宇賀月の調査部隊は仕事が早い。
 先日の降霊会で起きた霊象に関して、詳しい調査が三日と経たずに上がってきた。
 霊象は集合型霊魔の仕業と判明。降霊会の残滓から、核がどこに潜んでいるか、およその位置も掴んだ。

 工事現場の傍、開渠――地上に面した、給排水を目的とした水路――は蓋のついた暗渠へと続いている。その奥まったところに、諸悪の核が溜まっているらしい。
 水は、古来より様々なものを運んでくる。
 郊外から流れてきた上流の水は、渋谷の雑多な思念に塗れて化学反応を起こし、猖獗を極めた霊魔を生じたのだと調査部隊は報告した。
 集合型霊魔は、放っておけば肥大化し続ける。
 報告を訊いたその日に、宇賀月静流は戦闘部隊に大規模退魔の号令を発した。和奏の初陣である。

 十二月二十五日。
 黒塗りの高級車が、暗渠近くの公園で停車した。
 中から現れたのは、袴姿の和奏と総司だ。和装だが、足は頑丈且つ軽量な編み上げ靴を履いている。宇賀月の伝統的な戦装束で、腰には退魔刀を佩いていた。
 現場には、既に宇賀月の関係者が到着していた。
 彼等は、闘いの火蓋を切る陽動部隊、或いは、斥候・環境警備を務める後方支援部隊だ。
 今夜、暗渠の周囲は立ち入り禁止区域に指定されている。境界に人を立たせて、宇賀月は厳戒体勢を敷いていた。ここまできたら、和奏も腹をくくるしかないのだが、

恐いよぉ……

 和奏は涙目でその場にしゃがみこんだ。もう一歩も進みたくない。ここまでやってきたことが壮挙だ。

いくぞ、嫁

 総司は容赦しない。

……

 後方支援ならまだしも、最前衛に立たねばならないのだ。修行を始めたばかりの和奏には、荷が重すぎる。

心配するな。僕がついている

 自信に満ちた表情は頼もしいが、少し憎たらしくも見える。

でも……

よし、行こう

うぅ……

時間がない。そろそろ持ち場につこう

 立ち上ったものの、怖くて一歩も動けない。視界の端に涙が滲む。俯いて顔を隠すと、そっと抱きしめられた。

!?

大丈夫。きっとうまくいく

……どうしても、行かないと駄目?

うん

どうしても? 嫁がこんなに泣いているのに?

かわいい泣き顔だと思う

!?

 答えになっていない。真顔で答える端正な顔を、ガン見してしまう。
 力の抜け落ちた和奏の手を、これ幸いと総司は引っ張った。手を引かれるまま、暗渠に向かって歩いていく。

……

和奏。宇賀月に代々伝わる力は、超常の神秘だ。君は、もっと自信を持った方がいい

 悲壮感を漂わせていると、慰めの言葉が聴こえた。

ないよ、自信なんて……

 和奏は悄然と俯いた。視界に退魔刀が映る。宇賀月に伝わる由緒正しい破魔の刀だ。実戦で振るうのは、今夜が初めてになる。
 震える手をとられた。何事か見守っていると、総司は甲に唇を押し当てた。

ちょ、ちょっと

和奏はとても臆病で、闘いを厭う。だから僕がいるんだ。何があっても君を守る。絶対に

――……

 総司は、いつだって真剣だ。こんな時だというのに、不覚にも胸が高鳴った。

うわぁっ!?

 空が堕ちてきたのかと思った。空を仰ぐと、鬱蒼とした黒い塊が、天に伸びあがった。

始まった

 陽動部隊の仕業だ。暗渠に清めの火を焚いて、霊魔を炙っているのだ。鬱蒼とした木立の奥に、緋赤の筋と、立ち昇る煙、黒い瘴気が見える。

や、やだぁッ

 怨霊は怨嗟をまき散らしながら肥大化してゆく。不気味な影を見て、和奏は怖気をふるった。

核が見当たらないな

え?

やはり暗渠に隠れているようだ。和奏、下がって

 総司は背に和奏をかばい、刀を抜いた。蒼白い焔が刀身から立ち昇る。

かしこみかしこみ申す、千魔を裂いた刃先に守護を。弧を描き、宇賀月の次代を守り給え

 刃先を下に向けて、弧を描くように身体ごと回転する。二人の周囲から清浄な気が立ち昇った。

 忍び寄る瘴気は、神聖な円陣に阻まれ、忌々しそうに霧散した。

いってくる。和奏、刀を抜いておいて

え?

 止める間もなく、総司は祓い清められた輪を抜けて、霊魔に向かって凛然と駆け出した。

総司ッ

 青い閃光が闇を斬り裂いた。

 総司だ。姿は見えないが、襲いくる瘴気を次から次へと斬り伏せ、矢のように駆けていく。

強い。彼がこれほど強いとは思わなかった。

総司ッ!!

