それは結婚式まで、あと3日のことだった。

 珍しく夜明け近くに目が覚めたリリアナは、傍にもうヨルがいないことに気が付いた。

リリアナ

そういえば、ヨルってどうやって帰ってるのかしら

 いつも先にリリアナが寝てしまうせいで、それは謎のまま残っていた。
 カティナが迎えにくるならリリアナにも気づくように賑やかに来そうだ。

リリアナ

今度、ヨルに聞いてみよう……

 机の上においてある水差しから水を飲もうとベッドから起き上がったときだった。

 部屋の外から轟音が響き、走る足音が同時に聞こえた。

リリアナ

え!? 何!?

 リリアナが廊下に出るとそこには、血まみれで駆けてくるヨルと、それを追いかけるギースの姿があった。

リリアナ

ヨル!?

ヨル

馬鹿、来るな!

 再びの轟音。
 それがギースの手から放たれた火球の音だと気づいたときには、リリアナはヨルの体当たりを受けていた。
 よろめいて体勢を崩したぎりぎりのところを火球は通り過ぎていく。

リリアナ

これが、人を従わせる魔法……!

 リリアナはぞっとして、嫌な汗が吹き出すのがわかった。
 とっさにヨルを抱きかかえ、自室に連れ込む。
 扉を閉めようとしたとき、再びギースが手を振った。

 魔法の剣が何本も宙に浮かび、リリアナとヨルめがけて降り注ぐ。

ヨル

リリアナ、離せ! ギースの狙いは俺だ!

リリアナ

何言ってるのよ、そんな血まみれで!

 リリアナは乱暴に扉を閉める。
 けれども、魔法の剣はその扉を通過してこちらに向かってくる。
 一か八かでそれを避けようと横に跳ぶと、剣は床に突き刺さり消えた。

 ほっとするのもつかの間、ギースが冷たい笑みを浮かべ、部屋の扉を開けていた。

ギース

リリアナ王女。その犬を渡してもらいましょうか

リリアナ

私の大事な友だちを渡すと思って?

ギース

友だち。……くくっ、友だちですか

 ギースは一歩こちらへと踏み込む。
 リリアナはそれに合わせて一歩後ろへと下がる。

ギース

これは面白いことを聞きました。夜が明けたときでもそう言っていられるのでしょうかね

リリアナ

どういうこと……?

ヨル

いいから、俺を離せ。俺があいつのもとへ行けば、お前は殺されはしないはずだ

 腕に抱きかかえたヨルが、息も絶え絶えに言う。
 リリアナの手に血のぬめりがつき、リリアナはヨルの命が心配になる。

リリアナ

……嫌よ

 だから、リリアナはきっぱりと拒絶した。

ギース

ならば、王女の命もろとも――

リリアナ

ヨル、少し我慢してて!

 リリアナはできるだけ優しくヨルをベッドのほうへ投げると、魔法の呪文を唱えようとしたギースへと向かって床を蹴った。

 胸元からお守りとしてずっと持っていた短刀を抜く。

ギース

なっ……!?

リリアナ

ごめんなさい!

 ギースがたじろいだ瞬間にリリアナは短刀を下から上へと振るった。
 けれどもそれは硬いものによって阻まれる。

 ギースの前に見えない盾ができていた。
 おそらくは魔法の盾だろう。

ギース

さすがは武力の国の王女といったところですか。油断も隙もない。けれども、魔法には勝てない!

リリアナ

やってみなくちゃわからないわ!

 リリアナは一度距離を置くと、再び床を蹴って短刀を突き出した。
 ギースはにやりと笑って掌を突き出した。
 衝撃波がリリアナを突き飛ばす。
 リリアナは床を転がった。

ギース

仕方ありませんね、王女もろとも仲良く殺したほうがよさそうだ

 ギースがゆっくり近づいてくる。リリアナは手にまだ短刀があることを確かめると、跳ね起きてギースに体当たりをした。
 ギースは数歩後ずさるが、それだけだ。

ギース

女の力でできることなど、たかがしれてるのですよ

 ギースはリリアナを見下ろし、不敵に笑う。
 その笑みにリリアナは笑みで返した。

リリアナ

そっちこそ、あまり私を怒らせないほうがいいと思うわ!

