足元の感触が変わってきている。
地面はさっきよりもずっと平らに均されているように感じる。

雨の夜の散歩のときには、慎重にゆっくり歩かなければならなかった。だがいまは足元に気をかけることなく、コーラルは小走りになっていた。

先生のところにいるから、そんなに急がなくても大丈夫だよ

そういいながらも、ライオネスは歩調を合わせてくれる。

木々の合間から、いくつもの屋根がのぞくようになっている。
コーラルは緊張に大きく息を飲んだ。ストールの端を引き、目元が隠れるよう意識する。

村の規模がどのくらいかもコーラルは知らずにいた。

それなりの大きさの村ですねぇ。国のはじっこですから

以前尋ねたとき、ラトゥスはそういっていた。
どうとでも受け取れる言葉だ、といまになってコーラルは思った。
それなり、という言葉がどのていどのものなのか判断できなかった。ちいさい村も、大きな街も、コーラルは歩いたことはないのだ。

 はじめて知らない人間だらけの村に踏み入れたコーラルの足は、小刻みにふるえていた。

 


森の家をコーラルは気に入っている。

森にやって来て、コーラルは着せられていた邪眼という重いコートを脱ぐことができた。

誰もコーラルが――邪眼ゆえにおもてに出ることの許されない娘がいるなど知らない。

隔離された邪眼の娘のために、誰かが気遣っていることも、胸を痛めていることもない。
ごめんね、と謝る母の声は、耳の奥でよみがえっては時々コーラルを苦しめた。

森の家では、まっとうに、ひっそりと暮らしていれば、コーラルの肉親の手を煩わせることは起こらない。

森に居を移してしばらくは、まぶたを母の顔がよぎった。
邪眼の娘の顔を見られないまま、それでも時間を都合して母は屋敷の部屋を訪れてくれた。
コーラルの横に腰を下ろし、できるだけ話し相手になろうとしてくれた。

それが重荷だった。

おもての話を聞かせてくれるのはいい。母を愛しているから、そばにいてくれるのは嬉しい――だが母はコーラルを不憫がる。
コーラルが邪眼を持って産まれてしまったことを、母は幾重にも重ねて謝る。

娘を憐れみ、涙ぐむ。幼いころから延々と聞かされた母の言葉に、コーラルは膿み疲れていた。

疲弊し、飽き、母は娘ではなく自分を憐れんでいるのだ、と思うようにさえなっていた。邪眼の娘を産んでしまった悲劇を、自ら慰めようとしている。

そう考えるようになった自分がいやだった。

ラトゥスの言葉ではないが、弟の縁談は渡りに舟だった。
淋しいだろうと予想された森での暮らしに、コーラルは安らいでいる。
一緒に暮らしているラトゥスは自分を憐れまないから、気が楽だ。

安穏と暮らしていたが、自分がラトゥスを頼り、彼女への気遣いを欠いていた、とコーラルは恥じ入っていた。

処方された鎮静剤を飲んだそうで、頭に包帯を巻いたラトゥスはベッドに横になっている。
真っ白い包帯と、やはり真っ白いラトゥスの顔色が痛々しい。

到着した村の中心部、医師のドゥルザは強面の初老の男性だった。
ライオネスに連れられて来たコーラルを、ラトゥスの孫だと思ったようだ。
彼は腹の底から放つような大きな声で話した。

ばあさんなら寝てる。そばにいてやって、飽きたらこっちに顔を出しなさい。ばあさんは今日は泊まらせた方がいい、あんたはどうするか、ばあさんの顔を見て決めなさい


コーラルのいい分を引き出すつもりはないらしく、ドゥルザ医師はひといきにそういうとべつの部屋に引っこんでしまった。

ベッドひとつと丸椅子だけで窮屈に感じる部屋で、ラトゥスは横になっていた。

横の丸椅子に腰を落ち着け、コーラルはラトゥスにすべてを任せきりにした自分を叱責していた。
ちょっと家事を手伝うくらいでは、ラトゥスの負担は大きかっただろうに。

上掛けから出る老いた手をにぎろうか逡巡していると、ぽかりとラトゥスの目が開いた。

ラトゥス、大丈夫?

身を起こそうとするラトゥスを留め、コーラルは微笑もうとするが、うまく微笑むことができない。

ぽろぽろ涙がこぼれて、ベッドのなかでラトゥスが目を見開いた。

申しわけありません……うっかり転んでしまって。年は取りたくないもんですねぇ


ラトゥスの笑みはひどく弱い。

無理をさせて……ごめんなさい

いいえ! 無理だなんてそんな……あたしがうっかりしてるせいで、お嬢さまにここまで来ていただくなんて……


ラトゥスはうっすら涙を浮かべ、くちびるを噛んだ。
誰でも自分は健勝のつもりでいるだろう。
転んで意識を失い、ラトゥスは相当なショックを受けているようだった。

村のひとに影響がないうちに、私は戻った方がいいかもしれない。ラトゥスはお医者さまの指示にしたがって。無理しないで

あたしも戻ります、こんな、寝てなんて

駄目よ――とにかく、私は先生にお話をうかがってくるから、おとなしく寝ていて


不承不承といった様子だが、ラトゥスがうなずくのを見てコーラルはほっとする。

椅子を立ち、ストールを巻き直してコーラルは部屋を出た。
ドアの先はすぐ診察室を兼ねた大部屋になっている。
先生はおらず、コーラルを案内してくれたライオネスが紙面から顔を上げたところだった。

……あの、先生は

ちょっと出てる。おばあさんはいいの?

