十二月半ば。
 早いもので、宇賀月へきてから、もう二ヶ月半が経とうとしている。
 なかなか上達しない和奏の状況を鑑みて、総司は降霊を提案してきた。

降霊? 毎日してるじゃん

稽古じゃなくて、仕事としてやるんだ。ちょうど、手頃な依頼がきている

仕事ォ?

うん。これを見て

 総司は机の上に地図を広げると、渋谷近辺を指でさした。

一週間前、取り壊し中の旧家の屋敷で、足場の崩れる事故が起きた。以前から不審な事故が続いていて、今回はとうとう人が死んだ。工事はいったん中止されている。敷地内からこんなものが見つかった

何これ?

 薄汚れた、白い石のようだ。

犬の骨だ

ッ!?

 指でつついてた和奏は、音速で指を離した。

庭に埋められていた。少なくとも、十数匹は埋められていたようだ

えっ

歴代の家主に愛犬家が多かったらしく、ペットの亡骸を、家の敷地に埋葬していたらしい

同じ人が、十匹飼っていたわけじゃないの?

違う。四〇年前に建てられてから、同じ血筋の中で、家主は何度か交代している。依頼主は、直近の家主で七〇過ぎの女性だ。彼女も最近、愛犬を亡くしたばかりで、やはり庭に埋めて供養したという

工事のせいで、お墓が荒らされちゃったのか

いや、事前に掘り起こして場所を移したそうだが、全部は回収できなかったのだろう

降霊って、まさか……その犬の霊を降ろして欲しいとか?

そうだ

嘘でしょ?

いや、本当。工事現場で起きた事故は、犬の霊の仕業ではないかと、依頼主は疑っている

降ろせたとして、犬でしょ? どう会話すればいいの?

言葉がなくても、意志疎通はできる。勉強になると思うよ

その人は、犬を降ろして何を知りたいの?

依頼主は、工事を進めていいものか、犬の意志を訊いてみたいそうだ

えぇ?

 総司の話を総括する。
 依頼主の女性、目黒亜紀は、屋敷の取り壊しを巡って息子夫婦と揉めていた。
 今回の事故は、眠れる犬達の仕業に違いない、と工事中の家屋に籠城して訴えたという。
 息子夫婦が説得を続けた結果、ならば犬に訊いてみる、と亜紀は言い出した。
 ペットにお窺いを立てるなんて、と息子夫婦は一笑に伏したが、亜紀は頑として譲らず、今度の日曜日に降霊会を開く運びとなった次第である。

ウーン……

 こめかみを押さえて、和奏は唸った。非常に、面倒でややこしそうな展開だ。

総司が降ろせばいいと思う

それじゃ、和奏の修行にならない

うぅ~……不安しかない

僕も進行役として傍にいるよ。これも愛の共同作業だ。一緒に頑張ろう、和奏

愛ッ!?

 和奏は飲んでいた茶を吹き出しかけた。

この二か月半の間で、和奏の剣技は見違えたと思う。さすが僕の嫁

ッ!?

 定期的に総司は夫婦トークを挟んでくる。真顔でいうから、ジョークなのかそうでないのか、いまいち区別がつかない。

どうした、和奏?

 むせている和奏を、総司は不思議そうな瞳で見ている。

いや……

動物の思念は、人間よりも純粋で呼びやすい。自分と向き合う瞑想より、やりやすいと思う

私一人でするの?

もちろん、僕も手伝う。手順はもう頭に入っているだろう?

そりゃぁ、毎日やってるけど……

よし、次の日曜だ

 もはや決定実行のようだ。総司は、一度決めたことは必ずやり遂げる男である。溢れ出る行動力と、権力とおまけに財力まで持ち合わせているからタチが悪い。諦め半分に、和奏は頷いた。

