エルス王国での初めての夜がやってきた。
エルス王国での初めての夜がやってきた。
夜は王子と2人で過ごすのが習わしって姉様たちが言ってたけど……一晩中お喋りをすればいいのかしら?
リリアナはその手のことは教わらずに来たので、ベッドに腰掛けて困惑していた。
昼間のことを思い出すと嫌な予感にばかり囚われてしまう。
ヨシュアと一晩中お喋りしていたら、絶対に趣味が合わないことがバレてしまうわ。どうしよう……
心細くなったリリアナは大きな窓に歩み寄った。
お城の高いところに用意してもらったこの部屋からは、月も星もよく見えた。
月はどこから見ても同じ形なのね。星はなんだか違うような気がするわ
その事実で、リリアナは初めてひとり、遠くに来てしまったことに気づく。
昼間は興奮して考えもしなかったが、この国でたったひとり過ごしていかなければいけないのだ。
寂しさがこみ上げてきて胸が苦しい。
リリアナは夜着に着替えても持っていた、お守りの短刀を握りしめた。
今はこれだけが母国とリリアナを繋ぐものだった。
リリアナは首を振ると、窓に背を向けた。
ヨシュアを待っているから寂しくなるのだったら、寝てしまおうと思ったのだ。
ヨシュアが来たら、その時にまた起きればいい。
そのとき、窓をコンコンと叩く音がした。
鳥か何かかと思ったリリアナは何気なく振り返り、窓の向こうで浮かんでいた人物に驚いた。
カティナ!
リリアナ、寂しいんでしょ?
寂しいわ。でも、どうやってこんな高いところに?
あたしは魔女だよ。空くらい簡単に飛べるの
それでリリアナはカティナと初めて会ったのも馬車の中だったことを思い出す。
おそらく魔女のカティナには行けないところなどないのだろう。
リリアナが窓を開けるとカティナは窓を乗り越えるようにしてリリアナの部屋に入ってきた。
しばらくリリアナの部屋を興味深そうに眺めてから悪戯っぽい笑みを浮かべる。
リリアナが寂しいと思って、友だちを連れてきたよ
友だち?
カティナは頷くと胸元からふわふわの毛玉を取り出し、リリアナに押し付けた。
リリアナはそれを抱きかかえる。
動物だわ!
眠っている小型の動物だ。だが、それが何かわからない。
これはね、愛玩犬って言うんだよ。名前は……そうだなあ、ヨルってしておこうか
カティナの言葉にリリアナは目を輝かせて腕の中のふわふわな生き物の顔を覗き込んだ。
犬と言えば野犬か、狩猟用の犬が大部分だが、リルザ王国よりもっと大きな国では愛玩用として犬を飼っていると聞いたことがある。
その犬は小さくてふわふわで愛らしいのだという噂だった。
おそらくリリアナが今抱きかかえている犬がそれなのだろう。
カティナはリリアナが寂しいことを察して犬を連れてきてくれたに違いない。
カティナの優しさに胸が温かくなる。
同時に心配なこともあった。
でもカティナ。ヨシュアは動物が嫌いなのよ。私、この部屋でこの子を飼うことはできないわ
ん、夜の間だけ遊べばいいじゃん。だから名前はヨル
ふと昼間ヨシュアがカティナのことを言っていたことを思い出した。
いいときも悪いときもある、まるで天気のよう――。
けれども今、リリアナのことを考えてくれているカティナは悪いことをするようには思えない。
友だちだからだろうか。どちらにしろ寂しかった心が癒やされていくのを感じていた。
ありがとう、カティナ。よろしくね、ヨル
リリアナがヨルの顔を覗き込んだとき、真っ黒な瞳がぱちりと開いた。
その様子も普通の犬とは違い、愛くるしい。
リリアナがヨルの可愛らしさに胸がいっぱいになっているのと反対に、ヨルは一瞬口を開けて驚いたような顔をするときょろきょろとあたりを見渡した。
そして口を開く。
カティナか! ここはリリアナの部屋か!? 俺をこんな所に連れてきてどうするつもりだ!
え!?
リリアナはヨルを身から離して思わずまじまじと見た。
カティナ、愛玩犬はみんなこういう風に喋るものなの?
喋るわけないだろ! お前、馬鹿か!?
ヨルの剣幕に思わずたじろぎ、リリアナは助けを求めるようにカティナを見た。
カティナはにやにやとリリアナとヨルを見て笑っている。
あたし、一晩中いられないしさー。リリアナも喋る相手がいたほうがいいと思って。ヨルが特別なんだよ
魔女! 嫌がらせはやめろ! リリアナもさっさと俺を下ろせ!
でも……
ヨルの手触りは下ろしてしまうにはもったいないほどふわふわだ。
リリアナが躊躇っていると、カティナが手を上げた。
じゃあ、あたしは帰るねー。リリアナまたね!
え? え?
待てってばカティナ!
困惑しているリリアナと激怒しているヨルをよそに、カティナは実に楽しそうに窓から外へと飛び出していった。
夜風にカーテンが揺れ、少しだけ寒く感じる。
リリアナとヨルは顔を見合わせた。ヨルはため息をつく。
……とにかく、まず俺を下ろせ。こんなところに一晩中いられるか
リリアナは言われたとおり床にヨルを下ろすも、ヨルの前にしゃがみこんだ。
私、寂しいの。少しお話ししていかない?
なんで、俺がそんなことしなきゃいけないんだよ
だってそのためにリリアナはヨルを連れてきてくれたのよ
それはリリアナの勝手だ。というか俺が困るのを見て楽しんでるだけだ
ヨルは態度を崩さない。
リリアナはヨルの頭を撫でた。
撫でているだけで落ち着くふわふわの毛並み。
ヨルは黒いつぶらな瞳でリリアナを睨んでいた。
帰るなら仕方ないけど……窓から帰るの?