どういった具合なのか、先生にお話をうかがおうと思って

すぐ戻ると思う。待ってる間、お茶でも

いえ、お気遣いは……

俺が飲みたいから、つき合ってよ


彼は勝手知ったる態度で、診察室のはじにあるちいさな調理台でお茶の支度をはじめた。

すわってて

てきぱきと動く彼の背を眺めていたコーラルは、まともな礼もしていないことにいまさら気がついた。

供されたお茶は、薬草茶なのか、独特の風味の強い――のどごしの悪いものだった。
顔をしかめかけたコーラルに、ライオネスは歯を見せて笑った。

ちょっと飲みにくいかな。でも最初だけで、半分くらい飲むと、いけるようになる

ええ……い、いただきます


彼の言葉通り、二口三口と飲むときゅうに味に慣れた。

あの――先ほどはありがとうございました。わざわざ来ていただいて……

いいんだ、いきなりドア開けたりして……不作法で申しわけない


空になった器をテーブルに置いたコーラルに、ライオネスもおなじく器を置いた。

これ、もしかしてはじめて飲んだ?

あ、はい

おばあさんもそうだけど、このあたりのひとじゃないよね?


コーラルはなんと返すか迷い――迷う間にも、ライオネスは言葉をつなげる。

あそこ、伯爵の持ちものでしょ? おばあさんが狩りの支度で住むようになった、って前に聞きかじったんだ。きみは――下女には、見えないかな

それ、は


なんと返そう。頭に血がのぼる。なにかいわなければ、と気持ちがやけに焦る。

おばあさんのことも呼び捨てだし、買いものに出てたのもおばあさんだけだし

詮索ですか


やっと出てきた言葉は、コーラル自身驚くような冷たい声だった。

そうだよ


するりとライオネスに返されて、コーラルはまた言葉が出なくなる。

村にまともに挨拶もしないで、おばあさんだけが住んでるって話だったのに、きみまでいたわけだ。俺以上の詮索を覚悟した方がいいよ。雑貨店にも、手を貸してくれた若い衆にも、先生にも礼をいわないと


ストールの影で、コーラルは顔が熱くてたまらない。彼は親切だ。親切心から、コーラルの不作法を指摘し、指南しようとしてくれている。

詮索ついでだけど、森にずっと住むの?


コーラルはこたえられない。そんなことを――考えたこともなかったからだ。

だったらそれこそ村に顔を出してないと


ため息混じりの声に、コーラルはうつむいた。ポットに入れてあったお茶を、ライオネスは空になったおたがいの器に注いだ。
ふわりと鼻をつくにおいがテーブルに漂う。

療養かなにか? 目の色が薄いようだけど、そっちかな

コーラルは肩を震わせた。

――やっぱり見られている。

彼がどんな表情をしているのか確かめたかったが、怖くて顔を上げられない。忌々しげな顔をするだろうか? なにか邪眼の影響が及んでいるだろうか――

このへん、冬にはけっこう雪が積もるよ。照り返しは平気かな。そろそろ祭りもあって……


ライオネスの声が止まった。
ストールのはしをにぎり、コーラルはうつむいたままだ。

大丈夫?


向かいにすわっていたライオネスが立ち上がる。

コーラルさん?


テーブルをまわりこんだ彼の手が肩に置かれ、コーラルはまた身体を震わせた。

具合悪いのかな、もしかして


顔を上げられない。
首を振ろうとしたものの、コーラルはただ固まったようにすわっていた。

えっと……空いてるベッドがあるはずだから、横になってる? おばあさんも今日は休んでてもらったほうがいいみたいだし……

わ、わた、し


――どういえばいい。

脳裏で思考が空回りしている。
肩に置かれたライオネスの手が、ゆっくりコーラルをなでる。落ち着け、と諭されているようで、コーラルは大きく深呼吸をした。呼気がやけに震え、鼻の奥がつんとする。

――どういえばいい。

屋敷で聞かされていた言葉を、そのまま口に出すのはいやだった。
抵抗がある――自分が邪悪だからと、そんなことをいいたくない。
しかしいわねばならない。

すでにライオネスはコーラルの目を見ている。
森の家で彼と視線が合ってしまっていた。 彼には影響があるかもしれない。

私の目……は

落ち着いて、急かしてるわけじゃない

丸椅子を持ってきて、ライオネスはコーラルの横に腰を下ろした。

わ、私の目、邪眼で……


最後までいう前に、涙がこぼれはじめた。

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