの?

姫様のことですから、三人で一本ずつとか言い始めると思いまして、先手をとらせていただきました

分かってたんだ……

飴細工が三本でよかった、と内心では思っていた。自分一人で食べるのはいやだし、二本になったところで烏月は狛に食べさせるだろう。

これは三人の秘密にしてはいかがでしょう

うん

じゃあ、わたしその金魚がいい

まるで金魚に口付けするように食べると甘い、幸せな味が広がった。

ただいまー

どこだよ! 予備の包帯!?

手伝わないから分からないんでしょ?

お前だって分かってねぇだろうが!

玄関についた直後に聞こえたのは二人の怒声と慌ただしい足音だった。

何をしておりますかな!?

烏月の声に奥から七瀬が駆けてくる。

灯黎が負傷して帰ってきやがった!

なんですと

こっちじゃ応急処置もままならねぇ、烏月きてくれ

分かりました。姫様は狛と一緒にいてください

灯黎は大丈夫なの!?

とりあえず落ち着くまで部屋にいよ……負傷っていったから、多分大丈夫

灯黎の部屋に駆け出そうとした璃朱を、服を掴んで狛が制する。
こんなところで出しゃばっても何もできない。

そっちは死の道だよ……

今はただ灯黎の傷が軽傷なのを祈るしかなかった。

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