 しかし、悪霊は衰えることなく、無尽蔵に沸いてくる。数が多過ぎる。後方支援は何をしているのだろう? ここには総司と和奏しかいないのか?

早く加勢しないと、総司がっ

 闇に呑まれた総司の姿が、脳裏に蘇る。
 焦燥に駆られて、腰に佩いた刀を抜いた。落ち着かなくては。稽古を思い出しながら、いつものように心胆を整える。
 両手で柄を持ち、斜めに構える。ありったけの勇気を振り絞って、円陣を飛び出した。
 霊魔と眼が合った。和奏を見てニタリと笑う。

怖い!

 けど、立ち止まっては駄目だ。総司の消えた黒暗淵に向かって、全速力で駆けていく。

 背中を押される――振り向くと、無数に伸びる手が、背を押していた。

やだやだっ

 夢中で刃を振るった。怖気を我慢して走り抜ける。心臓が破れそうだ。

 息が限界に達する頃、急に視界が開けた。
 巨大な暗い穴が足元に広がっている。暗渠の境目だ。足で払った砂がパラリと深淵に吸い込まれていく。

総司!?

 呼びかけは、暗渠に反響した。底の見えない闇が恐ろしい。この先に、本当に総司がいるのか?

総司ぃ……

 恐くてたまらない。どうすればいいか判らない。暗い穴の底に、ぽろぽろと零れた涙が落ちていった。
 不気味な足音に振り向くと、先ほど斬った霊魔は、早くも修復を始めていた。

ッ!!

 唐突に、視えた――無尽蔵に湧き出る瘴気は、幻影にすぎない。
 本体がどこかにいるはずだ。核を斬らないと、こいつらはいつまでも湧いて出る。
 そうか。恐らく、総司も核を探して暗渠へ飛び込んだのだ。
 いよいよ覚悟を決めなければならない。
 刀を腰溜めに構えて、丹田に力を入れる。稽古の通りに。息を吐いて、身体の深いところにまで、意識を潜らせていく。

かしこみかしこみ申す、宇賀月の守護精霊よ、刀に降り給え

 呼びかけに呼応するかのように、刀から青い焔が立ち昇る。刀身は、羽のように軽くなった。霊が降りてくる――

共に悪しき霊魂を祓い給え

 身体中の血液が駆け巡り、心臓が煩いほど鳴っている。なのに、千里を視通せそうなほど思考は冴えていて、周囲の音が消えていく。
 極限まで集中は高まり、遂に暗渠に潜む核を、はっきりと捕えた。霊魔を斬り伏せながら、距離を詰めていく総司の姿も視える。

いく!

 決意表明のように口にすると、タン、地面を蹴って暗渠へ飛び込んだ。
 水飛沫を散らして、地面に降りる。ひんやりとした暗闇に、水のしたたる音。この先に、霊魔の核と総司がいる。

幽けき寂滅の光よ、刃先を照らし給えッ

 正面からやってくる不気味な影を、瞬閃で斬り裂いた。背後に迫る影も、振り向きざまの一閃で斬り伏せる。

 左右の挟撃も、殆ど同時に薙ぎ払う。破魔の刃は、闇を照らすように月色に輝いた。
 神懸かりの剣戟は、この身に降ろした精霊のおかげだ。なんという力だろう。

 これが、宇賀月の剣舞!

 秘匿するわけだ。これほどの超常が世に知れたら、大変なことになる。
 夥しい霊魔と瘴気に囲まれていても、心は凪いでいて、恐怖から遠ざかっていられる。
 この身に降ろした精霊に導かれるように、迷わず暗闇を駆けた。
 駆けて、駆けて、駆けて――ようやく総司に追いついた。
 隘路で正面衝突を強いられ、核に迫れずにいるようだ。
 無尽蔵に沸いて出る霊魔を捕縛せんと、総司は刀を振るいながら印を結び、高度な退魔結界を完成させようとしていた。

総司ッ!!

和奏! 視えるか!?

 核なら視える。しっかと頷くと、総司は目線だけで合図した。
 作戦はこうだ――結界が完成すれば、核に続く道が開ける。総司が結界を維持している間に、和奏が本体を斬り伏せる。

 正確に理解して、総司の眼を見て頷いた。こんな時だというのに、総司はびっくりするほど、優しい笑みを浮かべた。次の瞬間には、霊魔を見据えて形の良い唇を割った。

露払う東風よ、天の原の大軍勢を運び給え。魔滅びの力、悪しき霊にどよもせ! 刻め――退魔結果ッ!!

 蒼い焔が燃え上がる! 肥大化した霊魔は、総司の言霊に縛られ、巨躯を縮こませた。核へと続く道が開ける――今だッ!!

いけ! 和奏ッ!

 とっくに駆け出している!

えェィッ!!

 精霊を宿した刃を、黒い瘴気に突き立てた。

 耳を聾する断絶魔が反響する。鼻をつく魂の焦げる匂い。 

 肌が総毛立つような、哀しい叫び声。これでは、魂を救済しているのか、殺しているのか区別がつかない。
 身体に走る痛みと、彼等の痛み。どちらが重いのだろう? そんなことを考え、気付けば頬を涙で濡らしていた。

和奏ッ、斬れ!!