 日曜の深夜〇時。
 渋谷の中心から少し外れた所にある、件の工事現場に、降霊の関係者が集まった。
 壊れかけの屋敷に踏み入るのは、目黒夫妻と祖母の目黒亜紀、和奏と総司の五人だ。その他の人間、宇賀月の護衛と秘書達は外で待機している。
 子供と侮っているのか、目黒夫妻の胡散くさそうな眼を見て、和奏の心は早くも折れそうだった。
 だが、おあつらえむきに外は雨。
 間もなく嵐になる。
 天候は荒れ始め、湿った空気が、半壊した座敷の中に吹き込んできた。
 十畳はある座敷の隅に、蝋燭が灯された。
 部屋の真ん中で風呂敷を拡げて、蝋燭と神籬(ひもろぎ)の骨を置くと、五人は輪になって囲んだ。基本となる招霊の輪である。
 しとしと降る雨音が聴きながら、和奏はいつも稽古でしているように、深呼吸を繰り返して心胆を整えた。
 神妙な面持ちの亜紀、小馬鹿にしたような眼の目黒夫妻。いつもと全く同じ、澄まし顔の総司を順に見て、唇を割る。

言葉は発せず、静かに瞑想をしてください。この家の、以前の姿を思い浮かべながら、会いたい者の名を、心の中で呼びかけてください

 あらかじめ用意されている台詞を、それらしい顔つきで和奏は諳んじた。
 空気が冷えてくる。
 部屋の隅から、蟠った何かが近付いてくる。降霊の輪に引かれて、無関係な霊や思念が集まり始めた。

 怖いのは苦手だ。いつもなら眼を瞑ってやり過ごすが、今夜ばかりは許されない。和奏は意識を集中した。
 降りてくる――蝋燭に灯った朱金の焔は、青白へ変わった。

……へぇ、よくできているな

 目黒清は感心したような声を漏らした。

お静かに

肌寒いな……冷房をつけているのか? 切ってくれないか?

霊が降りてきます。お心を静めて、迎えてあげてください

 風が流れる。揺らめく焔に、白い体毛の老犬が映った。

フゥちゃん?

なっ

きゃ

 全員が驚愕の声を上げた。和奏も然り。降霊が本当に成功するとは思っていなかった。
 全身の血液が駆け巡り、心臓が煩いほど鳴っている。
 けど、心は凪いでおり、千里を視通せそうなほど、思考は冴え渡っている。稽古では一度たりとてなかったことだ。
 亜紀は眼に涙を浮かべて、愛犬の姿を見つめている。
 視界の片隅に蠢く瘴気を捕えて、和奏は怖気をふるった。慄く肩を、総司は抱き寄せる。

順調だ。このまま、落ち着いてやればいい

うん

 落ちついた指示に勇気をもらい、深呼吸を一つ。

亜紀さん、フゥちゃんは伝えたいことがあるようです。判りますか?

 亜紀は幻灯に眼を凝らして、皺の寄った眼尻に涙を滲ませた。

この子は、本当に優しい子なの。私が一人ぼっちだと思って、心配しているんだわ

 上品なハンカチで口元を覆い、嗚咽を震わせる。清は、面倒そうな顔を隠そうともしない。

母さん、しっかりしてくれよ。仕掛けがあるに決まっているじゃないか

お静かに

君、困るよ。こっちは、高い金を払ってるんだ。余計な演出はいいから、工事が無事終わるよう、ここを祓い清めてくれ

お静かに

 絶対零度の視線に気圧されて、清は忌々しそうに口を噤んだ。

フゥちゃん、フゥちゃん……ッ

 亜紀は、はらはらと涙を零している。犬は、哀しそうに鼻を鳴らした。死して尚、主人を見つめる一途な眼差しに、和奏の心も震えた。
 もらい泣きしそうになり、唇を噛みしめていると、犬は和奏を見た。純粋で且つ、賢者のように深淵な瞳をしていた。
 この純粋な魂が、工事を妨げ、人を傷つけたとは思えない。
 この犬は、大好きな主人のことが心配で、傍を離れられずにいるだけだ。
 それよりも――

 外から流れてくる、淀んだ冷気の方が気になる。蝋燭の炎は翳り、部屋の梁はギシギシと鳴り始めた。
 霊象を目の当たりにして、和奏の呼吸は乱れた。総司が蝋燭を暗がかりに向けると、

きゃぁッ

うわッ、なんだ

 一瞬、夥しいの数の亡霊が、その場にいた全員の眼に映った。

 犬は威嚇すると、敢然と悪霊に向かって駆け出した。

フゥちゃん!

