夜の街に、人は居ない。明かりがない事には慣れていたが、今だけは夜でなければ良いと、ケットは思っていた。

そうすれば、少なくとも日が落ちるまでの間、シンはここに留まっているだろうと思うのに。

シンは、ただ夜の街を散歩していた訳ではない。……わざわざ、そんな事はしない。あの時シンは、逃げようとしていたのだろう。

何にかは分からないが、とにかく現実のようなモノから。


あの時、ヴェルツァイェ帝国の夜に、現実から逃げようとした二人の人間と、一匹の猫が居た。そのうち一人は死に、一匹の身体が入れ替わった。


まるで夢のような出来事が、現に起きているのだ。

ケット

はっ、…………はっ…………!!

商店街の方まで向かうと、自分が猫として死を迎えた陸橋を通り過ぎた。

真っ直ぐ先に行けば、その先は深い森だ。暗闇に弱い人間からすれば、迷わずに抜ける事など到底無理な事だろう。


もう、居ないかもしれない。シンは行ってしまったかもしれない。

もしかしたらこれは、ケットが勝手に悪い夢を見ただけで、シンは今でも家に居るのかもしれない。


様々な想いは、頭を過ったけれど――――…………

ケット

――――――――シン!!

ケットは叫んだ。

その先に見えた人影を、とにかくどうにかして引き留めなければと思ったからだ。

暗闇から浮かび上がるように、輝く茶色の髪が映った。振り返った人影は黒い傘を差して、今にも街から出て行こうとしている所だった。

シン

サリー…………いや、ケット…………?

出会えた事に安堵をしたが、シンは気不味そうな顔をしていた。形振り構っている余裕はなく、ケットはシンに向かって走った。


その胸に、飛び込んだ。

ケット

どこに、行くの……?

シン

どこって……ケット、なんで燭台なんか持って……ちょっ、やめっ!! 触ってる、触ってる!!

言われて初めて、ケットは自分が今、何を持っているのかを思い出した。シンの上着に火が燃え移り、そのまま燃え広がっていく。


燃えやすい素材だったのだろうか。シンの身体から光が発され、ケットはパニックに陥った。

ケット

うわあ――――っ!? ご、ごめん!! ごめんなさい!!

シン

と、とにかく水!! いや、雨でいいか!!

燭台を落とし、傘を落とした。シンも真っ青になって、燃え始めた上着を慌てて脱いだ。

水溜りに落下し、燭台の火が消えた。シンは咄嗟に、光を放つ上着を水溜りに向かって叩き付けた。

小さな水溜りだ。一度では消えず、シンは上から何度も水に浸し、ケットも慌ててそれを手伝った。


やがて、光は小さくなって行った。

ケット

…………き、消えた…………

そうして、二人は沈黙した。


傘を取り落とした二人は、既にずぶ濡れだった。ケットもシンも目を丸くして、地べたに座り込んでいた。

ざあざあと、雨の音が響いた。誰も居ない夜の街で、大騒ぎをした子供が二人。

シン

…………ぶっ

ケット

シン?


唐突に、シンが笑い出した。今の、この様子があまりに滑稽だからだろうか。ケットは呆然とシンが笑うのをただ、見ていたが。

シン

いや、君はほんとに……ココアは吹くし、ナイフは逆に持つし……もう……

感情の蓋が外れてしまったのだろうか。シンは柄にもなく大笑いしていた。何か言い返そうかと思ったが、ケットはあまりにシンが楽しそうにしているので、逆に安堵してしまった。

大人達が周りに居る時の、どこか型にはまったようなシンは、ここには居ない。


何故か、そんな事が嬉しくなってしまった。

シン

…………よく、ここが分かったね


ふと、シンがそんな事を言った。

ケット

私、思い出したの。……猫だった時にシンが上着を掛けてくれた時、シンはどこに行こうとしてたのかな、って。そうしたら、急に怖くなって……


シンは黙ったまま、ケットの目を見ていた。

シンが何を考えているのか分からず、ケットは唯、その微笑を眺めていた。やがて騒いでいた空気が落ち着いて、元通りの静かな夜へと変化した頃、シンは言った。

シン

……僕はね、本当は、厳密にはツァイェ一族じゃないんだ。母方の従兄弟が産んだ子供で、親はもう死んでしまったらしい


そういえば、茶会に参加した時、シンがそれに似たような事を言っていた。

ケット

……シンは、王様の一族ということ?

シン

まあ、一応ね。血が繋がっているだけで、王家とは再従兄弟(はとこ)に当たる位置だからなのか、政治に関わるような事はあまりしていないのだけれど

ケット

そうなの? ……よく知らないのだけど、そういうもの?