 脊髄反射で刃を振り下ろした。

うぁ――ッ

 閃光が横ざまに貫いた。

 刀を持つ手に、霊魔の魂魄が崩れていく感覚が伝わる。

 平衡感覚を崩した和奏を守るように、青い焔は、襲いかかる瘴気を弾いた。
 よろめいた背が壁に当たる。違う、総司だ。後ろから肩を支えられた。

総司……

よくやった。阿吽の呼吸だったな。さすが僕の嫁

 ぽん。頭を撫でられて、一瞬で視界が潤んだ。眼に力を入れて、慌てて涙腺の螺子を締める。

嫁じゃないッ

くっ

 総司にしては珍しく、声に出して笑った。

総司、怪我は?

平気。和奏は? 怪我してない?

……

 ふるふると、首を左右に振る。

こんなこと、いつもしてるの?

時々ね

……辛くないの?

 意表をつかれた総司は、珍しく言葉に詰まった。

誰かがやるしかない。天地開闢から始まった因果だ。それに、一人でやるわけじゃない

 じっと見つめられて、今度は和奏の方が言葉に詰まった。

帰ろう

 肩を抱き寄せられた途端に、膝が震えた。今さっきの剣戟が嘘のように、身体に力が入らない。
 地上へ出ると、すぐ傍に車が停まっていた。宇賀月の戦闘員達は、和奏を見て安堵の表情を浮かべた。心配してくれていたらしい。その表情を見て、和奏の胸も暖まった。
 総司と共に車に乗り込むと、殆ど震動せずに発進する。流れゆく景色を眺めながら、無事に終わったのだとようやく実感が沸いてきた。

 宇賀月本家。
 湯を浴びた後、和奏は静流の部屋に呼ばれた。
 静流は二十七インチのトリプル・ディスプレイに視線を注ぎながら、煙草盆を引き寄せ、マッチを爆ざして火を点けた。

よくやった

 上空から撮影した映像を一通り見終えて、静流は紫煙をくゆらせながら微笑んだ。厳しい祖母にしては、柔らかな微笑だ。

ありがとうございます

 それにしても、退魔の様子を、四方から撮っていたというのだから、宇賀月の財力には恐れいる。

一つ経験すりゃ、後は早い。次の依頼がきているよ

!?

 余韻に浸る間もなく、次の仕事の話を始める静流を見て、和奏は慌てた。

あああの、おばあ様。やっぱり、私は当主に向いてないんじゃないかなぁなんて……

気弱な子だねぇ。どう思う? 総司

 静流は襖越の廊下に呼びかけた。

ッ!?

 タイミングを図ったように襖が開き、正座待機していた総司が現れた。

和奏さんの退魔剣舞はお見事でした。彗星の如し身のこなし。綺羅をまとうように美しかったですよ

!?

 唖然呆然。狼狽えまくっていた姿の一部始終を見ておいて、総司の自信はどこからくるのだろう。
 絶句する和奏を見て、静流と総司は微笑んだ。この流れに、はっとなる。嫌な既視感に襲われた。

総司、これからも和奏を支えてやっておくれ

お任せください

ちょっと待って!

和奏さん、これからもよろしくお願いします

あの、えっと

 口を挟もうにも、思考を切り替えて、仕事の話を始める二人の頭の回転の速さについていけない。

とほほ……

 和奏は一人、項垂れるのであった……

 それぞれの部屋に戻る際、階段の下で総司に呼び止められた。

今夜は平気?

 一人で眠れるか、心配されているらしい。

あ、うん……大丈夫

そう。お休み

 少し残念そうに見えたのは、気のせいだろうか?

ねぇ、総司。本当に私が当主でいいと思う?

もちろん

 本当に知りたいのは、そこではないのだが、恥ずかしくて直球で訊けない。

宇賀月の次代だから、というだけじゃない。和奏がいい

ッ!?

 心を読まれたのかと思った。柔らかな微笑に体温があがる。整った顔を直視できず、和奏は思いきり顔を背けた。

和奏だから、守りたいと思うんだ。和奏は臆病だけど頑張り屋で、かわいいよ

 透明感のある声が、妙に艶めいて訊こえた。

ななな何いってるのッ……お休み!

 慌てて階段を駈け上がる。
 本当は、一人で眠るのは怖いと思っていたのだが、恐怖は一瞬にして吹き飛んだ。
 いや、別の意味でドキドキして眠れないかもしれない。
 明日、どんな顔で挨拶をしよう。そんなことを考えて、ふと明日を楽しみにしている自分に気がついた。
 本家にきてからずっと鬱としていたけれど、今夜を総司と二人で乗り切ったことで、今までになかった自信が少しは身に着いた気がする。

うん。明日も頑張ろう。

 自然とそう思えたことに、和奏は自分でも驚いていた。

pagetop