 悪霊は、震え上がりそうな唸り声を発すると、暗がりに姿を眩ました。同時に犬の姿も消える。
 辺りはシンと静まり返り、蝋燭の焔は朱金に戻った。

 目黒夫妻は、腰を抜かしていた。蒼白な顔の亜紀を見て、和奏は気を引き締めた。呆けている場合ではない。

フゥちゃんは、何も悪さをしていません。亜紀さんのことが心配で、今も助けてくれたんですね

 亜紀は、堰を切ったようにむせび泣いた。

ごめんね、ごめんね、フゥちゃん。大好きなお庭を、こんなにして……堪忍ね

 降ろした犬の霊は還り、降霊会はお開きとなった。 
 亜紀は、工事を妨げる霊象が、愛犬の仕業でないと知り、安堵したようだ。和奏が恐縮するくらい、何度も深く頭を下げた。
 目黒夫妻はよほど怖い思いをしたのか、文句もいわず、逃げるように屋敷を出ていった。
 あの優しい犬は、もうしばらくは亜紀の傍にいるかもしれない。一途な眼差しで暖かく見守り、やがて天の原に還るだろう。

 屋敷に戻った後、二人はそれぞれ湯を浴びて、寝間着に着替えた。今夜はもう、泥のように眠らせて欲しい。
 部屋に戻ろうと廊下を歩いていると、階段下で総司に遭遇した。なんとなく、そのまま立ち話を始める。

降霊がうまくいってよかったけど……

 この先のことを考えると、和奏は憂鬱だった。
 霊象の原因は、庭に埋められた犬の霊ではなかった。あの家には、もっと悪意ある、手ごわい怨霊が巣食っているのだ。

今夜はよくやった。上出来だと思う

 晴れない表情の和奏を、総司は労った。

今夜の件で、宇賀月の調査部隊が動く。彼等の報告を待とう

うん……

 恐らく、退魔が必要となるのだろう。その時は、和奏も同行するのだろうか……

疲れたでしょ。ゆっくり休むといい――和奏?

 気付けば、総司の袖を掴んでいた。

えっと

どうした?

……なんでもない

 袖から手を離す。危うく、とんでもないお願いを口にするところだった。

恐くて眠れない?

ッ!!

 図星を言い当てられて、和奏の視線は泳いだ。

添い寝する?

い、いい

遠慮しなくていい。どうせ、もうすぐ夫婦になるんだし

いやいやいや

恥じることはない。僕も小さい頃は、一人で寝るのが怖かった

 意外すぎて、咄嗟に言葉が見つからなかった。

眠るまで、話し相手をしようか?

総司でも、恐いことがあるの?

小さい頃は、恐がりだったよ。でも仕事だし、早く恐怖を克服したくて、死にもの狂いで修業した

……

和奏が今経験していることは、僕も一度は通った道だ。今夜は本当によく頑張ったと思う

ありがとう

 面と向かって評価されると、恥ずかしい。

気が紛れるなら、眠るまで話し相手になるよ

 気遣いの滲んだ申し出に、和奏も素直な気持ちで頷いた。

じゃぁ、お願い

判った

 和奏がベッドに横になると、総司は壁を背にして胡坐をかいた。そのままの姿勢で、とりとめのない会話を続ける。

そういえば、雑談らしい雑談って、今までしたことなかったね

そう?

そうだよ……

 一緒に暮らして二ヶ月以上経つのに、今さら、好きな音楽や漫画の話をしたりもした。総司が漫画を読むことも意外で、話は弾み、むしろ眠気は遠ざかった。
 今夜経験した恐怖を忘れて、時に笑いながら、おしゃべりに夢中になる。
 ひとしきり笑うと、最後の体力を使い切ったらしく、圧し潰されそうな疲労と眠気に襲われた。

お休み、和奏……

 深海に沈み込むように、意識は落ちていく……眠りに落ちる瞬間、額に暖かくて、柔らかなものを感じた気がした。

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