トールは身を乗り出して、エヴァリーンの指差す方向を見た。
彼の表情に、たちまち驚きの色が広がっていく。
嘘つき?
そう。あれ見て。
トールは身を乗り出して、エヴァリーンの指差す方向を見た。
彼の表情に、たちまち驚きの色が広がっていく。
花の妖精? まだパレードは始まってないはずじゃ……。
花の妖精に化けて、花冠を配るふりをして財布を盗んでる。
スリか。
人を騙(だま)して、楽に金を得る。詐欺師も、盗人も、エヴァリーンにとっては、忌(い)み嫌う相手である。
長年の経験から、詐欺師の立ち回り、手口は完璧に頭に入っている。遠くからでも、盗人の姿。手口がはっきりと分かる。詐欺令嬢の名は、伊達(だて)じゃない。
警察に連絡する。
駄目。その間に逃げられちゃう。
危ない、エヴァリーン! もうパレードが……。
スイッチの入ったエヴァリーンは、聞く耳を持たない。脱兎(だっと)のごとく、その場を駆け出した。
パレードを見物するために集まった人ごみを掻き分けて、エヴァリーンは犯人を捜した。途中、妖精と接触した人に財布がすられてないか確認したところ、案の定、鞄から財布や高価な品が消えていた。
エヴァリーンは目くじらを立てて犯人の姿を探した。慣れない人ごみに、苦戦していたその時、
スリだ! あっちに逃げたぞ!!
甲高い悲鳴が上がり、人の波が声のした方へと流れた。
エヴァリーンは、流れに逆らって進んだ。何故なら、スリによくある手口の中で、犯人が自らが人の気を逸らすため、逃げる方向とは逆の方角に大声をあげたり、指を指したりするからだ。
エヴァリーンの予想は当たっていた。衆目が集まるのとは逆の方向に、先ほどのスリの姿を見つけた。後姿を捉えたエヴァリーンは、足取りを速め、手首を掴んだ。
盗んだものを返しなさい!
見知らぬ相手に、いきなり核心を突かれ、犯人は動揺した。逃げようとする相手に掴みかかって、髪を掴んだ瞬間、鬘(かつら)がずるりと脱げた。
男!?
長い鬘の下から覗いた顔は、エヴァリーンよりもさらに年下の少年だった。驚愕するエヴァリーンの隙をついて、少年が逃げた。慌てて後を追おうとすると、首筋に冷たい感触が当たった。
動くなよ。声も出すな。まったく、余計なことしてくれやがって。
しまったと、声をあげることは出来なかった。
犯人は二人組だったのだ。片方が盗みを働いて、もう片方が見張りをする。ある程度、スリを繰り返したら、まったく別の場所でスリだと叫んで人々の注意を逸らす。そうして、ばれる前にここから逃げ出す。
迂闊(うかつ)だった。相手が一人だと思って飛び出してきた自分の軽率さを嘆く前に、エヴァリーンは口を開いていた。
落ち着きなさい。事態が深刻になるわ。冷静に話をしましょう。
盗人にも事情がある。母の言葉に倣(なら)って、エヴァリーンは犯人を諭す。下手に抵抗すれば自分の身が危なくなる。だからといって、このまま大人しく人質になる気もない。
数々の修羅場(しゅらば)を潜り抜けてきたおかげで、肝は据わっている。妙に落ち着いている人質に、刃物を突きつけた男の方が驚いていた。
うるさい! さっさと歩け。
今回は火に油だったようで、落ち着きを失くした男が、エヴァリーンを急かした。
連れてこられたのは、裏路地に入った場所にある古びた建物だ。エヴァリーンは、縄で縛られ、階段を登ってすぐの部屋に押し込められた。
まいったわ。
何も言わずに飛び出してしまった。助けが来るなんて、都合のいい展開は期待しない。
犯人の顔を見てしまった以上、ここから無事で出られる可能性は低い。
エヴァリーンは、芋虫みたいに床に這いつくばって、耳を澄ませた。
すると、野太い男の声が響いてきた。上機嫌そうな口ぶりから、かなりの人がスリの被害に遭っていることが窺えた。
盗った品を持って逃げる気だ。察したエヴァリーンは、扉を開けようと不自由な身体を目一杯動かして頑張ったが、扉には外から鍵がかかっていた。
遠くから時計塔の鐘の音が聞こえてきて、エヴァリーンは重い息を吐いた。
パレードが始まった。辺りからは、陽気な音楽と人々の歓声が聞こえてくる。
花の妖精の祝福はもう無理だろう。花冠の恩恵にあやかろうと、短いパレードの時間に、たくさんの人が集まるのだから。
トールは、どうしているだろう。
止めてくれた。それを振り切ってまで、危ない橋を渡りにかかった。
見捨てられても仕方ない。スリを見つけて飛び出す令嬢なんてと、呆れられたかもしれない。
トールも花祭りを楽しんでいた。せめて、彼だけでも楽しい思い出が作れたらと、雰囲気を壊しておきながら、都合のいいことを思ってしまうのだ。
重苦しい息を吐いた時、ふいにコンコンと音が聞こえた。
誰かが窓を叩いているのだと、すりガラス越しの人影で分かった。
エヴァリーン、大丈夫!?
トール!