落ちて死ぬからやめろ
ヨルは飛べないのね。でもお城の中を通ってヨシュアに見つかったら、きっと殺されちゃうわ。ヨシュアは動物が嫌いなんだもの
ヨルはふん、と鼻を鳴らした。
それは隠れて行くから大丈夫だ。夜の間なら人目にもつかないしな
そっか……
あくまでも出て行くつもりのヨルにリリアナはうきうきしていた気持ちがしぼんでいくのがわかった。
またひとりになってしまうと思うと余計に寂しい。
……そんなに寂しいのか?
ヨルが渋々という風に尋ねた。
リリアナは頷く。
喋り相手ができたと期待していた分、失望は大きい。
お前さ、あんな大国の王女なのになんで侍女をひとりも連れてこなかったんだ?
ヨルは私のこと、詳しく知ってるのね
リリアナが目を丸くするとヨルはぷるぷると体を震わせて、
まあな
と言った。リリアナはヨルを撫でながら言う。
私が断ったのよ。父様は馬車を何台も連ねて行こうって言ったんだけど、私はエルス王国の人間になるんだもの。できるだけ、ここの国の人に慣れたかったの
戦を回避するための政略結婚なのに?
でも、この国は好きよ。森も動物も魔法も、リルザ王国にはなかったものだわ
ヨルは少し考えるようにリリアナを見上げていた。
黒い瞳をそっと伏せる。
お前は生粋の王女だな。俺だったら政略結婚なんて嫌だぞ
あら、ヨルは犬だもの。犬は誰と結婚しても自由でしょ?
物のたとえだ。まあ……それじゃ仕方ない。少しくらい話し相手になってやる
ヨルは偉そうに言うと床の上にきちっとお座りをした。
尻尾をぱたぱたと揺らす。
その様子も愛くるしくてリリアナはヨルの頭を撫でた。
頭を撫でるな! 失礼な
あら、可愛いんだもの。赤ちゃんだって可愛いと頭を撫でるでしょう?
俺を赤ん坊と同じに扱うな! お前、失礼なヤツだな!
ヨルはぷんぷんと怒りつつも部屋を出て行こうとはしない。
変なところで律儀な犬のようだった。
人、もとい犬の嫌がることはやめようと、リリアナは撫でるのをやめた。
リリアナはヨルの前に足を抱えて座り、ヨルの顔を覗き込んだ。
ヨルはヨシュアのこと知ってる?
まあな
ヨルって物知りなのね。じゃあ、ヨシュアが動物も魔法も嫌いなことも知ってるわよね? どうしてだか知ってる?
魔法が嫌いな理由なら知ってるぞ
ヨルは渋々という感じで言った。
リリアナはヨルに顔を近づける。
ヨルの黒い瞳が陰ったように感じられた。
どうして?
魔法が使えるのはごく一部の貴族だけだ。カティナは例外。あいつはどこに住んでてどんな経歴なのかもわからない
そういえばギースがそんなことを言っていたわ。ヨシュアは魔法を使えるのかしら?
……あいつは使えない。王族で魔法が使えないのはあいつだけだ
え……
リリアナは言葉を失った。魔法の国の、魔法を使えない王子。
あいつの苦労は知らないが、魔法を使える貴族がのさばってるのは事実だ。魔法が使えるものは貴族。使えないものは平民
……身分差があるのね
リリアナは納得して頷いた。
リルザ王国にも身分差はあったが、実力があれば平民から登用されることも少なくなかった。
けれども、ここエルス王国では魔法が使えるか否かがすべてを決めるのだ。
それは実力のあるものにとっては不公平だし……何よりヨシュアの立場を考えると複雑なものがある。
お前は意外に物分りが早いな。話しがいがある
あら、私はヨルを撫でてるほうがいいけど
だから撫でるな! そろそろ寝ろ!
ヨルは身を引いて威嚇した。
手を伸ばしかけていたリリアナはしょんぼりと手を下ろす。
だって寝てしまったら、明日はヨル、来てくれないんでしょう?
当たり前だ! 毎晩なんて来られるか!
それを聞いてますますリリアナはしょんぼりしてしまう。
せっかくできた友だちなのに、寂しいわ
俺は友だちになった覚えはない
じゃあ、せめて寝るまで一緒にいて?
人の話を聞け!
リリアナはヨルを抱え上げる。
ヨルは嫌がってリリアナの腕の中でばたばたと暴れた。
リリアナは問答無用でベッドまでヨルを連れていく。
お前、恥を知れ! 男と一緒にベッドに入るつもりか!
あら、だってヨルは犬でしょう? 犬はオスだもの、関係ないわ
関係ある! いいか、お前も一国の王女だったら警戒心ってものをな……
母国の侍女みたいなこと言わないで。いいじゃない、ヨルも一緒に寝よう
リリアナはヨルを抱いたままベッドに倒れこむ。
ヨルはじたばたと腕の中で暴れるが、それよりもリリアナは眠くなってきた。
ヨルの温かさが眠気を誘う。
こら、起きろ、リリアナ! このまま寝るつもりかー!
ヨルの悲鳴が遠くに聞こえる。
リリアナはふわふわのヨルの毛に頬を当てながら意識を手放す。
緊張や寂しさがほぐれているのを感じた。
明日はヨシュアともっと話しあえますように
魔法の国の魔法を使えない王子。
それもきっと寂しいのだろう。
リリアナのつぶやきに、ヨルが小さなため息をついたのはリリアナの耳に届かなかった。