 数歩しか離れていない距離は短刀の攻撃範囲だ。
 リリアナは思い切りギースの左肩に短刀を突き立てた。

 ギースは悲鳴をあげて、リリアナを突き飛ばす。
 リリアナの手から短刀が離れ、リリアナは再び床を転がった。
 ギースは短刀を引き抜く。血が飛び散った。

ギース

とんだじゃじゃ馬だ。苦しみながら死ね

 ギースの右掌に光が集まる。
 魔法だ、と思ったが、リリアナはもう動けない。
 思わず目を瞑る。

ヨル

リリアナ!

 ヨルの声が聞こえて、リリアナは最後の力を振り絞って床を転がった。

リリアナ

ヨルをこのままにしておけないわ!

 一瞬前までリリアナがいた床が焼けている。
 その容赦のない焦げ方にリリアナはぞっとした。
 ギースは本気でリリアナを殺す気だ。

 ギースの手が再びリリアナに狙いを絞る。
 起き上がる暇はない。

リリアナ

どうする――!?

カティナ

リリアナ、そのままでいて!

 不意に声が聞こえたかと思うとギースの体が吹き飛んだ。
 リリアナは振り返る。

リリアナ

カティナ!

カティナ

言ったでしょ、リリアナはあたしが守るってさ!

ギース

この魔女……!

 ギースが身を起こしながらカティナとリリアナを睨む。
 カティナは髪をかきあげて、にっこりと笑った。
 それはまさに『魔女』の貫禄が漂っていた。

カティナ

あたしとあんたじゃ格が違うけど、どーする? 相手してあげてもいいけど?

ギース

……怒らせたことは覚悟しておくといい

 ギースは捨て台詞のように言うとリリアナの部屋を出て行った。

 リリアナは慌てて起き上がるとヨルへと駆け寄った。

リリアナ

ヨル!

ヨル

お前、馬鹿だな……。犬のために、命を落とすつもりかよ……

リリアナ

黙って! 血がまだ止まってないじゃない!

 リリアナはヨルの体を検分する。
 ふわふわの毛並みは焦げて縮れ、その下の皮膚から血が溢れている。

 犬の止血方法などリリアナは知らない。
 リリアナはカティナを振り返った。

リリアナ

カティナ、ヨルを助けて

カティナ

どーしようかなー。あたし、ヨル、好きじゃないし

リリアナ

お願い、カティナ

ヨル

……カティナ、もういいぞ。もうじき、朝が来る

 ヨルはそう言うと目をつむった。

 外がじわりと朝焼けににじみ始めているのをリリアナも見た。
 藍色の夜が白い朝へと移り変わっていく。

リリアナ

どういうこと――

 リリアナが見ている前で、ヨルは真っ白な煙に包まれた。

リリアナ

ヨル!?

 リリアナはとっさに煙へと手を伸ばした。
 犬のふわふわした感触は消えていた。

 煙が晴れたとき、そこにいたのは犬のヨルではなくて人間のヨシュアだった。

リリアナ

ヨシュア……?

 血は流れたまま、ヨシュアは青白い顔で笑う。

ヨシュア

騙していて悪かった。ごめん。――それだけ、言いたかった

 そう言ってヨシュアは目を閉じた。
 とっさにリリアナはヨシュアの体に目を走らせ、手を握る。
 まだ温かい。
 血が流れているのは右の脇腹だけだ。
 あとは火傷の痕があちこちに残っている。

リリアナ

カティナ、お願い!

 カティナは苦い顔でヨシュアを見下ろす。
 カティナは頭を掻いた。

カティナ

……まあ、最近のヨシュアは、あたしも嫌いじゃないし

 カティナはそう言うとヨシュアの脇腹に手を当てた。
 途端に血が止まる。
 ほっとして座り込むリリアナを見て、カティナは腰に手を当てた。

カティナ

事情、聞かなくていいの?

リリアナ

教えてもらえるの?

カティナ

聞きたくないなら教えない

リリアナ

聞きたいし、知りたいわ。教えて

 リリアナはまっすぐにカティナを見上げる。
 カティナは床に落ちていたリリアナのお守りの短刀を拾ってきて、血を拭き取るとそれをリリアナに差し出しながら口を開いた。

カティナ

ヨシュアに魔法をかけてたんだ

リリアナ

魔法?

カティナ

夜の間だけ犬になる、呪いの魔法。もう十年近くかな。ヨシュアが犬に噛まれたとき、その犬を殺したの。それでね

 カティナがそこまで話したとき、不意に扉の外側が騒がしくなった。
 リリアナはカティナの手から短刀を受け取って、耳をすます。

リリアナ王女、ヨシュア王子ならびにギース殿を刺し殺そうとした罪で捕縛する!

 リリアナとカティナは顔を見合わせた――。

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