大丈夫そうだね。怪我はしてない? 良かった……。
強張っていた表情が、解れた。
トールは窓ガラスを割って中に入り、素早く戒めを解いてくれた。
エヴァリーンに怪我がないのを確認すると、彼はほっと息を吐いた。
はあ、もう。本当に無事で良かった。寿命が縮んだよ。
来てくれるとは思わなかった。
思わずそんな呟きが漏れた。
母を助けてばかりで、しっかり者だと家人は褒めてもくれた。自分でもそんな自負があったから、ある程度無茶をしてもなんとかなると思っていた。
どうにかならなくても、自己責任。自分の力でどうにかする。覚悟はしていた。
まさか再会して日が浅い幼馴染が、危険を冒(おか)して助けにくるなんて想像もしていなかった。
物語みたいなことが、本当にあるなんて。一瞬、夢と現実が分からなくなりそうだった。
当たり前だ。僕は君の婚約者だ。君がどんな事件に巻き込まれようと、必ず助ける。
……ありがと。
所詮、仮初の婚約者に過ぎないけれど、トールの気持ちは素直に嬉しかった。
いつの間に、こんなカッコよくなったの。エヴァリーンの無謀さを責めたりしない。それでいて、必ず助けるなんて。
傍にいられなかった月日が、彼を変えた。そう思うと、別れていた時間が無性に惜しいのだった。
気恥ずかしく、トールの顔を直視できずにいると、遠くの方で聞きなれた鐘の音がした。
まずいな。パレードが終わる。
エヴァリーンの手を引いて急かすトールの服の裾を、彼女はくいと引っ張って聞いた。
ねえ、犯人たちは!?
一緒に来た警察に人に任せてあるよ。多分、もう捕まってるよ。
どこまでの抜かりない幼馴染だ。エヴァリーンなんかより、ずっと大人になった。
小さかったはずの背中は、大きく成長し、エヴァリーンは頼もしいと感じた。
窓から身を乗り出すと、ロープで縛られて連行される犯人の後ろ姿が見えた。
安堵したのもつかの間、トールは大きく窓を蹴破ると、徐(おもむろ)にエヴァリーンを抱えた。
突然横抱きにされて、エヴァリーンは目を見開いた。
ちゃんと掴まって。
言ったその場から、トールはエヴァリーンを抱えたまま窓から飛び降りた。驚きすぎて、開いた口が塞がらない。
こっちだ。急げばまだ間に合う。
エヴァリーンの手を引くトールは、子供に戻ったみたいで、楽しそうだった。エヴァリーンは大人しく付いていくことにした。
迷路のように入り組んだ裏道を、自分の家の庭のようにすいすい進んで、幾度か角を曲がったところで、トールは足を止めた。
間に合った……。
わあ!
肩で息をしていたエヴァリーンは、眼前の光景を見て感嘆の声をあげた。
パレードは終盤に差し掛かっていた。丁度、花の妖精たちが、花冠を配りながら、通りを歩いており、トールに連れられたこの場所は、花の妖精たちの目の前だ。幸い、人もそう多くない。目の前とまではいかないが、可憐な妖精たちの行き交う姿を、ばっちり見ることが出来た。
向こうの通りは露店が多いから、人が集まるんだ。こっちなら、もう少し近くで見られるだろう。
絶対に、間に合わないと思ったから嬉しい。まあ、私のせいなんだけど。
気にしないで。それに、何があってもエヴァリーンに見せるって決めてた。必死で頑張ったんだから、褒めてよ。
はいはい。
よく出来ましたと、手を伸ばして頬を撫でた。身長差があるので、小さい頃のように、頭を撫でてあげることは出来ないから、その代わりだ。
すると、トールは顔を真っ赤にした。
照れてる。女性慣れしていそうなのに、意外だった。照れた横顔は、子供の頃の面影があって可愛いと思ったのは、エヴァリーンだけの秘密である。
変わったのは、見た目だけで中身はあまり変わってない。
自分の知る幼馴染の一面を垣間見て、猜疑心(さいぎしん)が綻んだエヴァリーンである。
お兄ちゃん!
パレードに見入っていた二人は、可愛らしい声にふと視線を落とした。
そこには、花の妖精に扮した少女がいた。
はい、どうぞ。
薄桃色と白の花で編まれた花冠を渡すと、少女は人ごみの中へ消えた。
残された二人は、揃って瞬いた。
驚いた。パレードの中心からは結構距離があったのに。
わざわざ、ここまで来てくれたのかしら。
お礼くらい言わせて欲しかった。煙のように姿を晦ましてしまったので、もう叶わない。
案外、天から舞い降りたキューピッドだったりしてね。
まるで乙女みたいね。そんなはずないでしょ。
そうかな? いいと思ったんだけど。
仮に少女がキューピッドだったら、エヴァリーンの赤い糸の先を誰に繋いでくれたのか。
もしも、仮初の婚約者と繋げてくれていたら、自分はどんな反応をするだろうか。
みたいような、みたくないような、何とも言えない気持ちにさせられる。
はい。これは君に。
トールは、貰った花冠をそっとエヴァリーンの頭に被せた。
とくとくと、心臓が早鐘を打ち始める。
僕の想いが届きますように。いますぐじゃなくても、いつか。
全身が真っ赤になりそうだった。
そんな風に言われると、くすぐったい。仮初の関係だと割り切っている自分と、淡い期待を抱く自分。自分の心が、どっちなのか、分からなくなる。
ただ、一瞬夢見てしまった。
赤い糸の先に、トールがいてくれたらと。