シン

さあ。うちの国だけかもしれないし、僕にも詳しい事はあまり。……それに、僕は一番関係の無い人間だからね


あの時、『一番関係の無い』と言っていたのは、本当に文字通りの意味だったのか。

シン

ツァイェ家は大きい。王族の繋がりでもあるし、この国を支える存在。だから、跡継ぎが必要だ。……でも、スコット・ツァイェには子供が居なかった。……僕は、政略的な意味があって、そうやって引き取られた

ケット

…………そう、なんだ


シンの事は、これまでにあまり聞いたことは無かった。

シン

別に、そのことを恨んでいる訳ではないよ。……でも、ふと一人になったとき、いつも思うんだ。本当の意味で、自分と繋がっているものは何もない。自分は独りなんだ、って

まるで、ふとすると闇に紛れて、誰からも見付けて貰えなくなるような。

世界中に、たった一人になってしまったかのような。


ケットにも、その経験があった。……だから、シンの言葉にはとても、共感する事ができた。

シン

居場所が欲しくて、夜に出歩くようになったんだ。そうしたら、どこまでも歩いて行けるような気がして――……ヴェルツァイェを出てしまおうかと思った時に、君に出会った

やっぱり。ケットは、そう思った。


シンはあの時、この場から消える為に夜の街を歩いていたのだ。

シン

君の最期を見たとき、僕もこうなるんだろうなって思った。……だから、君と話せて嬉しかったんだ。似た者同士のような気がして。君となら、仲良くやれるんじゃないかって思った

どうして。


どうして、『思った』なのか。『過去形』なのか。

ケットはそれをシンに問い掛けたくて仕方がなかったが、シンは悲しそうな表情の中に、ほんの少しだけ笑みを浮かべて、言った。

シン

でも君はやっぱり、僕とは違うな


彼は、寂しそうな顔をしていたから。

シン

…………君は、過去のサリーが用意した障害をあっさり壊して、人と仲良くなる事の出来る人だと思う。……僕みたいに、いつまでも従順な振りをしている人間とは違うんだって、よく分かった


ケットは水溜りを越えて、シンに近付いた。

シン

僕が居なくても、君は充分やっていける――――


その手を、両手で包み込むように握った。

シン

!?

シンが驚いて、目を丸くした。シンの両手は冷たかったが、それ以上にケットは何か、内側の暖かなものに突き動かされていた。

手を取り合うとは、こういう事なのか。日の当たらない世界で雨に打たれているというのに、ちっとも寒くはなかった。

ケット

ねえ、妖精が現れたら良いのにって、言ってたじゃない?


何の話かと、思っただろうか。

ケット

私は、猫の時に一度死んでいるの。……なのに、人として生き返って、今を生きてる。これって、まるで妖精みたいじゃない?

シン

…………妖精?

ケット

そう。……私はきっと、シンにもう一度会うために、サリーの身体を使ったの。今から生まれ変わるんじゃ、遅過ぎるもの――……一緒に、生きるには


シンは、ケットが言わんとしている内容に気付いたようだった。

ケット

ねえ、もう少しだけ、一緒に居てよ。今すぐ出て行く事、無いじゃない? 私はせっかく身体を貰ったんだから、もっとシンと色々な話がしたいと思うから

何でもない話だ。主人に擦り寄るような気持ちで、一緒に居たいと伝えているだけ。

……なのに、ケットは顔が赤くなってしまった。心臓の動悸は激しくなり、今更ながらにシンの手を握っている事に、恥ずかしさを覚えていた。


シンがどんな顔をしているのか、見るのが怖い。そう、思っていたけれど――……

シン

…………強引だな、君は

シンが笑顔になった事を確認して、ケットも笑った。


分厚い雲は通り過ぎ、雨足は弱くなり始めていた。二人共、すっかりずぶ濡れで、今度はどう親に言い訳をしたものかと困ってしまった。

特にケットは夜間着のままだったので、何も言わずに夜の街を歩きましたとは、どうにも報告がし辛かったが。……結局、言い訳のしようもないので、帰るしかなかった。

父親

頼むから!! …………夜に出歩くのだけは、やめてくれ!!

そうして、二人の長い夜は、終わりを告げた。

朝になってみれば、父親から大目玉を喰らうのは目に見えていたので、仕方がない――……と思ったら、父親は既に弱腰だった。誰も見ていないからなのか、娘に頭を下げていたのだ。


そんな事をされると、本当に悪い事をしてしまったような気になってしまう。

だが、ケットには切り札があった。

ケット

ごめんなさい。……どうしても、用事があって。次からは、しないから……マリウスお父様


シンから名前を聞いておいたのだ。


唐突に名前を呼ばれた父親は、ケットの口からそんな単語が出るとは思わなかったようで、またも目尻に涙を浮かべていた。その様子を見て、腹の底ではしてやったり、と思うケットだったが。





夢か現か分からないような二人の一件のあと、帰り道にシンが言った。

ケット

おやすみ、シン

シン

おやすみ、ケット――――ああ、そうだ

ケット

なに?

シン

これから君のこと、僕の恋人として紹介する事にしようと思うけど…………良いよね?

本当に、人生というものは何が起こるか、よく分からないものだ。

そうは思いつつ、猫の時でさえ体験した事が無かった『つがい』という状況に、内心では胸が踊って仕方がないケットだった。

母親

あなた、ここに居たの……リビングの燭台がひとつ無くて、どこに行ったか知らない?

ケット

…………あっ


ケットの人間としての人生は、まだ始まったばかりである。

10 | 黒猫、決断する

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